第七話『忍び寄る』
「ねえ大貴、泣きそうな顔しているけど、どうしたの?」
ましろの前に立つ大貴は、いつになく悲しい顔をしていた。そんな顔をましろは見たことがなく、ずっといっしょにいて気兼ねのない相手のはずなのに、遠慮がちに聞くことしかできなかった。
大貴はましろに気がつくと、やはり悲しそうな顔でましろを見返す。しかし大貴は何かを言おうとはせず、何も言わないまま、ましろをじっと見つめている。
「大貴?」
ましろから見て、大貴の様子は明らかにおかしかった。あまりにも大貴らしくなく、あまりにも不自然だった。その不自然は泣きそうな顔をしているだけではなく、気づいてみればもっと単純なことで、目の前に立つ大貴からはおおよそ生気というものが感じられなかった。そこにいるのは、まるで大貴の皮をかぶった「生き物のような何か」で、大貴であるとは思えない。
それに気づいたましろの顔は青ざめ、大貴のようなものから距離を取るために後退りし始めた。大貴は特にそのあとを追うようなことはしないが、ねっとりと絡みつくような目でましろをじっと見ている。もうそこには悲しみの感情はなく、能面のような無感動な顔があるだけだ。
「どうして」
目が離せないましろに、それはまとわりつく声で声をかけた。
「どうして、そんなに楽しそうなんだ?」
聞き親しんできたはずの声は、すでにましろの知っているそれとは違っていた。「どうしてそんなこと聞くの?」とやっとの思いで答え、微動だにしない大貴のようなものの様子をうかがう。
「俺は――」
それは無感動で無表情なそれから、恨めしそうなそれへと変貌した。
「――俺は死んだってのに」
「――え?」
そう言われて、ましろの脳裏にいくつもの画像が連続して流れた。大貴と遊んだこと、大貴とケンカしたこと、大貴と笑いあったこと、大貴と励ましあったこと、大貴とご飯を食べたこと、大貴が死んだこと。血まみれのリビング。並ぶ死体と死臭。家族が死んで、幼馴染が死んだ。涙さえ流すことができなかった葬儀。憂鬱な時間。
忘れていた――意識から押しのけていた記憶が蘇り、ましろは強烈な吐き気に襲われた。吐き気に逆らうことができず、口から酸っぱいものがあふれた。
「なんで?」
ゆっくりと、それが近づいてくる。
「なんで、ましろはそんなに楽しそうにしているんだ」
それが近づいてくる。伸ばしてきた腕を払いのけ、ましろは延々と暗い道を走る。どこまで続くかわからない暗闇の中、ましろは走り続けた。
「逃げるなよ」
けれど。
その腕はそれによって捕まれ、逃走することさえ叶わない。デロデロと崩れてしまいそうなそれの顔を見上げながら、ましろの視界は唐突に終わりを迎えた。
夢から現実に戻ってきたましろは、ぐっしょりと濡れたパジャマを脱ぎ捨て、体にじっとりと浮かぶ汗を拭った。夢の内容は覚えていないが、どうにも気分が優れない。あの日から今日まで、ましろは何度となくそういう朝を迎えてきた。今回が特別というわけではないが、それでも今日という日が紗枝と出かける日であるというのは、なんと言い難い気分である。
漏れてくるため息を抑え、ましろは一階に降りて、いつもどおりに朝食をとった。祖父母はすでに畑に出ており、もう家にはいなかった。ましろのために用意されていた味噌汁をすすりながら、ましろはこれからのことを考えた。このあたりの気分の切り替えは、もはや達人の域と達していた。それでも意識的に気分を変えなければ、延々と苛まされてしまうのだから、それは努力の結果であるとも言える。
その努力が報われた――というのは、少し違うような気もするが。
時刻を確認すると、九時十五分を指していた。紗枝が予約をしたのは十時からのはずだから、時間にはまだ若干の余裕がある。三十分頃に紗枝が迎えに来て、ましろは彼女の案内についていく手はずになっている。食事を終えたましろは、紗枝が迎えに来るまでの時間を持て余し、テレビを見ながらその時を待つことにした。電源をつけたら映された映像を、特に何も考えることもなくそれをただ眺めながら、ましろは座布団に座ってのんびりと時間が過ぎるのを待った。
紗枝が来たのは、約束の時間よりも五分ほど前だった。五分程度の誤差なら、ここで時間を潰すよりも美容院へ向かったほうが良いだろうということで、ふたりは家を出て、ぽつりぽつりと人影が見える道を歩く。
「大丈夫?」
少し歩いたところで、紗枝がましろの顔をのぞき込んだ。
「何が?」
「顔色が少し悪いから、体調悪いのかなって」
そう言われて、ましろは夢見が悪かったことを思い出した。言われるまで思い出せないほどには、ましろはそのことを忘れていた。そもそも目が覚めたら夢のことなど忘れるものだ。
「ちょっと夢見が悪くて」
