第四話『友達』
放課後、真琴と別れて校舎を出ようとした時、ましろを呼びとめる声があった。振り返ると、手を振りながら階段を下りてくる紗枝がいた。紗枝は慌てた様子で靴を履き替え、ましろのもとへ走った。
ましろのとなりに並んだ紗枝は、少し息を切らしながら「探したんだよ」と言う。はて紗枝と約束しただろうかと、ましろは記憶をあさったが、紗枝と約束をした覚えはなかった。
「今日さ、ましろの家に行ってもいい?」
「……いいよ」
祖父母への遠慮もあって、ましろは少し逡巡したが、紗枝の目があまりに輝いていたために断るに断れなかった。
「ホント? やった」
慌てて取り消そうと思ったが、紗枝の喜び方を見て、ましろはそれを諦めた。そういえば誰かとこうやって話をするのも久しぶりなんだ。
放課後になってようやくその事実に気づき、あるいは自分の何かが変わるかもしれない――そんな期待を抱いた。
「それにしてもましろちゃん、今までどこにいたの? 結構探したんだよ」
「なんで?」
「なんでって、そりゃあ、ましろちゃんと遊ぼうかなって思ったからだけど」
紗枝はましろの肩をバンバンと叩いた。叩かれた肩はじんじんと熱く、ましろはいつぶりかの「友達」を感じた。それまで意識していなかったが、その肩の熱が、紗枝は友達なのだとましろに伝えていた。
冷めていた胸に熱いものを感じつつ、ましろは「ふぅん」とうなずいて、紗枝とともにバスに乗り込んだ。バスの一番後ろの座席に座って、ましろは窓際に寄った。バスの中にはましろのような帰宅部たちが大勢乗っていて、一般(といえば語弊があるが)の乗客は乗っていない。そのせいか、バスの中は若い声で充満している。
自分をじっと見ている紗枝に気づき、ましろは「なに?」と首をかしげた。紗枝は慌てて手を振って、
「いや、その……」
と、言いにくそうに言葉を切る。
「別に、遠慮するようなことでもないんじゃない?」
紗枝がましろを見る目は、不思議な物を見るような目だった。そこに悪意のようなものは感じられなかった。
「あー、その、ましろちゃんが髪長いのは、何かのこだわり?」
カットなどの手入れをされないままに伸ばされた髪は、ましろの外見をかなり野暮ったいものにしていた。見る人が見れば不潔だと思ったかもしれない。
「ううん。髪を切りに行くのが面倒だっただけ」
前髪を指先で触りながら、ましろはどうでも良さそうに答えた。
「切らないの?」
ましろは少し考えて、
「場所知らないし」
と答え、紗枝はそれに目を見開いた。
「うっそ! じゃあ今度の休日にでも行こうよ。美容院はあたしが予約しとくからさ」
「えーっと……うん」
考えるまでもなく、ましろには休日の予定などあるはずもないのである。
「うんうん。じゃあさー……」
楽しそうに話す紗枝の声を聞きながら、ましろは内心、ほっと息をついた。あまり追及されても、紗枝に本当のことを話すことはできない。
今日の授業が終わり放課になるや否や、真琴は約束通り、ましろを屋上に出る階段の踊り場へ案内した。一種の停戦協定を結んだ形だが、殺されそうになったその日に、その人物とふたりきりになるのは真琴にとっては勇気のいることだった。真琴が案内した階段は薄暗く、ふだんから使われていないことは明白だった。
「で、話って?」
階下から見えないようにふたりは腰かけ、真琴がそう口火を切った。ましろはうなずき、ポケットから一枚のカードを取り出して、それを真琴に渡した。それは昼休みに真琴からもらった携帯電話のカードだった。
「持ってていいよ」
「え? いや……」
受け取りながら、真琴はそれでも驚きを隠せなかった。驚いただけではない。またこの世界に足を踏みこんでしまうのかと、ある種の恐れを抱いた。ましろの銀狼〝ハーティ〟に睨まれた時、真琴は死を身近に感じた。死を覚悟した。
カードをましろに渡したのは、もはや厄介払いと同義だったのだ。
「でも、ぼくが持っているより有沢が持っていたほうがいいんじゃない? そのほうがカードを探すにも効率がいいと思うけど」
それでもましろは首を横に振る。
「たしかにそうかもしれないけど、そうはしないよ。真琴にはわたしのサポートをしてもらうつもり」
「どういうこと?」
「カードのことを知っているのは、まだわたしと真琴だけ。情報共有と互いのフォローをするんだよ。生きるためにね」
生きるために。
それはましろにとって、決して大げさな言葉ではなかった。本当にただ単純に、事実を伝えただけのことだった。カードを使うこと、集めること、それが死と常に隣り合わせいあることを、ましろはすでに知っている。
「生きるためって……」
そんな大げさな――そう言いかけて、真琴は口をつぐんだ。真琴もその言葉が大げさではないことを知っている。
「やってくれる?」
まっすぐ――ましろは真琴を見る。その目は朝の自己紹介の時からは考えられないほど、力が溢れている。改めてこの世界に関わりたくないと思いながら、真琴はましろから目をそらす。
「考えさせてくれないかな」
