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§nenuphar 8

ナジムは声を枯らして叫んだ。虚しく反響する彼の声は、鏡の縁を震わせた。ぽろぽろと止めどもなく頬を伝う涙。冷たい無機質な小部屋に取り残されて、彼は呆然とただ遠くの一点を見つめていた。一片の言の葉は、ゆらゆらと空中を虚ろに漂って、地に触れる前に朽ちてしまった。

「どうして…どうして…」

白い少女が姿を現して消えるまでのたった数秒の間のことなのに、彼は憑りつかれたように同じ言葉を反芻し続ける。疑問符が浮かぶ彼の頭上。困惑の迷宮に囚われる尽きない疑問。

「俺の…記憶…?あの子は…俺の…なんだ?名前…だって…思い出せない…顔もぼんやりとしか…わからない…でも、声だけしっかりと聞こえるんだ…」

記憶を奪われた空っぽの身体に、染み込んでいく少女の弾んだ声。遥か彼方に追いやられて迷子になった、糸のように解れていった、彼が「生きていた」時の思い出。色褪せたアルバムを手で一枚一枚捲るように、巻き戻される愛しい記憶の断片。その断片は、お互いを求めるように手を伸ばして抱きしめ合っていく。無数の傷を創って、ぼろぼろになった心を癒すかのような懐かしいという感覚。どんなに泥に塗れても、ずっと消えることなく彼の中に蟠りとなって引っかかっていた誰かの面影。夕日に暮れ泥んでいた思い出に映る少女の微笑み。壊れていた彼の記憶の宝箱の鍵が漸く見つかったかもしれないというのに、素直に喜べない自分を私は憎らしく思った。いつの間にか棘だらけになってしまった私の心。彼が気付かせた衝動が私の心の中で渦巻いて、なかなか冷めない、消えない、去らない。のた打ち回る激流に呑まれぬように、それを押し隠すように、私は平静を取り繕っていた。

「懐かしくて…懐かしくて…たまらない。やっと…会えた…俺を知ってる…人…」

その言葉は、ひりひりと私の胸を締め付ける。喉の奥がなんだか熱い。指先がしんしんと熱を失ってゆく。わかっていたことなのに、心に篠を突くような雨が降る。足掻いても足掻ききれない、彼との距離。私は、抱き続けてきた彼に対する負の思いを中和する人間臭い彼の賑やかな表情の変化に、少しずつ親しみを感じ始めていた。

「一度だけ…もう一度だけ…あの子に会いたい」

反り立つ越えられない壁が、縮められない私と彼の距離に拍車をかける。無表情の裏に閉じ込めようとすれば、脳裏を過る優しく柔らかに、髪を梳いてくれた彼の大きな掌。切なくて、苦しくて、戸惑って。

「――次の場所へ行こう。第八圏へ、また何か見つかるかもしれない」

彼は涙を手で拭った。微かに鼻を啜る音が聞こえる。私は、彼に手を引かれて階下へと下った。

 第八圏へと続く階段は、先ほど下ってきたものよりもずっと急だった。土で無造作に固められた段差が私たちを急かすように、迫ってくる。そんな感じがした。悪鬼の顔の燭台に刺されている、今にも溶け終わりそうな蝋燭が私たちの辿る道を仄かに照らす。慣れが恐怖と不安を大分和らげてくれた。醜い悪鬼の彫刻に見つめられながら、螺旋階段を滑るように降りて行った。しばらくすると、思い出したようにナジムが口を開いた。

