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第九話『対峙する勇気』

 紗枝にとって有沢ましろという転入生の存在は、これまでにない大きな刺激だった。刺激――というよりも、それは救いに近かったのかもしれない。

 彼女にとっての学校生活とは、闘争の生活だっと言って過言ではない。闘争の対象は自分であり、自分の中にいる憂鬱たる気持ちだった。紗枝は「いつも一緒にいようね!」というような、ベタベタとした友達付き合いが好きではなかった。彼女の周りにはそれがあふれていて、だからといってみんなが仲良しで和気あいあいとしている――わけでは、当然ないのだった。当たり前のように陰口は横行するし、当たり前のように関係の断絶と修復が繰り返される。

 そんな日常が嫌だった。

 友達がいないわけではない。

 嫌いなわけでもない。

 それでも、その日常は大嫌いだった。

 できることならばいっそ、この日常から逃げ出してしまいたい――そんなことを考えていた時、ましろが彼女の前に現れた。

 ましろの「どうでも良さ」加減は、まさに紗枝の望んだものだった。あの教室内を見渡す興味の無さそうな目――緊張も何もない、無感動な目は、しかし逆に紗枝の興味を惹きつけた。

「今日さ、ましろの家に行ってもいい?」

 その日の紗枝は、自分が驚くほどに他人に踏み込んだ。いつもなら、学校で一日中同じ人といるなんてことはないのだが、その日はましろとどうにかして友好を深めようと必死だった。

「……うん」

 だから、彼女自身が身震いするようなありえない行動を、ましろが悩みつつもうなずいてくれた時、紗枝は本心から喜んだ。

 ましろとの会話は、会話とは言えないものだった。紗枝が一方的にしゃべり、ましろはたまに相槌を打つだけで自分から話そうとはしない。ひどい時には相槌すら打つことなく、聞き流していることさえあった。ただ適当に、空気のように、ましろは紗枝を扱っていた。そしてそれは、ある意味では紗枝も同じだった。

「有沢さんって、冷たいよね」

 紗枝は何度か、クラスメイトたちからそんなことを言われた。そのたびに紗枝は「そんなことはないよ」と、クラスメイトたちに反論した。紗枝はましろが冷たいと思ったことは一度もない。

「ましろちゃんは優しいよ」

 そう言って、紗枝はましろの元へと向かう。まだまだ付き合いは短い。それでも、彼女にとってはもはや、ましろの隣が一番落ち着く場所になっていた。

「紗枝ちゃんはわたしから離れないね」

 ある日、教室を移動している時にましろが言った。

「どうしたの、突然」

「他の人はすぐにわたしに声をかけなくなったけど、紗枝ちゃんはそんなことないよね。わたしにはそれが不思議なの」

 相変わらずましろは無表情にそう言ったが、紗枝はそんな彼女から感じるものがあった。どこか不安そうに見えたましろに紗枝は小さく笑い、

「不思議なことなんてないよ。あたしがそばにいたいから、ましろちゃんのそばにいるだけ」

 自分の素直な気持ちを伝えた。紗枝は不思議とましろに対しては素直でいられた。自分らしくいられた。気兼ねなく話すことができた。

 それはましろにとってもそうだった。今なお彼女を苛むあの事件以来、初めて一緒にいて安心できる人に出会った。祖父母は安心こそできるが、それ以上に遠慮が勝っていた。彼女にとって彼らの存在は感謝の対象でこそあれ、安心できる存在ではなかった。

「そうなんだ。変わってるね」

 そう言うましろの顔がかすかにほころんだのを、紗枝は見逃さなかった。

「ましろもね」

 ふたりは笑い合い、自分たちが欲しがっていたものが近くにあることを確認した。

 しかし。

 だが。

 当然だがお互いのことを知り尽くしたわけではない。知らないことはあるし、秘密だってある。

 突然明らかにされた友達の秘密に、紗枝の理解は追いつかなかった。目の前に現れた怪物、友達が操る狼。突然始まった戦い。理解などできるはずがない。今まさに目の前で繰り広げられているのは、それまで漫画やゲームの中だけで行われてきたことでしかないのだから。

 普通ならありえないことだ。

「なにがどうなってるの……?」

 積み上げられたダンボール箱の陰に隠れ、膝を抱えて呟く。ましろは危険だから隠れていろと言ったが、ならばどうして彼女もいっしょになって潜れないのだろうか。紗枝が呼び止める前に、ましろはすでに走り出していた。

 その場に残された紗枝はダンボールの陰から頭を出して、ましろが走っていったほうをのぞいた。目に見える範囲にはましろの姿はなく、どうやら階段を降りて階下へ降りたようだ。その証拠に、たった今、下から甲高い金属音が聞こえた。

 紗枝は四つ這いで移動し、階段から下をのぞきこむ。

「夢だって、言ってよ……覚めてよ……」

 今日はましろと遊ぼうとしていただけのはずだ。どういう運命のいたずらで、化物の戦いを見なければいけないのか。どうしてそれに巻き込まれているのか。

 どうして――そこにましろが立っているのか。

 狼と卵が戦っている。卵の機動力は、さっきまでと比にならないほど向上していて、狼はそれに翻弄されていた。狼の唸り声が倉庫内に響き、思わず体が震える。今まで聞いたことのない、野生の感情だけが純粋にこもった声だった。

