第二話「憂鬱な再出発」
両親が殺されたましろは、母方の祖父母に引き取られた。それに伴ってましろは転入し、最寄りの学校へ通うことになった。
あの日以来、あのピエロと会うこともカードの奪い合いに巻き込まれることもなく、実に平和な日常を送っていた。ましろにとってそれはあまり望ましくないのだが、自分がほとんど部屋に引きこもっていたため、それは当然の結果であった。
引きこもった結果伸びてしまった髪は、今では肩のあたりまで届いている。切りに行くのも面倒いと感じて放置していた。
これから毎日通うことになる新しい学校の制服を着て、ましろは「ふぅ」とため息をついた。自分の殻にこもっていられるのも、ここまでなのだ。それがすでに恐ろしく、億劫で、それでも今後のためには必要なのだと理解していた。生活にも困るし、なによりも目的が果たせない。
幸いというべきか、転入先の学校はましろが元々いた学校よりも、勉強のレベルが低い学校だった。あの事件以降、ましろはあまり勉強に時間を割きたくないと考えていて、それ自体は願ってもないことだった。
引きこもっていた時間に、ましろは色々と考えた。
あの日のこと、これからのこと。
それでも何ができるというわけでもなく、ずっと部屋にこもっていた。あの日の記憶が頭で暴れて、吐き気が込み上げてくる時も多々あったし、最近でもそういうことはよくある。それでもそろそろ逃げる時間も終わりにしなければならなかった。
重い体を無理矢理動かして、階下の居間にいるふたりに自分の制服姿を見せに行った。ふたりは居間でテレビを見ていたが、ましろが戸を開けると振り返り、うれしそうに顔をほころばせた。
「よう似合ってるよ。ましろちゃん」
「ほんに。ばあちゃんの若い頃そっくりや」
「そう?」
あまりうれしくもなさそうに、ましろは首をかしげた。そんな孫を見たふたりは一瞬表情を曇らせたが、すぐにふだん通りの柔和な笑みを浮かべた。
「緊張しても焦られんでよ」
「うん。大丈夫だよ」
「はいはい、いってらっしゃい」
「気ぃつけてな」
「うん。行ってきます」
ふたりに送られて、ましろは家を出る。そこは前に住んでいた場所よりも町で、人や車の往来が多い。建物も高いものが多く、その数も比ではない。最初はその違いに戸惑っていたが、それも最近ではだいぶ慣れてきている。
定刻通りに到着したバスに乗り、ましろはバスの最後部座席の端に座った。バスが出発し、何度も信号につかまりながら進む。学校に近づくにつれ、同じ制服を着た乗客の数が増えてきた。彼らはましろに気づくと、声こそかけてこなかったが、あからさまな好奇心ををましろに対して持っていた。ましろは努めてそれを無視し、学校前のバス停ではその集団で最後にバスを下りた。
まわりの生徒たちから者珍しげな視線を浴びせられながら、ましろは校庭を進み、正面玄関から校舎へ入った。事務員の人に声をかけると、その人は気さくな笑みを浮かべてましろを職員室へ案内した。
「ちょっと待ってね」
その女性は職員室の戸を開け、「佐倉先生」と声をかける。すると奥から「はーい」と快活な返事が返ってきた。ましろが女性の横から顔を出すと、眼鏡をかけた若い女性が「お、有沢さんだね?」と手を振った。
「はい。よろしくお願いします」
「ありがとうございます」と女性にお礼を言って、ましろは佐倉のデスクまで向かった。佐倉はうつむきがちに歩いてくるましろを見て、「緊張しないで」と笑いながら手招きした。
「担任の佐倉雪子です。よろしく」
そう言って微笑む雪子は、どこかましろの母に似た雰囲気を持っていた。それがましろの意識を奪って、ましろは一瞬、何を言われたのかがわからなかった。
「え、あ……有沢ましろです」
慌てて自己紹介をした。雪子は特にそれを追求せず、「行きましょうか」と席を立った。時計の針はもうすぐ始業時間の八時五十分を迎えようとしていた。
「はい」
廊下に出たすぐ、ましろたちの前をひとりの女子生徒が走り過ぎた。
「危ないでしょー」
「すいませーん!」
雪子が生徒を注意すると、女子生徒はいくらか速度を落とした。彼女の後を追うように、ましろたちも教室へ向かう。教室に一歩近づくにつれ、ましろの緊張は高まっていった。ましろに転校の経験はなく、今回の転入は不安ばかりが先に立った。