「地獄の第八圏――悪意を以て罪を犯した者が棲む圏だ。悪鬼が司る圏だと聞く」

私は、何も答えなかった。行く宛のない気持ちが口から出てしまいそうだったから。

階段を下りた先には、重々しい扉の部屋が鎮座していた。冷たい錻力の取っ手を掴み、中へ入るとそこは十面鏡の部屋だった。禍々しい悪魔の彫刻が鏡の脇には供えられていた。

「Ⅰ.Calcabrina」と彫られた鏡の中では、背に蝙蝠の翼を生やした黄色の小鬼に白い布きれだけを身に着けた男が荊の鞭でびしびしと叩かれている。服は破け、じわりと男の背には血が滲み始めていた。もう一匹の小鬼は、鎖鎌を投げて遊んでいる。それが投げられた先には男の体があり、確実に急所を狙っていた。げらげらと大声を上げて笑い出す小鬼たち。肉を抉られて削ぎ落とされて苦痛に暴れる男。彼が動くたび、陸に打ち上げられた無防備な魚のように血が踊りながら噴き出す。それがおかしくて仕方がないという風に小鬼たちは無邪気に笑っていた。それに飽きると、鬼たちは彼に屈辱の体勢を要求した。鬼たちは男の力の抜けた脚を取ると、股を割るぐらい大きく広げた。それから、彼の足裏を男の顔に近づけた。小鬼の一人がどこからか釘を取り出し、男の急所に力の限り刺し立てた。落ちている石でがんがんと男に釘を打ちつけていく。他の小鬼たちも嬉々として男の手に釘を打ちつけて身動きを取れないようにした。何本も外性器に差し込まれる釘の痛みに、男が耐えきれるわけがなかった。私もナジムも、男の絶叫から目を逸らした。男の目は怒りと恥辱で血走っていた。

 私とナジムは時計回りにその部屋の鏡を見た。次の鏡には「Ⅱ.Scarmighione」と彫られている。大きな壺の中に数人の女が浮かんでいる。壺に並々満たされているのは糞尿を溶かしたものだった。ぐつぐつと泡を立てていることから、その汚泥が熱く煮え滾っていることは容易に想像できた。手で掻き分けながら、緑色の小鬼に助けを請う愚かな女たち。長い金属棒をぐるぐると回しながら、小鬼は女に冷たい一瞥を投げると、ねっとりとした不遜な笑みを口に貼り付けた。金属棒を壺に立て掛けると、蝶のような羽を広げ女たちの頭上に近づいた。顔を輝かせる女を無視して思い切り女の頭に飛び乗り、沈めていった。ぶくぶくと泡を吐くこともできずに糞尿の泉の底へと溺れていった。満面に広がる小鬼の笑み。悪魔にさえ追従する彼女らを嘲っていた。それは見る者を凍りつかせる氷のような笑みだった。鏡に隔てられていても、錯覚してしまう糞尿に混じって肉が腐った匂い。湧き上がる吐き気。ここへ来てから何度、吐き気を催したことだろう。

 次の鏡には「Ⅲ.Cagnazzo」と彫られていた。美しい肉体をした男性が十字架に磔にされていた。下半身のみを襤褸で隠しただけの粗末な身なり。頬骨が浮き上がり、血の気も引いた蒼白い端整な顔。腕に彫られている「PROFANER」。痛々しい傷は男の胸にもあった。「ABOMINABLE BLOOD」。大きく彫られた文字。足に彫られた「CORRUPTION」の言葉はまだ生々しくぽつりぽつりと乾いた大地に血を与えていた。雨が大地を潤すように、男の体から血は滴り落ちていた。大地もまた貪るように垂れ流れる血を吸っていた。腰まで然したる手入れもされずにぼさぼさに伸ばされた髪が受刑者の荒みようを言葉で語らずとも、はっきりと示していた。緩やかにうねる髪と絶望に細められる切れ長の目が彼の面影を思い出させる。ここに映るのは幻なのだろうか。

「――ルキフェル!」

張り付くように見ていたナジムが声を漏らす。その声が届いたのか、ルキフェルはこちらを見てにっこりと笑った。

 彼の首に懸けられたオカリナが黒い小鬼の野次に乗せて投げられた石に当たって砕けた。ぱらぱらと舞い散り落ちる欠片。彼は別段迸る怒りに身を預ける訳でもなく、激情に任せて涙の海を作る訳でもなかった。ただそこには静謐を湛えた水盆のような諦観だけがあった。赦しを天に乞うこともせず、彼を静寂の中に包み込む暁闇に一筋の光をもたらす星をじっと見つめていた。遥か遠くで蒼く輝く小さな星。そのちっぽけな星に最後の願いを託すかのように、彼は穏やかに微笑んだ。緩やかに軌跡を描いていく彼の口許には既に未練は立ち消えていた。小鬼の手に握られた真っ赤に燃え上がる松明。焔は、蛍が飛ぶように火の粉を散らしながら十字架の足に燃え移った。めらめらと轟きを上げて猛威を奮う。彼の足を、腰を、腹を、胸を、腕を火炎は無慈悲にも蝕んで行く。どんなに全身に火傷を負っても、彼は顔色ひとつ変えずに目を閉じた。彼の顔を火が覆い尽くす前に、一言呟いた。

