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§nenuphar 6

荒れ果てた一本の小道を地平線に向かって歩いていくと、厳重な炎の門に固く閉ざされ、円形の城壁に回りを囲われた場所があった。ナジムはその前で立ち止まり、門の脇に置かれた石を確認すると、懐から取り出したナイフで自分の指を切った。彼は、流した血で幾つかの文字を書き始めた。彼の血は石に染み込み、炎が消えた。門がぎいと重々しい不気味な音を立てて開く。中からは、にぎやかな声が飛び交っていた。

「ここがディーテの市だ。堕落した天使と重罪人が容れられる、永劫の炎に赤熱した環状の城塞。ここより下の地獄圏の入り口はこの内部にある。、俺から離れるなよ」

 黒いジャケットに包まれた彼の太く逞しい腕に抱きかかえられて、ディーテの市へと足を踏み入れた。外を覆っていた灼熱の炎とは対照的に市の中自体は、酷く寒かった。市全体に響き渡るパイプオルガンの音。それは、私の記憶が正しければ、死者に贈るレクイエムを奏でていた。

「――また、サタンが怒りに任せて弾いているのだろう。あいつは、教会に引き籠って不吉な音楽ばかり演奏するんだ。まったく狼のように執拗な男だよ。憤怒の呪縛から逃れられない哀れな奴でもあるがな…」

ナジムは呆れたように呟くと、私を連れて市の中にある一軒の宿屋を訪ねた。そこでは、奇怪極まりない姿をした人間が何人もいた。ナジムが言っていた残像。皮膚の色も、髪の色も、眼の色も毒々しい衝撃的な色に染められていた。角のある者・翼のある者・牙のある者という人外の形をした輩が大多数を占めていた。ナジムは宿の番頭に声をかけた。知り合いなのだろうか、その調子は彼には珍しく砕けていた。

「久しぶりだな」

「久しぶりじゃねぇか、死神。今日は何と引き換えにここに来たんだよ。言っとくが、俺の店は高いぜ」

「マモン、これで文句はないだろう。2人分だ」

「ほう、こりゃ珍しいな。あんたがここで金貨を払うたぁよ。ゆっくりしてけよ」

ナジムから受け取ったキラキラと光る金貨を満足げな笑みを浮かべて、愛おしそうに見つめるマモンと呼ばれた男。針鼠のように鋭く切り揃えられた紫色の髪。小指の爪だけが異様に長く、黒い色をしていた。狐のように吊上がった目は赤く血走っており、私の姿を目に止めると何か言いかけた。だが、ナジムがそれよりも早く私の服の袖をつかんで、宿から出た。市の中央へ歩いていくと、腕と胸に大きく蠍の刺青を入れた色男が近寄ってきた。頭には山羊の角をはやしている。自分の肉体美によほど自信があるのだろう。野性味あふれる出で立ちをしていた。いやらしい視線を私に浴びせながら、ナジムにその男は尋ねた。

「よぉ、死神。えらく可愛い娘を連れてるじゃねえか。俺に紹介しろよ」

「アスモデウス…口を慎め」

私は、アスモデウスという男の舐め回すような視線に耐え切れず、目を逸らした。執拗に追う獣の瞳。男は屈んで私の顔を覗いてきた。

「なに君、俺に欲情してんの?なぁ、俺がほしいんだろ、俺の前で綺麗な声で喘いでくれよ。欲しくて堪らないって顔してるぜ。顔に似合わず淫乱な君を狂うまで犯してやるよ」

「――いい加減にしないと、殴るぞ」

「へぇ。あんたが女を庇う、ねぇ。珍しい。ま、実をいうと、あんたみたいな未熟な女は好みじゃないんだわ」

私たちに言いたいだけいうと、アスモデウスは雑踏の中に消えた。雑踏は、多くの奇妙な姿をした異形の者たちで溢れかえっていた。髪の色も、肌の色も奇抜であるのはまだ見るに耐えた。中には、傷だらけでぐるぐると包帯を巻いた輩や羽をもぎ取られた奴もいた。まるで、夢と現実を行ったり来たりする白い少女のように。市に入ると、大きな声を張り上げて、行商人や露天商が何かを売っていた。皆が売っているのは、海月のような淡い色のついた球体をしたもの。掌ぐらいの大きさから顔ぐらいの大きさまでまちまちだった。私たちが北から南へと歩いていると、売り子の女性に呼び止められた。彼女の背には大きな蝙蝠の羽が生えていた。 足もとには丸々と肥えた豚がいて、醜い鳴き声を絶えずあげていた。女は、乱れて櫛も通さないような硬い髪を荒れ果てた森のように伸ばし、顔は清潔とはいいがたかった。

