第五話『少し素直に』
笑顔の紗枝に対し、ましろの表情はこわばっていた。一体何を見られたのかが予想もできないし、もし仮にカードを見られたのだとしたら、この反応は危険信号だ。真琴のようなことには――おそらくならないだろう。戦闘は避けられない。だが階下には祖父母がいる。このまま戦闘になったら彼らの無事が保証できない。
一体――紗枝ちゃんは何を見たの? ましろは必死に混乱する心を押し隠し、お茶を載せたお盆をちゃぶ台に置いてから、「何を見たの?」と聞いた。紗枝はそれを聞いて、いたずらな笑みを浮かべ、
「えっとね――」
後ろに隠していた手が、ましろの前に晒される。そしてその手が掴んでいたのは、白い小さな布だった。それを見た途端、それが何かを理解してましろの顔がみるみる紅潮していく。そして同時に、さっきまでの警戒心は時ほぐれた。
「記念に持って帰っちゃおうかな」
「ダメに決まってるでしょ」
紗枝からそれをひったくるように取り、ましろはそれをタンスにしまった。
「……どこで見つけたの?」
「ふとんと壁の間に落ちてたよ? しまう時に落としちゃったんだね」
紗枝は相変わらずにやにやしていて、ましろは羞恥に震えた。ましろは早歩きにちゃぶ台まで歩いて、コップに注いでいた麦茶を一気に煽った。麦茶は冷たいが、顔のほてりは取れなかった。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃん」
気楽に笑うが、ましろはそうもいかない。解けた緊張が再発して、「もしカードだったらどうなっていたことか」と、彼女を戦慄させた。問題にならなかったかもしれないし、あるいは大きな問題に発展していたかもしれない。それこそまた、それまでの生活を手放さなければいけないようなことにもなりかねない。
「恥ずかしいものは恥ずかしい」
言って、ましろは紗枝をうながした。紗枝はましろの正面に座り、その笑顔は崩さずに麦茶を飲んだ。コップ一杯に注がれていたそれを、紗枝は一気に半分ほどまで飲んで、まさに至福といった表情で嘆息した。
それからは学校の話だとか、友達がどうしただとか、そういう話をした。基本的にましろは話を聞く側で、紗枝はそんなましろを気にすることなく話し続けた。それは紗枝が話し好きで、ましろが発言する機会を奪っていたわけではなく、おそらくましろは何も言わないだろうという予想のもとでの行動だった。事実それは的中していて、途中で何度かましろに話を振ってみたが、あまり感触はよくなかった。
ましろもそんな自分にある種の嫌悪感を抱いているのだが、気乗りがしないものは仕方ないのだと言い聞かせた。
あの日からずっと、ましろの心はふさがれたままだ。フィルターが張られたように刺激は規制され、それがじわじわと彼女を殺していく。
「ましろちゃんってさ」
話が一区切りして、紗枝はお茶を飲んで間を作ってから、また切りだした。今度は一方的に話すというよりも、ましろとの会話に方向を定めたようだった。
「何か無理してない?」
その言葉に、ましろの胸が大きくはねた。そういう言葉を向けられること自体がましろには予想外であったし、それが思いの外クリティカルな、下手をすればフェイタルな部分に触れているように思えた。
「……どういうこと?」
わたしにはそんなつもりはないよ――自分でも驚くくらいに自信のない声で言う。その自信のなさは、確実に紗枝にも伝わっただろう。
「そう? なんていうのかな、本来の自分を隠している――押し殺しているみたいな気がするんだよね。笑いたいのに笑わない、みたいな」
それは。
それは笑えないのだ。
ぐっ、と唇を噛んで、でもそれを気取られないように平静を装った。
「そんなことないよ。わたしはわたしだし、そんなことする必要がないし」
紗枝が言っているのは必要かどうか云々ではなくて、もっと素朴なのことなのだが、ましろは意図的にそれを無視した。わかっていながらシラを切ったのだった。紗枝もそれがわかったのだが、あえて追求するようなことはしなかった。
紗枝は諦めの感情が多分に含まれた笑みを浮かべ、「そっか」とうなずいた。紗枝にはまだ、ましろのその部分に踏み込むための術がなかった。それは当然のことで、紗枝は打ち解けようと努力しているが、まだ出会って一日も経っていない。
「それはそうとさ、ましろちゃん」
この話題を続けることに無理を感じて、紗枝は話題の転換を図った。ころころと変わる話題は、紗枝の苦心を表しているようでさえあった。ましろもそれがわかっているのだが、どうすれば彼女の助け――つまりは、コミュニケーションが取れるのかがわからなかった。思い出の中の自分は、そんなことは容易くこなしていた。それでも今の自分はできない。それがわかっているから、余計に重い気分に襲われる。
「うん」
だからましろは相槌を打つ。
「教科書揃ってるって言ったの、嘘だよね」
「うん。嘘だよ」
誤魔化すほどの嘘ではないし、誤魔化してまで突き通す必要がそもそもなかった。必要性という問題で言うならば、その嘘こそ全く必要がなかったのだから。ほとんどましろのわがままで構成された嘘だ。
「明日から一緒に使う?」
「使う」
断る理由はなかった。
「案外フツーの家に住んでるんだね。そりゃそうか」
現実に存在し得ないような、極彩色の巨鳥を撫でながら、女は言う。女はこの鳥に撮影させた映像を見ていた。パソコンに出力された映像は、何の変哲もない民家の一室で話をしている女の子ふたりを映している。
ひとりは相手の表情をうかがいつつ何かを話し、もうひとりはあまり冴えない顔で相槌を打っている。女はそのふたりのうちの、相槌を打っているほうの少女に注目している。なめ回すような、嫌らしい目で映像に食いつき、この女は何かを見定めようとしてた。第三者が見ればただの変質者の所業だが、この女にしてみれば至極真面目、それこそ仕事よりも必死になっているのかもしれない。一歩間違えれば命に関わるような問題だ。
極彩色の鳥は役目を終えたとばかりに、唐突に姿を消した。代わりに彼女の膝の上に長方形のカードを残した。そのカードには両翼を広げた巨鳥が描かれている。女が肘をついているテーブルの上には、その他にも何枚かのカードが置かれている。ましろが持っているカードとは比べるまでもないほど、その量は多い。描かれている絵も、生き物のようなものや道具のようなものがあり、中には一体何を書いているのかわからない模様のような絵もごくわずかだか混ざっている。
「この子が銀狼を使うのはわかってる。だけど、他には何かないの?」
だが映像に映っているふたりには、カードを使うような素ぶりは見えない。だたの日常の一片でしかない。こういうさりげない場面が大切なのだろう――女はそういう風にも考えた。だが疲労と興味というものは、そんな理屈よりも素直だった。すぐに見ることに疲れ、これ以上見続けることを拒否する。女はため息をついて、モニターを倒した。薄型のノートは与えられた休息に甘んじ、使用する機能を最低限まで落とした。
女はテーブルに積まれたカードを見比べ、数枚のカードをそのカードの山から取り分けた。そしてひざの上のカードを、取り分けたカードの上に置く。
「ああ、そっか。わからないなら調べればいいんだよね。今回みたいに」
女はもう一度カードを漁り、「これでいいかな」と、明らかに適当に選んだカードを持って町へ繰り出した。
「あなたの力、私に見せてちょうだい。ねえ、有沢さん」
楽しげに唇をつり上げて、女は手ごろな〝実験場〟を探す。