「青空に架かる虹の麓を…見ような…いつか…みんなで…」

業火は、彼の美しい顔を喰らいつくした。私の握る祈りの笛には、二筋の亀裂が刻まれた。

 親友の罰をまざまざと見てしまったことに、深い後悔を覚えたのだろうか。ナジムはその場に立ち尽くしてしまった。穏やかな笑みを湛えて地獄の業火の餌食となったルキフェルの最期が何度も繰り返して脳内で再生される。火が猪突猛進の勢いで彼の身体を走って行く光景は壮絶で凄惨なものだった。ナジムの心中には、ルキフェルより酷い仕打ちを受けねばならない我が身を憂いているのかもしれなかった。

 「Ⅳ.Rubicante」。鏡の縁の下方には相も変わらず文が彫られていた。そこに映し出されていたのは、ある古風な城下町であった。異国情緒溢れる小奇麗な街並に似つかわしくない古ぼけた荷車が、静まった街の中心部に向かって鈍い音を立てながら走る。そこに積まれていたのは人間だった。妙齢の美人が白い囚人服に身を包んで乗せられていた。風を受けて靡く金色の髪。顔半分を覆う包帯には、じんわりと血が滲んでいた。少女によく似た美しい女の人であった。沿道の庶民の好奇の目に晒されながら、荷車はゆっくりと街の中央の広場へと辿りついた。そこには巨大な鐘形の置物が重々しく置いてあった。荷車から乱暴に彼女は降ろされると、それまで自由を奪っていた手枷・足枷を外されて、その置物の前に進み出るように命じられた。彼女は抗うことなく従った。聖母の図像をした置物の前で彼女が立ち止まると、官吏は中に入るよう続けて命じた。前開きにできる置物の鍵が外され、その中が見えた。無数の針がつけられて逃げ場のない空間に彼女は追いやられようとしていた。ルキフェルと同じように彼女も入る前に屈託のない笑みを見せた。「魔女め!」と観衆から上がる罵詈の声。それに掻き消された、彼女が発した言葉。しかし、鏡の向こうにはしっかりと聞こえていた。

「あなたと…終わりまで…いたかったのに…な」

残酷な聖母は、広げた手を胸の前で重ねた。金属の中で反響する女の叫び声。飛び散る血飛沫。それは数分と経たずして途切れた。開けられる蝶番。中から倒れて出てくる女。広場に響き渡る歓声。女が身に纏っていた白い囚人服は血に染まり、綺麗な赤色となっていた。鉄の聖母は一人の女の命を奪ったのだった。

「Ⅴ.Libicocco」と雑に削られている鏡を私たちは覗き込んだ。巨大な樽の中のコールタールに首まで浸かっている人間が何十人もいた。丸々と肥えて豚のような風貌の人間たち。

「金をやるからここから、出してくれ!俺様を誰だと思っているんだ!」

小鬼に金をやる仕草をするも、もちろんそこに金はない。紫色の小鬼は、馬鹿にするように男の目の前で言った。

「あなたは、生きているときもそうやって、金に固執していたのでしょう?蓄えの少ない貧民から搾り取った金は、さぞ甘い蜜の味がしたのでしょうね」

感情の籠らない声で、小鬼は彼らに二度目の死の宣告をする。持っていた蝋燭の火をコールタールに引火させた。ごうと激しい音を立てて燃え上がる炎。小鬼は、ぎょろりと目線を樽の中へと落として捨て台詞を吐いた。

「金が欲しいなら、そこを這いあがってきなさい。豚どもめ」

 部屋半分の鏡を見た。既に限界まで精神は疲労していた。鏡の向こう側と今私たちが立つ部屋との隔絶に絶望し、虚無に満たされた。それでも鏡の誘惑に抗うことは私たちにはできなかった。「Ⅵ.Ciriatto」と彫られた鏡を私たちは覗き込んだ。首を輪で繋がれ自由を奪われた一人の女が、荒野を赤い小鬼に鎖を引かれて歩いていた。草木も芽吹くことができないほど、潤いを捨てた大地。天もその地を見限って、慈雨を降らすことを止めたかのようだった。黄ばんで穴が空いた襤褸切れの上に眩い金色の外套をを被せられた女は、無言で荒れ地を裸足で歩かせられていた。女は立ち止まってため息をついた。己の末路をに思いを馳せたのだろうか。首輪が容赦なく彼女を締め付ける。小鬼は凄まじい剣幕で女を罵倒した。

