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§nenuphar 5

吹雪が荒れ狂う寒い冬を引き返して私たちは、再び月と星の見える岩の坂を下り始めた。途切れ途切れになって、疎らにある雲の隙間からそれらは、私たちを伺うかのように顔を覗かせていた。殺伐とした岩肌をなぞる一陣の風。彼の表情が豊かになるにつれ、彼の中で、「私」と「俺」が混ざり合うようになった。 私は、彼からはぐれないように彼の傍まで駆けた。彼は、私に目を遣るとある大きな岩を指さした。そのあと、彼はゆったりとした歩調でその岩に腰かけた。私も彼に続いて、隣に座った。風によって流された雲が西の方角に流れて行った。

 彼は仮面を取って、私の方を見た。長い金色の髪が風に吹かれて夜空に踊る。白い肌に絹髪が滑る。紺碧の瞳は、優しく細められて私を見つめていた。ここへ連れてこられた時の冷たく心を抉る瞳とは、まるっきり異なっていた。彼の口許に緩やかに描かれるU字型の軌跡。彼の大きな手が私の頭に置かれ、彼は私の頭を静かに撫でていた。蒼白く瞬く星は雲の合間から顔を出して、私たちの上で煌いていた。紅い月は、まるで瑞々しい柘榴の実のように光を滴り落としていた。銀色の仮面が光を反射している。彼は、その優しい素顔を仮面で覆い隠していたのだろうか。名前もなく、独りでずっと彷徨っている彼になぜだか愛着が湧いてきた。彼さえいなければ、私はこんなところに来る必要なんてなかった。恨みや怒りの矛先にするには十分すぎる理由のある彼に憎しみや殺意が沸くならまだしも、なぜ、愛しさがこんなにも溢れてくるのだろう。自分の心なのに、自分のものではないような気がした。誰かに操られていると言ったら過言だろうか。ここまで制御から外れたのは初めてだった。私の口は、取り残された私の理性をほったらかして言葉を紡いでいた。

「――あなたに名前、付けてもいいですか」

「え…それは構いませんが。嬉しいですね、地獄に引きずり込んだ私にも情けをかけてくれるなんて、お嬢様は優しい方ですね」

彼は驚いたように私を見たが、快く頷いた。私が彼にふさわしい名前を考えていると、私の前にまた、あの白い少女がふわりと現れて、声を出さないで大げさに口を動かして3文字の音を形作った。私にそれを告げると、少しだけ満足したように彼女は闇の中に溶けて行った。私は少女から伝えられた言葉の音で彼の名前を作った。

「――ナジム」

「いい名前ですね。お嬢様の気持ち、大切に受け取ります。私も、お嬢様の名前を教えていただいてもよろしいですか」

「――ルナ」

「綺麗なお名前ですね。なんだか、懐かしい気がします」

私は、思わず首をかしげた。

「きっと、私の気のせいですよ。私が覚えているわけなど…ないのだから」

そう言うと彼は、きめ細かな大きな手で私の頬を包んだ。彼の吐息が聞こえるほど近い。高鳴る鼓動。焦りで煙る視界。彼の冷たい体温が火照った私のと重なった。美しい彼の顔に迫られて、私の瞳から月の明かりが一瞬だけ消えた。優しく触れ合う柔らかな甘い果実。火照った体を潤すように滴る一筋の汗。背筋を走る痺れるような、疼くような快感。私の不安と恐怖を溶かすように、緩やかに彼は軌跡を描いていく。彼の逞しさを漆黒に押し隠した腕が私の背を穏やかに撫でる。私は彼の厚い胸に手をのばした。息苦しさなど忘れて彼に身を委ねようとしたとき、もう一度星の瞬きが瞳に入った。

「おまえを忘れたくなくて…少しだけ魂を貰った。許してくれ。生者の魂を呑めば、俺の中で思い出として残しておける。俺だけに許された…忌まわしい力。自分の思い出の代わりに他者の記憶を残すなんてさ…まさか、おまえに使うことになるとはな」