その目に圧されて、自分の逃げたい気持ちに駆られて、真琴は答えを出すことができなかった。逃げたい気持ちはあるのだが、もう逃げられないのだという予感もある。
「いいよ。今週中には返事をちょうだいね」
真琴の予感は概ね正解で、ましろは真琴がこれを断っても、無理矢理その役につける気でいる。それでもましろが猶予を与えたのは、あくまで真琴が自分の意思でその役についてくれたほうが良いから――それだけの理由だ。
「それじゃあ、話はそれだけだから」
ましろは立ち上がり、うつむく真琴を置いて階段を下りて行く。
「なあ」
踊り場まで下りたましろを、真琴は呼びとめた。真琴にはどうしても気になることがあった。それを知ればあるいは、ましろの提案を受けるかどうかの決心ができると考えた。
「カードを集めれば願いが叶うってうわさ、知ってるよな?」
「もちろん」
「有沢。きみはカードを集めて、いったい何を願おうとしているんだ?」
その質問をましろはどう受け取ったのか。ましろは何も言わず、じっと真琴を見ている。その目には真琴にはわからない「何か」が燃えていて、身震いしてしまうほどだった。あえてそれに名前を付けるならば、「怒り」が適切なのだろうか。
「わたしは――」
紗枝がましろの肩を軽く叩き、彼女は現実に引き戻された。話の途中で突然なにも言わなくなったましろをすこし心配そうにのぞき、「どうかした?」と首をかしげた。
「なんでもない」
「そう?」
納得しかねる風だったが、紗枝はそれ以上の追及はしなかった。彼女にしてみても、やはりましろは壁のある存在であることに違いはなかった。彼女はその壁を取り払うことに力を注いでいる――それだけのことだった。
バスを下りて、今度は徒歩になる。紗枝はこの辺りにも土地勘があるらしく、どこの料理がおいしいだとか、服が安いだとか、そういうことをましろに話した。今度はましろもうなずきながら、同級生に見える程度には親しそうに歩いた。
ましろにはこの日常もいつかはなくなってしまう――それは時間の流れが関係を分かつという意味ではなく、自分が踏み込んでしまった世界が日常を奪うことがわかっていて、紗枝といっしょに帰っているこの時間を本心からは楽しめずにいた。そういう自分にきづけば、それまでの無気力な生活もあるいは、それが関係しているのかもしれないと思い当たる。
紗枝と話しながら、頭の片隅でそんなことを思う。ましろは家について自分の部屋に入った時、そこから逃げるように「お茶取ってくる」と言って部屋を出た。紗枝は少し驚いたようだったが、うなずいて部屋の真ん中のちゃぶ台のところに座った。
「ここがましろちゃんの部屋かー」
正座してましろを待つ紗枝は、落ち着きなく部屋を見回した。落ち着いた雰囲気の和室で、紗枝の友達の中では珍しいタイプの部屋だった。床は畳で、フローリングのように冷たくて痛いということはない。勉強机のようなものはなく、家具もそれほど多くはない。タンスとちゃぶ台と本棚くらいのものだ。この部屋には女子――というよりは、身だしなみに必須な鏡さえ置かれていない。
「あんまり興味ないのかな」
呟いて、紗枝はもう一度部屋を見回す。変わったものは何もないのだが、その何もなさが、逆にましろという人物を表しているようにも感じられた。過去のましろを知らない紗枝にしてみれば、この部屋がましろそのもののように思えた。紗枝はそれが寂しく思えた。
「あれ?」
ふと、あるものが紗枝の目に止まった。それは畳まれたふとんと壁の間に落ちていて、紗枝のように何かを見ようとしていなければ気づかないような場所だった。四つん這いでそこまで行って、紗枝はそれを取りあげた。
「これって……」
くすり、と、紗枝は笑った。
ましろは祖父母に友達が来ていることを話して、コップに麦茶を注いだ。それから適当なお菓子をお盆に載せて、紗枝が待つ自室へ向かう。階段を上る直前、また真琴との会話を思い出した。
金城はましろがカードを集める理由を聞いた。それにましろは淡々と答えたのだった。
「理由なんて、たったひとつしかない」
その願いは――あの時、あの瞬間に決まった。家族を生き返らせてほしいとか、また大貴といっしょに話をしたいとか。
そういうことではない。
その願いは歪な願いであると、ましろはそう直感的に思ったのだ。だから彼女は願う。
「ピエロなんて、死んでしまえばいいんだ」
それは――あるいは逆恨みなのかもしれない。カードをばらまくのはピエロだが、それを使うのはあくまで手に入れた人間で、家族を殺したのはあの男だ。けれど、だからこそ、ましろは元凶であるピエロが許せない。
カードを集めればピエロに会えるならば、いくらでもカードを集めてやる。ピエロに会う権利を得て、その時にピエロに願ってやる。「死ね」と。
憎悪でお盆を震わせながら、ましろは階段を上る。
「待たせ」
ドアを開けたましろを迎えたのは、やけにくすくすと笑う紗枝だった。紗枝はその笑みを浮かべたまま、ましろを見上げた。
「あたし、見ちゃった。ましろちゃんの、大事なもの」