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§nenuphar 3

永遠の夕闇の中で灰が桜のように舞い踊る中、私は咄嗟に仮面に素顔を隠している彼に聞き返していた。先ほど彼が零した言葉が信じられなかったからだ。

「…今、なんて?」

「――いいえ。何でもありません。行きましょう、早くしないと亡者があなたの命を求めて集りますよ」

私は、アケロンテの川のほとりでカロンに櫂で殴られていた死者を思い出してぞっとした。 彼について歩いていくと、広大な砂漠に辿りついた。

 そして、そこでは途端に突風が吹き始めた。 私の視界の片隅には、吹き荒れる砂嵐に抵抗できずに、流されていく人影が見えた。 その方向を見遣ると、裸で地平線の向こうへと投げ出される男がいた。 彼の身体は無数の切り傷が生々しく刻まれていた。男の象徴である外性器は無残にも切り取られていた。風が絶えず運び続ける砂に、それは段々と埋もれて行った。彼の身体から、どくどくと鳳仙花のように溢れ出す鮮血。それは、乾いた大地に生温かい花を咲かせた。出血多量でばたばたと倒れていく男たち。 重なりあって倒れる男たちの足もとには、砂漠に血の池ができたように思えた。 紅い命の水を搾取されても、まだ歩き続ける男もいたが、彼らの頬は痩せこけ肉は削ぎ落とされていた。 周りを見渡すと、砂に何度も打ち付けられて、摩擦によって肉を失い、骨が見えている男もいた。 皆がみな、性を奪われて生に縛り付けられていた。 砂嵐に投げ飛ばされる人の中には裸形の女もいた。 女の方がもっと残酷な仕打ちを受けていた。 腹が大きく切られて内臓が丸見えになっている。 子宮が抉り取られた跡が遠目でもわかるぐらいだ。中には膣まで大きく切開されて、自由を完全に奪われた者もいた。彼女らは灼熱の地面でのた打ち回っていた。苦悶の表情を浮かべて口を開く女。彼女には舌がなかった。口からぽたぽたと滴り落ち続ける血。それが砂漠に綺麗な花をここでも咲かせていた。 彼女らの豊満な乳房もまた、削り取られて、彼女の足もとに白い脂肪を露呈させて落ちていた。醜い裸を見せながら彼らは彷徨っていた。そのすべての人影には腕がなかった。穢れた腕は切り落とされて砂漠に転がっていた。びくんと一瞬砂漠を跳ねたかと思うと、それはすぐに動かなくなった。

 砂漠には、毒々しい色をした蠍と獰猛な山羊が彼らから奪われた性の象徴を貪り食っていた。 彼らの足を蹴飛ばして転ばせるものもあった。 腹の開いた女の宮の内臓の代わりに住み着いたり、大量に地を這う腕に嬉々として毒の尾針を突き刺す蠍がいた。それは異様な光景だった。 彼らの声は、苦しいはずなのにどこか喘ぎ声に似ていた。官能的な叫び。無残な体と化しても、彼らは性の快楽に執着して、それを満たしてくれる相手を求めていた。黒いシルクハットを被った彼は、私に向かって静かに言った。

「ここは地獄の第二圏。ご覧のとおり、愛欲者の地獄です。生前、肉欲に溺れた者が永久に荒れ狂う暴風に吹き流される罰を受けるのです。彼らが性を奪われるのは、言うまでもありません。ここに訪れてしまったら、あの貪欲な山羊や蠍に食い殺されるまで、偽りの地平線に向かって歩き続けねばならないのです、お嬢様。そして、ここは元々智慧を司る天使が色欲に溺れてしまったがために造られた牢獄なのです」

 亡者たちは、私たちには目もくれずにただただ、幻の地平線に向かって歩いていた。 どんなに強い横風に投げ飛ばされようとも。 どんなに肉体を蝕まれようとも。 私は、なぜか目が離せなかった。 その様子を彼は、見かねて私の目を手で遮って閉じさせる。

「ここに長居は無用ですよ、お嬢様。私の気まぐれには最後まで付き合ってもらいますがね」

彼が指を鳴らした。その音はやけに大きく木霊した。ぐらりと体が傾いた気がした。

 私が彼の腕をどけると、そこは鉄格子の張り巡らされた狭苦しい部屋だった。 咄嗟の出来事に呆然としている私の前に、地の底から響く声がした。 飢えた獣の声だった。 その声がする後方を振り返ると、そこには3つの頭と竜の尾と蛇の鬣を持つ巨大な犬が唸り声をあげていた。 私は彼の傍まで無意識に後ずさりをしてしまった。 いくら鉄格子が私と猛獣を隔てているとしても。