「偽善者風情が!」

女の身に纏う金色に光輝く外套はあまりにもその場所に似合わなかった。外套は金でできていた。ぎらぎらと照りつける太陽が外套を燃え上がらせる。ひりひりと彼女の素足を焼く砂地。重さと暑さで彼女の意識は朦朧とし始めていた。小鬼は、女の動きが鈍くなると蠍の毒針を手に突き刺した。痛みで震え上がる身体。呼吸が徐々に荒くなっていく。手が足が痙攣し始めた。目は虚ろになっていく。呂律の回らなくなった口で彼女は何かを懸命に話そうとしていた。

「最後に…聞かせて…あなたの…本当の…名前…」

何度か繰り返しその言葉を呟くと、女は灼熱の大地に倒れ込んで動かなくなった。小鬼は彼女の頭を踏んで地中に埋めた。けたけたと甲高い笑い声のみがその地に木霊した。

 「Ⅶ.Barbaricca」と縁に刻まれた鏡。嫌な予感が私を襲った。鏡の奥では、赤髪の男が粗雑な岩の寝台にくくりつけられている。すらりと引き締まった体躯に小鬼が鋭利な刃物で腹を開けていく。肉を切る際に、体からとろりと蕩け出す紅い液体に「汚らわしい」と小鬼は不快感を露にした。男は激痛に顔をしかめるだけで、言葉は一切発しなかった。

「おまえが盗んだものの分だけ、おまえの臓器をむしり取ろう。自ら犯した罪を悔いるがよい」

小鬼は高圧的に吐いた。男の腹から真っ先に胃が取り出された。続いて肝臓、小腸、大腸、膵臓。男の腹を掻き回すようにして抜き取られる腎臓。大量に岩に注がれる血のせいで男は生気を失いつつあった。他の青い小鬼たちは彼の体から搾り取られた命を繋ぐ機械を積み木にして遊んでいる。息をしている機械を手に取り、幼子のようにはしゃいでいた。私の背には怖気が振動して離れない。小鬼は「まだ足りない、まだまだ足りない」とぼやきながら次々と彼の体に手をかけていく。鼻を切った。耳を削いだ。目を抉った。歯を抜いた。爪を剥いだ。膀胱を搾った。陰茎を刻んだ。血は滝のように流れた。小鬼は痛ぶり、男が衰弱するさまを見るのが楽しくて仕方がないように見えた。青い小鬼は男に言葉を求めた。慈悲はなく、尊大に。促された男は口を開いた。

「――何と引き換えにしたって…あいつは…あいつは…どこへでも…逃げて…くれ」

小鬼は満足げに頷くと、生を司る機械に手をかけた。肺を壊した。心臓を刺した。頭蓋を割った。脳を浸していた透明な水が溢れ出した。小鬼は男の脳を取った。他の青い小鬼が創った臓器の城は、どくどくと血を噴き出して生きていた。

「カロン!」

ナジムは鏡を乱暴に叩いた。ナジムの拳に血が滲む。鏡にはひびが入って欠けた。ぱらぱらと砂時計の砂が落ちるように降る鏡の破片。しかし、そこには青い光を反射する壁があるだけだった。

悪鬼の彫刻が不気味な笑みをしている鏡の前に私たちは来た。「Ⅷ.Malacoda」。その向こうでは、茶色の小鬼がほくそ笑みを浮かべて舞台の上に立っている。開幕ベルがけたたましく鳴り響くと、目隠しをされ、白いフードで身体を覆われた女が小鬼に連れられ、舞台中央に姿を現した。「理性秀でる詐欺師をこの手で壊して見せましょう」小鬼の演説に観客がざわめく。小鬼は舞台袖から運ばれた酒瓶のコルクを開けて女に無理矢理飲ませた。女は最初は抵抗するも、快楽を誘う味に毒されて喉の奥へと薬を流し込んでしまった。彼女は脱力してその場に座り込んだ。小鬼は女の視界の自由を奪っていた帯をするすると解いた。理性の歯車が音も立てずに壊れた。荒々しくなる息遣い。火照る身体。意識が魔に支配される寸前に、絞り出される蚊の鳴く声。

「――あの日のように…笑えなくていいから……どうか…置いていかないで…」

唸り声をあげて女はフードを脱いだ。露呈される醜い顔。滑らかな銀色の髪は悉く抜け落ち、床に散らばっていた。彼女は観客を襲い始めた。悲鳴をあげて逃げ惑う人を殴り倒して食べ始めた。狂喜の笑み。魔の手に堕ちた女は鬼と成り果てた。小鬼は歓喜なる嘲笑を包み隠さずに幕を降ろした。

