第十話『殺意の咆哮』
「もはや抵抗することさえ満足にできまい。四節の完成を待つまでもなく、俺が終わらせてやろう」
こみ上げる笑いを抑えるように、佑樹は高らかに言った。ハンプダンプはその姿からは想像もできないほど優しい歌声で、しかし聞くものに死を与える旋律を奏でる。倉庫の中はハンプダンプの声で満たされ、立っているのは召喚者の佑樹だけだ。
「……せない」
かすかに。
かすかに、蚊のまつげが床に落ちた時くらいの大きさの声が、ハンプダンプの「詩」の中に混じった。声というよりも音に近かったが、それでも佑樹はその声を聞いた。
「あん?」
見ると、地面に倒れていた紗枝が、体を震わせながら立ち上がろうとしていた。先に聴き始めていたましろはすでに気を失い、銀狼は倒れ、それでも紗枝が膝を立てている姿に、佑樹は一瞬気圧された。
「させない!」
紗枝は足元にあった石を取り上げ、迷いなく佑樹に投げつけた。佑樹は顔面に向かってきたそれを間一髪でよけ、後ろへ飛んでいった石はガラスに当たって、軽々とそれを砕いた。ガラスが割れた甲高い音が倉庫内を反響し、そしてまたハンプダンプの詩に飲み込まれた。
窓が割れたことにより、倉庫内に反響する詩の反響がわずかではあるが弱まった。とはいえ、焼け石に水程度のものではあるが。
「あたしも……ましろちゃんも……アンタなんかに殺されるもんか!」
奮起の叫びだった。紗枝は自分の全身が恐怖に震えていることに自覚的だし、今だって本当は逃げたい。それをさせずに立ち上がらせているのは、少し離れたところで倒れている友達がいるからだ。
立ち向かわなくちゃいけない。
もはやその意志は使命にも似た絶対感をもって、彼女の中に存在していた。紗枝は己の恐怖心よりも、もうひとつの自分を突き動かす想いに身を任せた。無謀だろうとなんだろうと、彼女には関係がなかった。
目の前の男が許せない。
簡単に人の命を奪おうとする男が許せない。
「だからといって、お前に何ができる? ハンプダンプの詩は、もう第四章に入ろうとしているぞ?」
卵型の妖精の優しくおぞましい声は、ゆるやかにその声量を落としていく。第三章を終え、第四章――この歌の終わりの章へ向かおうとしている。
「そんなの知らない! あたしは――っ!」
許さない。
許せない。
目の前にいるこの男が許せない。
紗枝の中には燃え上がるような怒りと、明確な殺意があった。これまでの人生でも「殺したい」と思ったことはあったが、そんな遊びのような殺意ではなく、確固たる意志が生まれていた。
この男をどうにかできるなら、悪魔に魂を売ってもいい。
「新鮮な憎悪があると思って来てみれば……これはこれは」
何者かの声が、突然に倉庫内に響いた。その声はハンプダンプの声の中でさえも、はっきりとその場にいる者たちの耳に届いた。
「誰だ!」
佑樹と紗枝の視線が、声のした倉庫の入り口に集中する。開け放たれたそこに立っていたのは、不気味な風貌のピエロだった。ピエロは粘っこい笑みを浮かべ、おどけた調子でヒョコヒョコとふたりに近づいていく。
「おやおや。私を知らないのですか? それはそれは。貴方はサモナーだというのに?」
ピエロの顔がゆがむ。佑樹は怪訝そうにピエロを睨んでいるが、紗枝はピエロから放たれる嫌な気配に内心怯えていた。
関わり合いたくない――その思い出いっぱいだ。
「そんなことよりも――」ピエロは佑樹から視線を外し、紗枝のほうを見る。「――私はお嬢さん、貴方に用があるのですよ」
ニタァ、と、ピエロが邪悪に微笑む。ゆっくりとうつ伏せの紗枝に近づき、彼女の前でしゃがんだ。近くで見るとピエロの体は大きく、しゃがんでもその巨体は小さくならなかった。
「あの男をどうしたいですか? お嬢さん?」
紗枝は息を飲み、何かを言おうと口を開いた。
「その子から……離れて!」
「おや、生きていましたか。久しぶりですねぇ、お嬢さん」
さっきまで苦しみにもがいていたましろが、今は憎々しげにピエロを睨んでいる。その表情はなおも苦しみに歪んでいる。
「おいお前。邪魔するな」
佑樹が苛立ちを隠さず、ピエロの背中に言う。
「もちろん邪魔などしませんとも。私は公平に、公平に、それだけです」
くつくつと笑い、ピエロはまた紗枝に向き直る。
「さてお嬢さん。お嬢さんはどうします? 戦う力が欲しいですか? それともこの場から逃げますか? はたまた、私の助力など請いませんか?」
「紗枝ちゃん! 耳を貸さないで!」
ピエロに何かを望むことは、つまりこの世界に足を踏み込むということだ。今はまだ巻き込まれただけで、もとの生活に戻ることはできる。しかし何かを望み、カードを手にすればそれは叶わなくなる。ましろは紗枝にこの世界へ足を踏み入れて欲しくはなかった。
紗枝はこのピエロに対する恐怖からガタガタと歯を鳴らし、しかし震える声で、
「あたしは……力がほしい。あたしと、ましろちゃんを守る力が欲しい!」
はっきりと、そう叫んだ。
