§nenuphar 9
にっこりと少女はナジムを見つめると、透き通った微笑みを投げかけた。ナジムが手を伸ばすと彼女の幻は消えて、ナジムの手には小さな硝子の睡蓮の花が添えられてた。
がらがらと崩れ始める鏡の部屋。その音に呑まれて硝子の花は彼の手から擦り抜けて床に落ちて割れた。砕けた硝子の破片は呪われた鏡の断片と混じり合ってしまった。にやりと悪鬼の置物が笑いかけた気がした。その音から逃れるように下の階へと伸びる階段に吸い寄せられていく。
少女の表情はまるで恋人に捧げるような、安らかに澄み切ったものだった。愛しいと何度も言った彼女の心の内が手に取るように流れ込んできて、胸が締め付けられるように苦しかった。どうして、自分がここに呼ばれたのか。自分がここに来る前に零した言葉。一番青空に近い場所で、そこに向かって飛び立とうとした。でも、それは見えない確かな手に遮られて叶わなかった。それだけかと思ってた。今を捨てきれないのは、自分の意志だと思ってた。でも、やっとわかった。違うんだ、全部。私は、私は――。
部屋も階段も、私たちを階下へおびき出すように急かすように崩れてきていた。螺旋階段を滑るように私たちは下った。無数に絡まった糸が整然と、まるで織物のように縦横規則正しく編まれてゆく。私の頭の半分は、くっきりとはっきりと澄み切った冬の夜空のようだった。
階段を下ってゆく、ふとした瞬間に流れこむ少女の記憶。同調はかつてよりも強く、その原風景は鮮明に目の前に現れた。
月明かりに照らされた幻想的な湖の畔。金色の緩やかで柔らかな髪を夜風に靡かせながら、雪のように白い足を水に浸して空を見上げている女性がいた。二十歳前後だろうか。屈託のない、あどけなさの残る笑顔を傍らの草原にゆったりと腰かける男性に贈っていた。無精に整えられた金髪を手で掻き上げながら、温かい眼差しを彼は隣に座る女性に注いでいた。絵に描いたような美しい結晶がそこにはあった。お互いに寄り添う二人。月明かりを映す鏡のような湖に染み渡る心地よい静謐を壊さぬように、二人は抱き合って泣いていた。笑顔のまま、目の縁からぽたぽたと溢れ出す雫。お互いがお互いの胸に顔を埋めて、声を殺して泣いていた。途切れ途切れに聞こえる二人のくぐもった声がひりひりと私の心の表面を削る。
「罪って許されるんだろうか」
「――どうなのかな…あたしたちは許されないことをした。きっと救われないんだって、わかってる」
「…そうだよな、くだらないこと聞いてすまない」
「――でも、あたし、許されたいって心から願う人がいるの。…誰だかわかる?」
「わかるわけないよ…教えてくれるの?」
「――その人は近くにいるんだけど、とても遠い人」
「……?」
「――その人に許されるなら、あたし…どんな責めも負う覚悟、あるよ」
女性が男性から目を逸らそうとして後ろを振り返ったとき、幻は蝋燭の煙に溶けて消えた。
突然、現実に引き戻されて思わず足が嗤い、前のめりになったのをナジムが大きな手で支えてくれた。心配そうに私の顔色を伺う彼の視線が痛かった。指先がじんじんと冷えてきているのか痺れているのかよくわからなくなる。体液が上から下まで大反乱を起こしたかのように、どくどくと私のいうことを聞いてくれない。頭が痛い。狭苦しい輪の中に閉じ込められて締め付けられるようだ。鼓動は大太鼓のように勢いよく叩かれ、心臓がはちきれそうだ。叶わぬ望みに微かな期待をつなげる自分が憎くて。彼の気持ちの源に気付かない振りをするのが苦しくて。自分の気持ちの揺れも、きっと決められたことなのだとしたら。そんな可愛くない思考回路を組み立てた自分が嫌になる。探し求めていた二人の邂逅を心のどこかで妨げたいと思う自分にますます嫌悪感が募って行った。