「怖い夢でも見た?」
「そんな感じ」
そしてまた何も話さなくなったましろに、紗枝は小さく(それでもましろには聞こえるくらいの大きさで)ため息をついて、「じゃあねー」と、例のごとく流れ落ちる水のように話し始めた。ましろは聞いているのかいないのかわからないような相槌を打ちながら、テレビを見るくらいの感覚で紗枝の話を聞いた。紗枝もそれがわかっているから、たまに支離滅裂なことを言って、ましろのリアクションを楽しんだ。
このふたりの関係は、第三者から見れば「どうしていっしょにいられるのかわからない」ものであるらしいのだが、本人たちにとってはこれが当たり前のことだった。元気が有り余っている風の紗枝と、それとは真逆のましろは良い塩梅なのかもしれない。
ましろにとっては紗枝が最初にできた友達だったし、紗枝にとってはここ最近では一番気の合う相手がましろだった。気が合う――というよりも、いっしょにいることが苦にならないと言うのが正解なのかもしれない。しゃべることは少ないが、言うことははっきりと言うましろなら、変な勘ぐりや詮索が必要ない。それが紗枝には楽だった。
わからないことは多いが。
それはそれでいいだろう、わからないのが当然だ、と、特に深く考えることもしていない。
「てことで、おしゃれさんになってね」
美容室に入り、予約よりも少し早めのカットが開始された。店の内装はこれまでましろが利用していたところよりもおしゃれなもので、内心緊張していた。それまではこういう店ではなく、近所の人達がたむろして世間話をするような雰囲気の店でやっていたため、どうにも違和感があるのだった。
「とりあえず……その、短く切っちゃってください」
「どのようにしますか?」と質問された時、その「どのように?」がよくわからず、ましろはそう答えた。ましろにとっては床屋も美容院も散髪屋も、とにかく髪を切るための場所でしかないから、それだけの回答で十分だった。
「可愛くしちゃってくださーい」
だから、後ろの紗枝がそう言った時、「はっ?」と素っ頓狂な声を出してしまい、美容師の人に笑われてしまった。
「……はあ」
小さく、誰にも聞こえないくらいの大きさでましろはため息をついて、自分の髪が整えられていくのを眺めた。
この美容院は他の店でも見かけるように、出入り口の付近がガラス張りになっていて、外から中が見えるような構造になっている。それを利用し、ふたりの様子を見る影があった。
「運が良い――って言うべきなのかな」
女はたまたま見かけたふたりを眺めながら、ふぅ、と息を吐いた。彼女はポケットから携帯電話を取り出し、タッチ式の画面を操作して誰かに電話をかけた。
「ええ、そう。前に会ったお店に今すぐ来てくれる? 心配しないで……もちろん。やることをやってくれるなら、手段もその後もあなたに任せるから」
電話を切ると女は唇を吊り上げ、その場を離れた。近くの喫茶店に入り、美容院の客の出入りが確認できる席に座った。女は楽しげに水の入ったコップを揺らしながら、呼び出した相手が来るのを待った。
注文していた紅茶が届き、それも半分ほどなくなった頃、ようやく待ち人が現れた。その人物は若い男で、あまり頭の良さそうには見えない。遊び人のような風貌だ。男は女の前に座り、運ばれてきた水を一口飲んだ。
「で……?」
男はそれだけしか言わなかったが、それが何を意味しているのかはわかった。女はうなずき、窓の外を軽く指さした。
「あそこにね、女の子がふたりいるから、ちょっとこれでいじめてきて。使い方は前に教えた通りよ」
女はそう言って、胸のポケットから一枚のカードを取り出した。それはましろが持っているカードと同じデザインのロゴが入ったものだった。男はそれを訝しげに見た後、そのカードを手に取った。
「名前は――」
「名前なんかどうでもいい。とにかくこれを使えばいい、それだけなんだろ?」
「ええ。もしかしたら同じ手段で抵抗してくるかもしれないけれど、そこはそこ、うまくやってちょうだい」
「どうせ高校生なんだろ?」
「油断してると死ぬかもよ?」
男は一瞬黙ったが、すぐに吹き出した。
「そうなったらそうなったでいいさ。どうせ……」
そこで男は一度言葉を切った。
「……どうせ、死んだって構わないと思ってたんだ」
女は「そうだったね」とうなずいて、くすりと笑った。
「ほら、出てきた。いってらっしゃい? 終わったら連絡をちょうだい」
男は店から出てきたふたりを確認し、すっと立ち上がった。
「わかった。会計は俺がしておく」
「気が利くね」
「なに、恩返しさ」
男は小さく笑い、店を出た。女はそれを見送って、
「生きていられたら、いいわね。それとも死んだほうがいいのかな?」
と、ひとり呟いた。