「ああ、死神じゃないかい。随分顔を見せないと思ってたよ。あんた、今回はどのくらい持ってきたんだ?あたし、あんたが持ってくる魂が一番好きなんだよ。甘くて柔らかくて、舌で触れたらすぐとろけちまうからさ。なぁ、もっと持ってきてくれよ。飢えが止まらないんだよ」

「…俺はもう、魂は集めない。だから、諦めろ。ベルゼブブ、これが最後の魂だ」

そう言うと、ナジムは懐から瓶を取り出してベルゼブブと呼んだ女に手渡した。

「あんた…何があったんだい。あんなに熱心に集めてきてただろ。あたしが一番贔屓にしてたじゃないか」

「――もう、やめたんだ」

訝しげにナジムを見るベルゼブブを余所に、ナジムは私の手を引いて速足で歩きだした。彼の足取りはとてもしっかりしており、何処か明確な目的地があるようだった。市を通り抜ける間、じろじろと交わされる好奇の目に私は晒され続けた。途中、市の中央の十字路にて私たちは誰かにぶつかった。如何にも気に食わないといった顔をしてこちらを睨みつける小熊のような少年。彼がナジムに目を遣ると、驚いたように声をあげた。

「あぁん…死神かよ。こんなところに来るなんてさ、あんたも暇だね。望みもないことにずっと縛られてさぁ、進展なんて望めないんでしょ。全部やめちゃえばいいのに。何もかもやめてさ、眠りと遊びを貪ってる僕には関係ないけどね。興味ないし、めんどくさい」

「いつまで同じことを呟いているつもりなんだ。ベルフェゴール」

「あんたも僕と同じでしょ。人のこと言えないんじゃない」

「――そう、かもな。俺は逃げていたのかもしれない。だから、仮面に身を包んでいたのかもな」

「あんた、変わったね。仮面も帽子も身に着けてないしさ。僕と同じように夢も希望も忘れて、何もかも恨んでいたのにね」

去り際にナジムの変化に驚いた感想を漏らして、ベルフェゴールは私たちとすれ違った。市にいる他の者たちとは違い、彼は私には何も興味を示さずに雑踏の中へ溶け込んだ。彼と行きかうようにして、たわわな胸を揺らしながら、鬼のような形相で私たちに向かってくる一人の女がいた。スカーフのように毒蛇を首に巻き付けて、犬の顔がついた毛皮を肩からかけている。彼女は、真っ赤に染まった長い髪をきつく一つに結わえ上げていた。ナジムの目の前でいったん立ち止まると、女は彼の胸ぐらをつかんで一気に捲し立てた。口からは鋭く研がれた牙がちらりと見える。緑色の不気味な目は蛇のように眼光鋭く私を見下ろしていた。シューと息を吐くと、先の割れた細長い舌をナジムの頬に纏わりつかせて言葉を吐いた。

「なによ、死神。そいつ、誰?私以外の女と歩くなんてどういう了見なのよ。憎らしいほど綺麗な女、連れて見せつけのつもりなの。あなたは永遠に私の虜となる誓いを果たした仲なのよ。こんなに綺麗な私を捨てるなんて、何考えてるの。今度ディーテに来るときは私と共に時を貪る約束したじゃない。忘れたの」

私を見る瞳は絶対零度だった。凍てつくような瞳が私の心を見透かそうとする。わなわなと震え始める私の身体が危うく地面に倒れそうになったその時、黒い人影が私たちと女の間に割って入った。

「黙るがよい、リヴァイアサン」

その場に響く低い声。その声の主と目があった者たちは、たじたじと踵を返して去って行った。リヴァイアサンと呼ばれた女は、ナジムを掴んでいた腕を離すと、黒髪の男に向かいあった。先ほどまでの強気はどこへやら、うっすらと冷や汗が彼女の顔に滴っていた。