笑顔がなかなか出てこなくても、喜びの感情が表に出せなくても、緊張するものは緊張するものなのか――ましろはどこかぼうっとした頭でそんなことを思った。
「緊張してる?」
前を歩く雪子が、軽い調子で言った。
「はい」
短く答えて、ましろは窓から見える風景を見ながら歩く。
「きっとすぐに馴染めると思うよ。みんな気が利く子たちだから」
「はい」
返事しかしないましろに、雪子は困ったような苦笑をもらした。
ふたりが教室の前に着くと、時を同じくして始業を告げるチャイムが鳴った。慌ただしく教室を出入りする生徒たちから隠れるように、ましろは雪子の後ろへ移動した。
「どうする? いっしょに入る? それとも後から入る?」
「いっしょに入ります」
「よし、じゃ、行こうか」
雪子は戸に手をかけて、ましろににこりと笑いかけた。
ましろはそれを黙殺した。
「はい、おはよう」
教室に入った雪子は、開口一番、明るい声で生徒に挨拶した。すると教室から口々に挨拶が飛び交い、けれど続いて入ってきたましろに気づくと、教室は違った騒々しさを持った。
これからクラスメートとなる彼らは、高二の夏休み明けという中途半端な時期に転入してきたましろに怪訝そうだという思いと、好奇心がない交ぜになったような視線を送った。
「今日からここに通うことになった有沢さん。有沢さん、簡単にでいいから自己紹介して」
雪子に促され、ましろは「はい」とうなずいた。
たったこれだけのことだったが、教室内にいたほとんどの人が「あ、暗い」と感じた。緊張しているのかな、と思うでもなく、ましろから陰気さが伝わってくるのだ。
「有沢ましろです。諸事情あって編入することになりました。よろしくお願いします」
そして頭を下げる。
それは自己紹介の終了を意味していて、当然、クラスメートは拍子抜けした。誰かが「それだけ?」と言った。そしてこれだけで終わってしまうのが、今のましろだった。もはや彼女にとって、学校は惰性のものでしかなかった。引きこもっていた時に抱いた「願い」が、今の彼女を支えているようなものだった。
「えっと、じゃあ有沢さん、木村さんの隣が空いてるからそこに座って」
窓際の後ろのほうで、ひとりの女子が手を挙げた。その人のとなりに空席があった。ましろが席に着くと、
「あたし木村紗枝。よろしくね、ましろちゃん」
「うん。よろしく」
ましろは相変わらずだったが、紗枝は特に気にした風もなく嬉しそうに笑った。
「教科書、揃ってる?」
「揃ってる」
ましろはうなずいたが、本当は教科書が届くのはあと数日後のことだった。授業中にクラスメートの視線があるかもしれないと思うと、それに耐えられなかったのだった。授業は先生の話を聞いてノートを取ればなんとかなると考えての返事だった。
「そっか。じゃあ心配いらないね」
そう言って、紗枝は前を向いた。ショートヘアのこの少女の笑みは、今のましろにうるさく映った。
休み時間になって、ましろの周りには人が溢れた――というわけにはいかなかった。ましろが無意識に――あるいは意識的に発している〝壁〟が、クラスメートの足を遠のかせた。ほとんどのクラスメートは一言二言ましろと言葉を交わすと、逃げるようにその場を去った。
「もしかして、壁作っちゃってる?」
昼休みになってもましろの近く残ったのは、紗枝だけだった。紗枝はかわいいというよりも、かっこいいに分類される女子だった。短く切った髪をきれいにセットして、おしゃれにも気合いが入っている。彼女はましろの前の席に座った。立ち上がった紗枝は、ましろの想像よりも背が高く、自分の視線の動きで大貴の面影を見た。
「別に……そんなことないと思うけど」
ましろにしてみれば気乗りがしない、ただそれだけの理由だった。常に頭にあるのはカードのことで、しかし具体的にどういう風にすれば集められるのか――その方法を考えるので必死だった。願いこそあれど、それを叶えるための手段が見つからない。
もういっそ、ふつうの生活をしてしまおうかとも考えたが、どうしてもその決心はつかなかった。知ってしまった現実から逃げだすことは、ましろにはできなかった。
「そんなことあると思うけどなぁ」
「じゃあどうすればいいの?」