ナジムにしっかり支えられながら、頭ではぐるぐるとどす黒い液体が渦巻いていた。最後の階段の一段を下ると、そこは天井も床も壁面も、すべて鏡で覆われた部屋に辿りついた。奥の方に二脚の椅子があるだけの殺風景で不気味な部屋だった。私たちに背を向けた椅子には誰かが腰かけていた。決して大きな声ではないけれど、重みをもったよく通る声。黒いサテン風の生地のドレスに痛々しい荊の蔓を巻き付けた黒髪の美しい女の人は、椅子から立ちあがって隣に座る男性に話しかけている。白銀の髪を襟足付近で纏めている男の人は、少年のようにも青年のようにも中年のようにも見え、年齢不詳だった。左手にはミーノスが持っていたものよりも長い杖を床についていた。襟を立てたマントを胸上で飾りのピンで留めている。彼は、首周りに細く長い深緑の蛇を纏わりつかせて、愛でている。そして彼は、艶のある黒いドレスローブを床まで引き摺っていた。
「ほう…残像の分際で地獄の第二圏に入ろうとする意志を持つ奴が現れるとはな」
「私たちの洗脳が甘かったということですね」
「なかなか面白い魂だな…やはり我らの最愛の息子、自分の罪過を見て魂もろとも崩れ落ちるか…さては…我らの知らぬものへと成り果てるか…」
「どちらにせよ…最愛の息子とて苦痛を与える必要がありますわ。新たな咎を生まぬためにも」
「記憶を…最悪な記憶への手がかりを与えるか。ペルセポネ」
「ええ、ハデス様。私にお任せくださいませ。この手で破壊して見せますわ、私たちの息子を」
「しばし待て…我らの息子は生きた魂を連れておる。我が制裁をびくともしなかったのか。もしくは傍らの魂が強い生気を蓄えているか…」
「どういたしますか?」
「生捕りにするのは不味い。息子の始末が終わったら強制送還しろ。下界の地獄に長く留まらせる必要はない」
「私のように下界の食べ物を与えて、ここに閉じ込めることもできますが…いかがなさいます?」
「おまえの好きにしろ」
「承知いたしました」
椅子から立って、こちらに向かってくる一人の女性。かつ、かつ、かつ。その顔に表情はなく、蝋人形のようだった。瞬きもせずに力強く睨みつけられる私たちは、蛇の前に立ち竦む弱弱しい蛙に等しかった。ぎらりと刃物の切っ先のような鋭い瞳で抉られた途端に、記憶の深淵からよみがえるいつか見た夢の世界。あの時と同じ舞台の上に同じ役者がそろった。あの時は聞こえなかった、暗がりの奥で棄てられた会話が今は手に取るようにわかる。ああ、彼はあの時の――。あの時の男は――。
*****
ここと同じ天井も床も一面の壁、すべてが鏡に覆われた不気味で生気のない無機質な部屋。その床に手をついて項垂れる男。彼の前に立って見下している黒づくめの女性。男性の影も女性の影も鏡は映していなかった。
「――俺とはなんだ。俺は誰だ。俺を存在させている理由を教えてくれ…」
「理由…?それはあなたが夢を見ているから。あなたは死ぬ前に大罪を犯した穢れた魂なのです。夢としてしか存在することができない魂のなれの果て。――可哀想な子」
「俺は夢なのか。夢でしかないのか」
「世界を世界たらしめているモノ。ヒトの世の常。儚く脆い一抹の花。それが夢。誰かが見ることをやめれば風の前の塵のように、ばらばらに飛び去ってゆく他愛もない存在」
「俺の声に応えるのは一体…」
ナジムの髪は今よりもずっと短く、少女が見せる夢の中に現れる男に限りなく酷似していた。魂がここにきて日が浅いのだろうか。無造作に梳かされた癖のある髪は首のあたりで整えられ、小さく左右に跳ねていた。彼の着込む上着の袖は、腕までたくし上げられてそこに残る無数の傷跡を大気に晒していた。それは彼の生きていた証のように思えた。
「それはあなた自身ですよ。私は地獄の案内人でしかありません」
「お願いだ。もうこれ以上悩ませないでくれ。俺は眠りたいんだ」
「本当のあなたから逃げるのですか。血を裏切ったあなたが。憎しみのままに集めるのです、魂を」
「魂を…?」
「あなたは魂を吸わなければ、いずれ砕け散ることでしょう。他人の死に縋ることでしか、あなたはもう形を留めていられないのです。その定めからは逃れられません」
この女性は、私が出会った頃の彼にそっくりだ。案内人という彼の名乗りも。覚束ない彼の不器用な話し方も。癇に障るような一つ一つの仕草さえも。そうか、こうやって彼は残像にされたのか。でも――。それじゃあ、本当の魂はどこにあるの?本当の彼はどこで苦しんでいるの?