「何よ、ルキフェル。煩いわね、言われなくても下がるわよ」

精一杯の反抗の表情を浮かべて、彼女は一目散に漆黒の男の目の前から逃げ去った。ナジムは、ほっとしたように胸をなでおろし、私の傍に近寄った。腰に孔雀の羽を12枚つけた黒装束に身を包んだ男は、紅蓮の糸で刺繍された袖に一羽の鷹を止まらせていた。彼がそっと鳥に息を吹きかけると、甲高く一声鳴いてそれは暗闇に姿を隠した。ナジムは怯える私を支えると、濡れ烏のような美しい艶髪をした男に挨拶をした。彼はディーテにいるどんな者よりも美しかった。緩やかに波打った黒髪を緩やかに束ね、脇に流れる髪を透き通るくらい白い肌の耳にかけていた。首に雫型の金色の宝石をかけていた。漆黒の切れ長の目に光を湛えて、慈愛に満ちた視線をナジムに送っていた。

「――ルキフェル。ありがとう」

ルキフェルは少しだけ笑みを浮かべて話を続けた。

「こいつは、ルキフェル。俺の唯一の友人だ。おまえも残像だった…よな」

「ああ。俺は、ここディーテの市の番人をしている。そう言えば聞こえはいいが、俺はここに縛られた操り人形に過ぎない」

私に向かって紹介するナジムの言葉を受け、ルキフェルは私に軽く頭を下げた。挨拶もそこそこに、ルキフェルはナジムに向き直り、彼の真意を問うた。

「久しぶりだな。俺に何の用だ」

「――おまえに頼みたいことがある」

「貴様…少し記憶を甦らせたのか」

「何のことだ」

さっぱり理解できないという顔をナジムはした。

「気付いていないのか。ならば、よい。貴様は、ようやくこの市に棲むことにしたのか」

「そんなことではない」

「まだ決心がつかぬのか?そうすれば、冥府の怒りも受けまいに」

「俺は…」

「決心がつかぬならそれもよかろう。俺も貴様の記憶とやらを探ってみたが、貴様を知る者は、俺を知る者がいないようにこの市と同じ階層にはおらぬ」

「そうか…だから、何度探しても見つからないんだよな」

ナジムの哀しげな声音を気遣ったのか、ルキフェルは話題を私に逸らした。

「――その娘は、貴様が集めた魂か」

「いや。俺が無理やり連れてきたのだ」

「――もしや生者の娘だと。では、6つの地獄圏を既に回ってきたのか」

「ああ」

「期待できそうな娘ではないか」

驚愕と好奇が入り混じった視線を浴びせるルキフェルを横目に、ナジムは真剣な面持ちで改めて話を切り出した。

「――ルキフェル、頼みがある。ここからルナを連れ帰してほしい。おまえならできるだろう」

「貴様はこれからどうするのだ。再び魂を集めに行くならば、貴様が娘を連れ帰ればいいだけだろう」

「俺は――」

ナジムは、俯いて言葉を詰まらせた。私は事の成り行きが全く呑み込めなかったので、ただ黙って彼を見守ることしかできなかった。彼は私をちらりと横目で見て、すぐさま目を逸らした。彼は両手で握りこぶしを作り、抑えきれない感情を無理に押し殺しているかのように私には見えた。束の間の静寂を打ち破るかのように、彼は一段とはっきりした声で思いを告げた。

「――最下層まで行く。俺を…俺自身を探そうと思う」

「冥府の神ハーデスや冥府の女王ペルセポネに逆らってでも、か」

迷いを断ち切ったかのように強く頷いて見せるナジム。その一方でやり場のない恐れが思わず彼の口から飛び出した。

「――自分のこと、思い出してもいいのかな」

目を見開いて彼をじっと見つめるルキフェル。口はへの字を描いて固く結ばれた。

「どうして、俺は何も知らないんだろうな。知らされないんだろうな。おまえは自分の犯した罪を知っているんだろう。どうして俺は…」

ナジムは頭を抱えてうずくまった。

「――俺だって、犯した罪の記憶など知らないさ…ただ、貴様と違ってすべて諦めたんだ。自分を見つけた時、俺がどうなってしまうのかも、記憶に救いがあるのかも、何もかもわからない。自分の弱さを認めたくないのさ。それならいっそ、救いないままここで彷徨うのも俺は悪くない」