「鬼の母は愚かなる知恵ある獣。母がまた生まれました。喜ばしいことです」

終幕のベルは金切り声をあげた人間によって掻き消された。

「これ…ミーノス…なのか…?」

信じられない、いや、信じたくないといった表情を浮かべてナジムはその鏡を注視していた。私に促されるまで彼は、ずっとその前から動こうとしなかった。

「Ⅸ.Draghignazzo」の鏡の中では、鉛の拘束具を嵌められた囚人が崖に集められていた。小鬼たちは、彼らを崖の先端に立たせて鋭い蹴りを入れて奈落の底へ突き落としていく。「やめろ」という抗いの声も虚しく、罪人たちは次々と海へ落とされていった。小鬼は言う。

「自分の無実を証明したいならば、海から這い上がって来ればいいんですよ。簡単なことじゃないですか」

身に纏う金属のせいで、倍増された重力の負荷が追い打ちをかける。一定のリズムを刻みながら淡々と小鬼たちは、罪人を海の底へと突き落としていく。勿論、誰一人とて海から生還した者はいなかった。

「Ⅹ.Farfarello」に映った光景は、疫病が蔓延した小さな村だった。外に倒れている人の皮膚は、黒く爛れて壊死している。小鬼はこの光景を見て、狂ったように笑い転げた。

「偽りのものを作り、惑わせた者は同じく偽りの中で死ぬがよい」

人が生きている気配は全くなくなっている。私は人だけでなく、生き物の命の躍動感を何一つ感じることができなかった。小鬼は私の言葉を攫って言う。

「死の街の完成です」

 私たちが全ての鏡を見終わると、それは示し合わせていたかのように一斉に割れた。その不思議な光景に愕然として、私たちはまるで金縛りになったかのように身動きができなかった。床に崩れ落ちるナジムの口から発せられる獣のような咆哮。猛々しい雄叫びは小さな部屋を震わせた。がんがんと床を打つ音。口から洩れる慟哭。恐怖と絶望に犯されて、心を巣食われ蝕まれるような感覚が私の心臓を握り潰す。体中の体液が反乱を起こしたかのように暴れる。止まらない痙攣。制御の効かない混乱を落ち着かせようと、私は祈りの笛に縋った。音が出ない。亀裂のせいだろうか。音に嫌われてしまった。見えない得体のしれないものに足元を掬われそうで怖かった。

 部屋の奥の静けさに満たされた闇の中から、水面を渡る水鳥のように白いワンピースをはためかせて少女は再び私たちの前に姿を見せた。

「――泣いてくれたんだね。ありがとう、…イン」

暗がりの奥から明瞭になってゆく彼女の声音。またしても彼女の声に虜になったナジムは、頭を抱えながら床に崩れ落ちた。



「――睡蓮の花は泥の中で生まれて…綺麗な青い空を見るために茎伸ばして、大好きな太陽のために清らかな白い花を咲かせるんだよ。泥のように汚れた世界で生きてるあたしたちも、こうして救われたら…いいなって」

「――俺たちを表してるような…愛しい花だな」

「そうだね、罪人の運命みたいで……あたしたちが触れたら、壊れそうで怖い」

「――ああ」

「――あたしね。いっそ、捕まって死んでしまったら…どんなに楽だろうって思ってた。逃げて、また罪を塗って、後悔して…ずっとその繰り返し。疲れちゃったのかな。枯れてまた泥に沈めば、きっと苦しまなくて済むんだって…何度も思った。…でもね」

「でも?」

「――花は枯れて泥に消えてゆく。いつかはわからないけど、必ず。私、この花みたいに花弁の最後の一枚が散り終わるまで…太陽のために咲いていたいって思ったの」

「……俺たちに、その資格があるかな」

「――わからないよ、そんなこと。だから…探しに…行こう」

「どこへ…?」

「…青い空に架かる虹の麓」

「――そこまで逃げ切れたら…自由になれるのかな」

「きっと…なれるよ」



「ここまで…ありがとう。…インを連れてきてくれて」

少女は私の頬に触れて優しく撫でる。慈しむような安らかな瞳。少女の最期を見た私は、思わず涙が溢れ出した。

「――ルナ。私の片割れ…愛しい…片割れ…」

少女は何度も私の名前を呼んだ。そして、何度も愛しいと言った。にこやかに微笑みながら私の涙を拭う彼女のか細く白い指先。その指は震えていた。

「あなたが…私を呼んだ…私も…あなたを…呼んだ」

ナジムははっと目を見開いた。そして、大粒の澄んだ真珠を目から溢れさせてこう言った。

「――君は……おまえは…」



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