 紗枝は青い顔で男をにらみ、男はニッと嫌らしく笑う。

「歌え! ハンプダンプ!」

 佑樹が指示を出すと同時に、卵の化物が大きな口を開け、不快な「音」を発した。紗枝はその音が聞こえたと同時に両手で耳を塞ぎ、その場にうずくまった。黒板をひっかく音のような嫌悪感と、妙な脱力感が紗枝を襲う。吐き気を抑え、紗枝はもう一度、「戦場」をのぞく。

 そこで紗枝が見たものは、しかし、彼女の予想とはかけ離れた光景だった。気分が悪くなる程度の音だと思っていたそれによって、ましろの顔は真っ青になっていて、狼は狂ったように暴れている。

「な……んで?」

 今なお響く「詩」は、決してましろのような状態に陥るようなものには感じられない。今にも吐きそうだが、しかしそこまでだ。

 どう考えても――ましろのようになるはずがない。

「でも……」

 現にましろは苦しんでいる。

 こつん。

 足音が響いた。音のしたほうを見ると、佑樹が下卑た笑みを浮かべながら、ましろのほうへ歩いていた。彼は両手を広げ、芝居がかった仕草で「(えん)()(うた)第一節『抜け殻の詩』。この詩が完結した時、お前の命は終わる」と、どこか歌うような響きを持って言った。

「え……?」

 命が終わる。

 馬鹿馬鹿しいと、紗枝は思った。どうしてこんな「音」で命が終わるというのか。けれども、紗枝は納得せざるを得ないのだった。目の前で苦しむましろが、何よりもの証左だ。

「どうにかしなくちゃ――」

 紗枝は立ち上がり、音がしないように慎重に移動し、倉庫に残された荷物をあさり始めた。そこにあるものは、どれも武器になるようなものではなかった。紙の束や腐敗して使い物にならなそうな木材。そういった物が雑多に置かれている。

「はやく……はやく……」

 焦れば焦るほど、視界は狭まり、見つけたいものは見つけられなくなる。それがあるかどうかもわからないものならばなおさらだ。

「なに?」

 紗枝は異変を感じて手を止めた。異変の正体はすぐにわかった。さっきまでとは響いている音が違うのだ。今度はもっと「詩」らしくなっていて、悲しげな悲鳴が響いている。そしてそれに伴って、紗枝の体調もさらに悪化していた。吐き気だけでなく、頭痛や倦怠感もある。

「――っ、ましろちゃん!」

 さっきの音でさえ、今にも死んでしまいそうになっていた親友を思い出し、紗枝は作業を放り出して、階段に駆けた。もう足音など気にしている余裕はなかった。どちらにしても、この「悲鳴」の中ではそれは下には聞こえまい。

 階下の有様はひどいものだった。銀狼はすでに力なく伏せているだけで、ましろもさっきよりも切羽詰まったようすで頭を抱えている。状況があっかしているのは、誰が見ても明らかだ。

 紗枝は我に返り、また「何か」を探し始めた。今度はすぐに見つかった。今紗枝が立っている反対側の壁に、数本の鉄パイプが並べて立てられている。そこに走り、両手に一本ずつ手にとって、階段の前まで戻った。

「怖くない。怖くない。怖くない……」

 けれど、どうしても下に下りるのが恐ろしくて仕方がない。化物の戦いの中に、人間の自分が、しかも生身で割り込んでいくのが恐ろしい。

「大丈夫。大丈夫。大丈夫!」

 こうしている今も、ましろは苦しんでいるはずだ――紗枝は深呼吸をして、そして、意を決して階段を駆け下りた。全身は重くて、気分が悪いなんていうどころではないが、それでも彼女は全力で駆け下りた。そして下り切ると同時に、音に気づいてこちらに向いていた男に向かって鉄パイプを一本投擲した。

 佑樹はひょいとそれをかわし、「危ないだろ」と紗枝を睨む。

「なんでこんなことをするの!」

 紗枝は叫んだ。

 彼はやれやれと言わんばかりにため息を吐き、頭を抱えて狂ってしまったようにうずくまるましろを見た。

「こいつをこうするように、ある人に頼まれたからだ」

「頼まれたから……それだけでこんな……」

 彼女には全く理解ができなかった。どうして頼まれたからという理由だけで、見ず知らずの人をここまで傷つけられるのことができるのか。それも――命を奪うことさえどうとも思わないのか。

 男が紗枝のほうへ歩き出す。それは完全に勝利を確信し、目の前に立っている相手を軽んじている歩き方だった。

 卵型の化物が男から離れたところにいることを確認し、紗枝は男に向かってではなく――卵型の化物、ハンプダンプに向かって走りだした。

「うあああああ!」

 鉄パイプを振り上げ、がむしゃらに走った。声は、無意識に出していた。化物に向かう恐怖心を振り払うには、声を出して自分を振り立たせるしかなかった。それはあまりうまくいっていないが、それでも立ち向かうことはできた。

 ハンプダンプに向かって走る紗枝を、しかし、佑樹は冷めた目で見ている。

「だから、無駄なんだよ。お前が何をしようと、この状況は変わらない」

 音が変わった。

 悲しく響きを持っていた「悲鳴」は、穏やかな――心洗うような「調べ」になった。

「円禍の詩第三節『慈愛の詩』」

「ぁ――」

 紗枝の視界は黒く染まり、気がつけば、全身が地についていた。

「もうおしまいだ。終わりだ。円禍の詩は全四節。もう第三節まで聞いたんだ。四節を迎えるまでもなく、俺が終わらせてやろう」

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