自分でも驚いている、と私に囁くと彼は、躊躇うように私を抱きしめた。私の魂が彼に何かしら影響を与えたのだろう。彼の口調は、堅苦しさを砕いていた。そして、彼は、私から顔を逸らすようにして肩を震わせ始めた。彼の口から洩れつつある咽び。噛み締めるようにして必死に彼は抗っていた。私は、ただただ彼の荒ぶる感情に任せていた。私は、彼を落ち着かせるように何度も彼を撫でた。

「ルナ…俺を…見つけてほしい。どんな責め苦も受ける覚悟はできている。お願いだ、俺を…探してくれ」

 彼は、目が覚めたのか、はっとして私から体を離すと、照れを隠すかのように指を鳴らした。すると、そこには血の色をした大きな沼が現れた。その中で、人が溺れていた。大半は屈強な男たちだったが、彼らは青筋を何本も顔に刻みながら目に入る者に対して、手当たり次第に罵声を浴びせようとしていた。しかし、溺れつつある彼らが言いたいことを言っているのかはわからなかった。中には、怒りに任せて沼の濁った汚い水を多量に呑み込み、沼底に沈んでいく者もいた。ぶくぶくと泡を立てて指先を震わせながら、奈落の底へと堕ちて行った。幾つもこのような嘆かわしい地獄圏を見てきた私には、彼らに対する汚らわしさや愚かさよりも憐れみが先走っていた。

「第五圏、憤怒者の地獄だ。怒りに我を忘れた者が、血の色をしたスティージュの沼で互いに責め苛む。憤怒のせいで沼は元の色を忘れてしまった。かつては、深緑をした美しい湖沼だったと聞く。――悲しいことだな」

ナジムは、「あいつらは味覚も失っている」ともぼやいた。よく彼らを見て見ると、率先してその血の水を飲んでいるようにも見えた。彼は続けて「ここに縛られてる奴らは、この沼の水が甘い蜜に感じられるそうだ、試したことはないが」と呟いた。私は、ばしゃばしゃと溺れかかっている囚人に背を向けて、彼に従ってこの場所をあとにした。いくら私がこの場所で罪を重ねることはなくとも、彼らを見捨てるという行為に私の心の奥底には罪の意識が塵のように積っていった。

 赤黒い沼を背にした私たちはぬかるんだ道を歩いた。しばらくすると、やや趣のある重厚な建物に辿りついた。彼がその荘厳な扉を開くと、この圏は図書館のような、牢獄のような場所であった。ここに囚われた人々は、やつれた顔をして分厚い書物を引っ切り無しに読み耽っている。中には肉がすべて削げ落ちて白骨化した者までもが本を読むという行為に縛られていた。眼球も筋肉も奪われ、一編の書物すら支えられぬ体に容赦なく本がのしかかる。めきりという鈍い嫌な音を立てて何かが折れる音がした。私たちの足もとには、粉々になった頭蓋骨らしいものの破片が飛散していた。

「ここは、第六圏の異端者の地獄。今はもう、ここに入る魂もめっきり減った。宗教というものがもう権勢をふるっていないのだろうか。過去のあらゆる宗派の異端の教主と門徒が、牢獄という名のこの図書館で、彼らは正統な悟りを開くまで学ぶことに縛られるのさ。彼らは髑髏と化しても、いまだ終わることを知らぬ本の山に追われ続けるのだ。上層の地獄圏のうち、一番屈辱的だろうな」

そびえ立つ本の山が崩れ、痩せ細った罪人の上に降りかかる。避けることも叶わず、そのまま下敷きになる彼らに私は近寄ろうとしたが、ナジムの腕に止められた。固唾を呑んで見守ると数多の痣を作りながら、彼らは重たい書物を退けながら這いだしてきた。彼らに痛みはないのだろうか。顔色一つ変えずに、彼らは再び読みだした。一定のリズムを刻み、ページを繰る筋張った指。彼らの様子から痛覚を奪われているのだと私は確信した。ナジムは、それを見届けると踵を返して扉に手をかけた。去り際に、彼はぼそりと呟いた。