自嘲気味に鼻で笑うルキフェル。

「――俺は許されたい。胸の奥で何かがずっとつっかえてる。ずっと。夢の中で、誰かが俺に許しの言葉を言っているんだ」

はっとする私の微かな表情の変化には、彼は気付いていないようだ。

「わからない。どうして、俺がハーデスの怒りを一身に受けなければならないのかも。俺は何も、何もわからないんだ。だけど」

ナジムは顔をあげて、ルキフェルを見た。断ち切れぬ負の感情までも自分の中に収めて、自分の生きた証を何であれ確かめに行きたいという願望が現れていた。

「探しに行きたい。――俺、罪を清める覚悟は…とっくにできてる。たとえ、救われない記憶であろうと」

彼の真意が呑み込めたところで、私は無意識に言葉を張り上げていた。

「私、帰らない。あなたと最後まで廻る」

「帰れないかもしれないんだぞ、ルナ。俺だって…ここから先は未知の世界だ。今までとは訳が違う」

私の身を案じる彼の言葉を遮って、私は子供のように駄々を捏ねた。ルキフェルはしばらく思案していたが、やがて何かに思い当たったのか閉ざしていた口を開いた。

「――小娘。行け、俺が許す」

「ルキフェル!」

「その代り、これを持って行け。唯一残る俺の記憶の一部だ。俺がまだ、神の命に逆らわず従順だったときに授かった…祈りの笛だ。今となってはどうだかわからんが、災いを避ける笛だった。堕ちてしまった俺にはもう、不要となったものだ」

「なぜ…」

「――試してみたくなった。それだけさ。小娘なら、貴様を救ってやれるかもしれないからな」

「ありがとう」

私は、ルキフェルから祈りの笛と呼ばれた横笛を受け取った。瑞々しい蔦が巻き付いた木製のそれは、私の手のひらにすぐになじんだ。ためしに吹いてみると、安らかな哀愁漂う音が響き渡った。穏やかな風が音色を運ぶ。

 その音の中で、ルキフェルとナジムは固く抱擁をした。最後の別れとなることを彼らは予感していたのだろうか。私には最後までわからなかった。薄汚れた汚らわしい罪人の巣窟で、紡がれる清らかで切ない思い。永遠の従属を誓った彼らは、諦観に沈んだ変わらぬ時を過ごしていた。変化に対する淡い期待と罪の記憶の露呈に対する強い恐怖。複雑な感情が交差しながら、彼らはお互いを抱きしめあった。静寂に包まれる慰めの地。空に舞う、拘束から抜け出した魂の群れ。暗闇に点々と浮かぶ白い靄は、まるで蛍のように、朧月のようにぼんやりと遥か彼方に溶けて行った。

 悲壮なまでの固い決意の裏に見え隠れする不安を悟られないようにナジムは、必死に手を強く握りしめていた。その手が解かれた時、二人に背を向けていた私を後ろから優しくナジムは抱き留めた。彼の肩はまだ小刻みに震えていた。彼の顔をうかがい知ることはできなかったけれど、彼から伝わる呼吸の音が私に彼の気持ちを代わりに話していた。「誰の面影を私に重ねているの」とは聞くことができなかった。しばらくすると、彼の口からすすり泣く声が漏れてきた。私は目を閉じて彼に体を預けた。光を閉ざされた私の脳裏に浮かびあがる白い少女。遠くの方から手を振って私に近づいてくる。彼女はにこやかな笑みを満面にたたえて駆け寄ってくると、私の目の前で立ち止まり、私の顔の遥か上方に向かって笑いかけた。そして、私の方に向き直ると髪を撫でながら静かに告げた。

「…まだ…あなたに…お願いするね…」

「待って!」

暗闇の中の私の叫びは虚しく、少女は闇に同化した。

 はっとして目を開けると、ナジムに抱きかかえられて市の門の反対側へと来ていた。遠目に私たちが入ってきた門が見える。そこに私を降ろすと、ナジムは再びナイフを取り出そうとしたが、ルキフェルに制止された。

「俺が開こう。下がっていろ」

彼はぶつぶつと呪文を唱えると、護符のようなものを取り出して城壁に張り付けた。すると、そこにはすっぽりと大きな穴が開き、地下から唸り声をあげて門が続けて現れた。穴と門は一体化して新たな坂道を作り出した。ルキフェルは、このようにして固く閉ざされたディーテの市の裏側にある門の封印を解くと、その扉を開いた。ナジムは私を再び抱きかかえると、暗黒に満たされた地獄の第七圏へと歩を進めたのだった。

「この扉の先に、第七圏が存在する。心して行け」

「すまないな、ルキフェル」

「――必ず、帰ってこい」


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