「俺は…どうして…」
「記憶がほしいのですか」
「返してくれ…たとえ…消えてしまうぐらい辛いものだとしても…俺のものだ」
「いずれ…とだけ言っておきましょうか」
女の人が手をナジムの額に翳した。きめ細やかで嫋やかな女の白く細い指の隙間から、ゆらゆらと空気に漂う糸のような、紐のような白い光。靄のようにぼんやりとした朧の光が彼女の掌に吸い込まれていく。吸い取られるたびにナジムの顔から血の気が引いてゆく。その場に鈍い音を立てて、転がり倒れるナジム。彼は襲いかかる恐怖の痛みから逃げようと必死にもがいていた。集まって絡み合った光の糸を片手で掬い上げると、女は優しく艶めかしく吐息を吹きかけた。そのあと、女は光を閉じ込めるように手を握った。再び手を開くと、そこには、石英の欠片があった。正気を失った彼の魂を封じた鉱石。その奥で渦を描くように踊る揺らぎの波。女はその欠片を愛おしそうに眺めると、膝をついて床の鏡に触れた。触れ合う女の指先と欠片は鏡の奥へと溶け合って消えた。鏡に映るのは、そこに落ちた欠片から広がる放射線状の円。連なる円の中央で欠片はゆっくりと沈んでいった。
「その間にあなたを夢見る人が…消えないといいですね」
欠片を鏡に埋め込むと、女はナジムの唇のなだらかな弧を人差し指でなぞった。そして、彼の額をその指でつつくと彼は何事もなかったように目覚めた。しかし、そこに佇む彼の瞳は憎悪に燃えていた。氷のように冷たく、鏡のように光を反射するだけだった。そうして男は解き放たれたのだった。彼の表情は険しく、怒りに満ちていた。
*****
ナジムに冷たい一瞥を投げかけると、女は口を開いた。抑揚のない声が鏡張りの部屋に木霊する。
「あなたを夢見る人が消えるたび、あなたの記憶は消えてゆくのです。最後の一人が消えた時、残像は粉々に壊れます。名前を喪ったあなたに残された時間は無に等しかったのですがね」
せっかくの遊戯を台無しにされたとでも言わんばかりに、眉をひそめる女性ペルセポネは衝撃的な一言を言い放った。
「興醒めです。もっと私を楽しませてください、私たちの最愛の息子――カイン」
私の脳内で不意にリフレインされる少女の口の形とノイズの入った聞き取りにくい言葉の端々。ナジムの本当の名前――「あ」「い」「う」の形だと思った彼の名前。近いようで遠い意味の名前。脳裏を横切る権威ある教えの逸話。兄弟を殺した最初の人間。追放されし者の名。忌まわしき裏切りの名前。
「俺の名前…?カインだと…?」
わなわなと震えだすカイン。幻の少女が声をかけていたのは、自分だったという驚きに見開かれた彼の目は焦点が合わず、虚ろに彷徨い歩いていた。彼は両手を徐に広げて、息を荒げながら怯えていた。
「――裏切りの名前…カイン。呪われた哀しい性を背負った子。家族を裏切り、主を裏切り、国を裏切り…そして、愛する人までを裏切った。それがあなたの記憶。そして、最も地獄の神に愛された子。私たちの最愛の息子…」
ペルセポネの口から吐露されるカインの哀しき事実。記憶を見つけた束の間の幸福を地に叩き落とすかのような絶望。彼の瞳に映るのは、きっと――。愛する人の血に塗れた汚らわしい己の両手。カインがここで狂気に染まっても可笑しくなかった。