そういえば前の学校では友達がたくさんいたなぁ――と心の片隅で考えつつ、ましろは言った。どうすればいいのか、本当にわからなくなっていた。三カ月に及ぶひきこもりは、彼女に基本的なコミュニケーションの取り方さえ忘れさせていた。
「そう聞かれると難しいなぁ」
紗枝は「うーん」と唸って、肘をついてあごを置いた。
「ねえ知ってる?」
それまで周りの声など気にも留めていなかったましろだったが、まるで噂話をする時のような言葉に、まどかの耳は反応した。反射的に声がしたほうに顔が向き、気づいた紗枝が驚いて顔を上げる。
「なんかね、ピエロみたいなのがカード配ってて、そのカード集めると願いが叶うんだって」
それはあまりにも大雑把、適当というよりもテキトーな話だったが、それはましろの興味をおおいに引きつけた。
「なに? ましろちゃん。もしかしてあの噂に興味あるの?」
意外そうに紗枝が言う。
「まあ、少し」
まさか「そのカードを持っている」と言えるわけもなく、ましろは適当にごまかした。噂話はすぐに終わり、話は別のものに切り替わった。ましろはそこで聞き耳を立てるのをやめ、紗枝に向き直った。
「気になるってことは、叶えたいことあるんだね?」
「まあ……」
やはりここで本当の目的を言えるわけもなく、
「幸せになりたい」
と、適当なことを言った。しかし紗枝はそれを本気と受け取ったようで、
「悩んでることあるの?」
と本気で心配そうな表情で言った。悩みがないわけではないが、やはりそれを紗枝に打ち明ける気にはならなかった。そこまで親しくなった覚えはないし、打ち明けてどうこうなる問題でもないからだ。
もし――と、ましろは考える。
もし紗枝がこのカードに関わっていたなら、この悩みは打ち明けられたのかな。ううん、打ち明けてしまっても良いのかな。カードを奪い合う関係なんだから、この悩みは誰にも打ち明けられないんだろうな……。
思い出されるのは、三カ月前の惨劇。
惨状。
「ごめん……ちょっと保健室行ってくる」
「え? ひとりで大丈夫?」
「大丈夫」
重い足取りで教室を出て行くましろを、紗枝は心配そうに見送った。
「あっ! ダメじゃん!」
ましろが教室を出て姿が見えなくなった時、紗枝が勢いよく立ちあがった。今日編入してきたばかりでのましろが、保健室の場所を知っているとは思えなかったからである。あまり大きな校舎でもないが、それでも初めてなら迷いかねない。
「ましろちゃん、場所わからないでしょ?」
追いついてとなりに並び、ましろの顔をのぞき込みながら聞く。ましろはハッとした顔になって、こくん、とうなずいた。紗枝は、くすり、と笑って、ましろの肩を持ってゆっくりと歩調を合わせて歩いた。
保健室には誰もいなかった。外に面した窓があいていて、カーテンが揺れている。この学校の校医が保健室にいないというのは珍しいことで、紗枝は少なからず驚いた。
「仕方ないね。ましろちゃん、ベッドで横になってなよ。あたしは先生呼んでくるから」
「うん。ありがとう」
にっ、と笑って紗枝は保健室から出て行った。残されたましろはベッドに倒れ込み、大きく息を吐いた。ここまで移動してきている間に、胸の中で暴れていた気持ち悪さはかなり引いていた。
紗枝ちゃんがいてくれたからかなぁ……と、まだ少しぼうっとした頭で考える。あの日までは、よく大貴に解放してもらったものだと、今にも泣き出しそうな気持で思い出した。
「やっとひとりになったか。きみがひとりになるのをぼくはずっと待ってたんだ」
突然声がして、ましろは上半身だけ起き上がって入口のほうを見た。そこに立っていたのは、同じクラスの男子だった。この少年は教室では、クラスメートたちが集まってくるタイプの人間だった。
「…………」
その少年の名前がわからず、ましろは声をかけるタイミングを逸した。知らない名前を考えるよりも、ましろはどうしてこの少年がここにいるのかを考えたが、そんなことわかるはずもなかった。
「ああ、ぼくは金城真琴。クラスメートだよ」
「知ってる。その金城くんがわたしに何の用?」
真琴は何かを企む子供のような笑みを浮かべ、おもむろに制服のポケットから一枚のカードを取り出した。
「それは――」
「きみのカード、ぼくにくれないかな?」