「いずれ、この圏は闇に葬り去られるだろう。もう今となっては失われてしまった過去の遺物なのだろうな、俺と同じように」

第六圏から抜け出ると、彼はまたぱちんと指を鳴らして私の目を手で覆った。彼が手をどかすと、そこは一本の小道だった。地平線に向かって延々と伸びていく道の先には微かだが、ゆらゆらと揺らめく灯が点々とあるのが見えた。人気が途絶えたその道に私たちの靴の音が甲高く響いた。不意にナジムは私に尋ねた。その顔は、先ほどまでの笑みは消え、真剣な面持ちだった。

「――ここに映る人間のなれの果てが何か、わかるか。ルナ」

私は、首を横に振った。

「――魂、俺たちはそう呼んでいる。魂は記憶をもち、その記憶に囚われ縛られて罪を清めていく。彼らを見ただろう。時が封じられたこの場所でずっと動けないんだ。魂が記憶の断片を取り込んで、それを具現化する。ここにいる者は、皆、魂の思い出なのだ。良くも悪くもな。けど、カロンやミーノス、俺のように特定の地獄圏に縛られずに地獄そのものに縛られてる残像もいる。――これから目指すディーテの市の住人なんかもあてはまるが、それは魂じゃない。残像なんだ。俺たちは、魂を呑まないといけないように造られてる。魂から生成された奴らもいないことはないが、大抵がここで生み出された奴らだ。冥府の神によって、彼らの退屈しのぎの玩具としてな。ディーテに暮らしてる輩がそうだ。――異形の者として彼らは生み出された」

「異形…」

「――この先に行けばわかるさ」

彼が指さすのは、小さな灯り。そこがディーテの市らしかった。

「ディーテにいる俺の友人が告げてくれたことが正しいなら、俺やカロン、ミーノスは元々は魂だった。どうして、俺たちが残像になってしまったのだろうな。残像になってしまったら、人間だった時の記憶はすべて奪われるんだ。だから、俺は何も覚えていない。どこで罪を清めなければならないのかも。カロンやミーノスもまた、俺と同じように偽りの記憶を刷り込まれた。それは、俺の友人が教えてくれた。」

ナジムは雲に覆われた空を見上げた。

「――カロンやミーノスの魂の在り処は突き止めたと、俺の友人は俺に語ってくれた。カロンは、光・望み・誇りを捨てた男だと言っていた。彼が人間だったころ、欲しいものを手に入れるためなら、どんな犠牲も払わない盗賊だったそうだ。人間の命まで弄んだ強欲と怠惰の塊のような男。だからこそ、彼はアケロンテの川で永遠の労働に従事させられているのかもしれない。あいつにとって、全く価値のない単純な肉体労働。それが彼の罪に対する罰とでも言うようにさ」

私の脳裏に浮かぶ黒いローブで全身を覆った男。

「ミーノスは、罪・許し・死に背いた女だと言っていた。彼女は罪を裁く立場にいた。彼女が生きたのは、神の思し召しが絶対と思われていた時代だったそうだ。それなのに、彼女は神を信じなかった。神が司る罪も許しも死もすべて、彼女は背いたらしい。だからこそ、救いのない辺獄で惑っていたんだろう。冥府の神の膝下で、一寸の狂いもなく罪の重さを判断しなければならない――地獄の門での死者の裁判が彼女にとって一番の罰なのかもしれない。辺獄でうろつくよりもよっぽどな」

私の罪の重さを測った少女もまた、自分の罪で苦しんでいたのだった。

「あいつらは、まだ名前がある…本当の名でないにせよ…俺はなぜ奪われた」

わからないといった表情を浮かべ、苦悶に顔を歪めるナジム。

「でも、あいつらは…ここに残ることを選んだ。でも、俺は…」

彼は眉をひそめてぎゅっと手を握りしめた。その拳は、怒りで震えていた。

「俺は、いつまでここで彷徨わなければならないんだ」

吐き捨てるように彼の口から飛び出す彼の本心。彼は私の顔色を窺ったのか、目を一度伏せると私ににっこりと微笑んで言った。

「行こう。これで最上階の地獄圏は終わりだ。ここまで俺のくだらない戯言に付き合ってくれてありがとう。この先がディーテの市だ」


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