「俺が…あいつを殺した…?俺自身の手で…?俺が…?俺が?」
自分に微笑みを投げかけてくれた小さな少女。自分を知る唯一の人。曖昧になって時間の砂に埋もれていた思い出をやっとの思いで引き摺りだしたのに、それは一瞬にして泥をかぶって汚れてしまった。
「生きた魂の影響でしょうか。記憶の断片に触れたのですね。自ら犯した咎に苦しむがいい。すべての記憶を捨て去り、新たな眠りにつきなさい」
再びナジムの額に翳される白い掌。冷たい笑みしか彼女の顔には張り付いてはいなかった。
「さよなら…私たちの最愛の息子。永久に彷徨える魂…人間の原罪、そして私の人形…」
繰り返される夢の跡。地獄に縛り付けられてずっと彷徨い続けていた彼は、何度も創られては、同じ敷かれた道の上を何度も何度も歩かされてきたのだろう。彼が救われないのも、こういうことなんだろう。夢を見てくれる人は残らない。そう、造られた操り人形だから。何度、偽りの魂を創られたの?何度、記憶を消されたの?あの光景は――。あの少女は――。あなたの本心じゃないとしても…片隅に残っていた微かな記憶の澱の中から生まれた小さな思いだとしても――。あなたの手にした束の間のまほろばを壊したくない。そう思った刹那、声よりも先に私の体が動いていた。
「やめて!」
私は耐え切れなくなって、ペルセポネとカインの間に割って入った。彼女の集中は途切れ、抜き取った光の糸はカインの額から元の持ち主のもとへと戻って行った。
「行く…な…ルナ…」
朦朧とする意識を何とか振り絞りながら、カインが呟く。幽体離脱した体はまだ彼の言うことを聞かないのか、膝をついたまま首だけを私の方に向けて、苦しそうに喘ぎながら警告をする。
「邪魔をするな…娘よ…おまえもここに閉じこめてやる…これをお食べ」
女はカインをなぎ倒し、瑞々しい柘榴の実を荊の蔦からもぎ取り、私の口に無理やり押し当てる。
「口に…しては…だめ…だ…ルナ…帰れなく…なる…ぞ…」
床に衝突した激痛で気を失いつつあるはずのカインが気力の限りで叫んだ。
「まだ洗脳に浸し切れていませんか…図太い魂の核ですこと。消えたいのですか?」
歪んだ愛を注いだ魂に断罪を下すかのような手刀が脊髄に振り下ろされる、まさにその瞬間。地の底から響き渡り、聞く者の心臓を鷲掴みにする声が聞こえた。
「――やめろ、ペルセポネ」
見るに見かねたハデスが杖を床に叩きつけて激情に身を任せるペルセポネを制止する。
「ハデス様…」
ハデスの乱入に困惑を隠せない地獄の女神に冥府の神は、淡々と語り始めた。
「――我はおまえが気に入った。死せる魂と生ける魂の同調とは…実に興味深い。行かせてやれ、記憶の最深部へ。魂の昇華を見るのも悪くはない。壊れる方が我の希望だがな」
不敵な笑みを遺して、ハデスはペルセポネを立ち去らせた。
「おまえが記憶を取り戻した際、どうなるか…見ものだな」
漆黒のマントを翻して、ハデスは私たちに背を向けて去って行った。去り際に彼はこう、呟いた。
「行くがよい、最愛の息子カインよ」