「それでは、このカードを差し上げましょう」
ピエロは長い指の先に、二枚のカードを持って、紗枝の前に差し出した。それは裏面のようで、不思議な文様のようなものが描かれている。紗枝はそれをひったくるように受け取り、ふたつカードの表面を見る。
ふたつのカードを見た瞬間、紗枝の中の何かが脈打った。
「これは……」
カードから視線を上げた時、そこにはすでにピエロの姿はなかった。かわりに驚きを隠せていない佑樹が見えた。
「あの野郎、どこに消えやがった!」
ピエロの消失は佑樹にさえ認識できていなかった。気がつけばもうそこにはおらず、元よりそこには誰もいなかったのではないかとさえ思える。ピエロがいたという証明は、紗枝が持つ二枚のカードだけだ。
「紗枝ちゃん、それを使わないで! お願い!」
ましろが必死に紗枝を止める。
この世界に踏み入らないように。
殺伐とした殺し合いの世界に入ってこないように。
紗枝はゆっくりと立ち上がり、ふらついた体でなんとかバランスを取った。そして「あたしが……守るから」と、ましろに微笑んだ。
ましろがまだ何かを言っていたが、紗枝はあえてそれを無視した。彼女が自分の身を案じていることは理解しているが、それでもその忠告に従うことはできなかった。脈打つカードを持ち、憎き男と再び退治する。
「なんで立っていられる! ハンプダンプの歌はもう最終章に入っているんだぞ!」
ハンプダンプの円禍の詩を聞いていたふたりは、さっきまで立ち上がることなど到底できないほどのダメージを受けていたはずだ。ましろにいたっては意識さえも失っていたはずだ。しかし、今、ましろは意識を取り戻し、紗枝は立ち上がっている。
紗枝は何も言わず、カードを一枚、誰にもいない方向へ向けた。カードが向いている先には窓があるだけで、それ以外は何もない。
「シュート」
小さく紗枝が呟いた瞬間、カードが光ってそこから一本の棒のようなものが飛び出した。飛び出した光の矢はガラスの窓をたやすく砕いた。
紗枝はまた方向を変え、別の窓を割る。
そのたびにハンプダンプの歌の反響は小さくなり、体が軽くなっていく。
「何をやっている? そこに俺はいないぞ?」
佑樹さえも無視し、紗枝は倉庫一階の窓を全て割った。
「……弾切れ、かな」
紗枝が使っていたカードのイラストが、極端に薄くなっている。さっきまで描かれていた矢のようなイラストは、もはやそれを知っていないとわからないほどに薄くなっている。
装弾数八発。
「――っ」
光の矢を放った反動は突然に現れ、紗枝の体が揺れた。右足を踏み出してこらえたが、体力の限界が近づいているのは、誰の目で見ても明らかだ。いい加減面倒くさくなってきている佑樹は大きなため息をついた。
「もういいだろう? 俺が一思いに……」
ここに至って、佑樹は初めて気づいた。さっきまで倉庫内を満たしていたハンプダンプの詩が、いつの間にか止まっている。それが完結ではなく中断であることは、目の前に立つ紗枝が証明していた。
「なぜ詩をやめた、ハンプダンプ!」
佑樹が怒鳴るが、ハンプダンプは不安そうに辺りをきょろきょろとしているだけだ。彼はすぐに威圧を感じ、ハンプダンプから視線を外してその威圧の主を探した。
「許さない!」
威圧――殺意の主は紗枝で、ピエロから受け取った二枚目のカードを握り締めている。
「紗枝ちゃん!」
ただならぬ雰囲気を感じ取り、ましろが叫ぶ。
「ハーティ! 起きて! ハーティ!」
ましろは相棒を一度カードに戻し、すぐに再召喚した。それによって遠くにいた銀狼が、すぐ近くに呼び寄せることができる。とはいえ、傷ついた体はすぐには回復しない。銀狼はましろの腕の中で荒い息をしているだけで、主の呼びかけに応えようともしない。
「だったら――」
ましろはジャケットのポケットに手を突っ込んで、別のカードを取り出した。
「――絶対に使いたくなかったけど」
使わざるをえない。そうわかっていても、ましろは踏ん切りがつかない。
「俺を殺せるのか?」
一方で、佑樹はじりじりと紗枝から距離をとっていた。先ほど紗枝が使ったカードのことを考えると、それに意味があるとはあまり思えないが、そういう論理的なことよりも、いかにしてこの場を離れるかということが彼にとっては重要だった。ハンプダンプはさっきからオドオドしていて役に立たず、他に武器があるかといえば、彼は何も持ち合わせていない。
「あたしを試してるの?」
紗枝の心は冷め切っていた。頭に血が上っているのではなく、混乱しているわけでもなく、極めて冷静沈着に、彼女は佑樹に対して殺意を持っている。
しかし彼女はやはり混乱しているのだろう。普段の彼女なら、ここまでの殺意など抱くまい。抱いたとしてもその激情に身を任せるようなことはしないだろう。この状況が――生死を、命を軽んずるこの状況が、紗枝の判断を狂わせているのだ。
「あんたに殺されるくらいなら――あたしがあんたを殺す!」