「あの獣は…?」

「ケルべロス。大食の罪を犯した者を引き裂く冥府の番犬です。ほら、ごらんなさい」

彼が指さす方向には、だらだらと口から涎を垂らしながら、ふらふらと番犬の前に進み出てきた人間がいた。 何人も、何十人も、私は数えきれなかった。 皆が皆、涎を垂らし、目は虚ろで焦点が合わさっていなかった。 みな白目をむいており、生ける屍を表現するに相応しい形相だった。 現世の代償なのだろうか、蒼白い顔で白い囚人服からは肋骨が浮き出るほどやせ細っていた。 目の前に迫りくる猛獣にも彼らは気付いていないのだろうか。 次々と飢えたケルベロスに噛み殺されていく。 ばしゃっと音を立てて飛び散る脳漿。それは、たらたらと流れる血と混ざり床石に染み込んだ。さも美味そうに生きながらの死者を嬲り食っている番犬。 ああ、きっと彼らは盲人なのだ。 代償として飢えを渡され、そして光を失ったのだ。

「ここは地獄の第三圏、貪食者の地獄です。かつて大食の罪を犯した者が冥府の番犬ケルベロスに引き裂かれて泥濘にのたうち回る罰を受けるのです。飢えに苦しみ、光をも奪われる彼らの世界は、どのように描かれているのでしょうね」

「…わからない。でも、心に巣食うのは絶望だと思う」

「そうでしょうか…私には諦めにも見えます」

「それは…あなたの方じゃないんですか」

彼は、私の言葉に押し黙った。 ばたばたと人が倒れていく音だけにその場は支配された。

「あなたを選んだのは…間違いじゃなかったみたいです」

「囚われているのは…」

「その先は言わないでください、お嬢様」

その場にいた死者を食い尽くしたのか、私たちの方を物欲しげに見つめる獣の姿が前方にあった。

彼は、黒いスラックスのポケットに手を入れると、一つの小瓶を取り出した。その中には蜂蜜に似た液体が入っている。 格子の隙間から番犬に向かってそれを転がすと、その瓶は衝撃で割れて中身があふれ出した。とろっと溢れ出す濃厚な蜜に目の色を変えてとびかかるケルベロス。 その獣の注意を私たちから逸らすと、彼は言った。

「ケルベロスにとっては食べられれば何でもいいのです。あれがなくなり次第、見境なく私たちを襲いだすでしょう。今のうちに逃げますよ」

 飄々と語るだけの彼の心の奥底には、いったい何があるのだろうか。 少しだけ気を抜いていると、がたがたと鉄格子を揺する音がした。 上を見ると、ぼたぼたと大粒の涎を垂らして私を見下ろしている番犬がいた。 恐怖で私は足がすくんだ。 格子の隙間から勢いよく差し出される爪の研がれた手。 何度も私を追いかけるように出される手は、ばんばんと鉄の檻を叩く。 彼は、腰を抜かして動けない私を抱いて檻から離れた。

「…俺に掴まっていろ」

せっかくの獲物を奪われて怒り狂う番犬を避けるように私を抱えて彼は走り、口笛を吹いた。 同時に止む獣特有の鼻息の荒い音。 訪れる圧倒的な静けさの中で私は、高鳴る鼓動を押し隠そうとした。 私は、人間臭い彼の胸に顔を押し沈めて先ほどの言葉を飽きずに反芻していたのだった。

 彼の胸に抱きとめられながら、私は乱れた息を整えようとした。しかし、何度も繰り返される言葉に、胸は早鐘のように鳴り響いた。そこは先ほどまでケルベロスが荒れ狂っていた小さな檻の部屋ではなく、ごつごつとした岩肌ばかりの傾斜の急な坂道のふもとであった。彼は、周りを伺うと私の身に危険が及ばないと判断したのか、私を地に降ろした。その時、どこからか猛々しい咆哮が一帯に響き渡り、地獄全体が震えた。

「パペ・サタン・パペ・サタン・アレッペ!」

訳のわからぬ異国の言葉は、そこに存在する者すべての心臓を鷲掴みにした。私は、ぐらっと倒れ掛かる身体に抵抗できずに地面に叩きつけられた。彼もまた、己の左胸を押えて手足を地につけて苦しんだ。開かれる彼の瞳孔。彼の頭からずり落ちる絹の黒い帽子。そして額から滴り落ちる汗が彼を覆う仮面を内から濡らしていた。時々漏れる荒い息が彼の正気を奪っていく。私は全身に駆け巡る痛みに耐えながら彼のもとへ這い寄った。彼がいなくなれば、私は「日常」に戻ることはできない。でも、それだけではない思いが私の身体を突き動かしていた。手を伸ばして触れる彼の右手。それはそれは氷のようにとても冷たくて。かじかむ私の指。長い地響きが鳴りやんでも、彼は震えていた。

「俺とはなんだ…?私は誰だ…?私を存在させている理由を教えてください…」

くぐもった苦しい声で彼は呻いた。

「私は夢なのか…?夢でしかないのか…?」

彼の中で、「俺」と「私」が錯綜する。彼は身を捩って叫びだした。

「お願いだ…もうこれ以上悩ませないでくれ…!私は眠りたいんだ」

ばたばたと暴れだす彼の目からは、血の色の涙が溢れ出していた。

「すまない…すまない…だから…俺を殺さないでくれ…」

血の涙は、大地に染み込み赤黒くその地を濡らした。

「私を殺してくれ…責めは…私が負うから…」

狂ったように同じ言葉を繰り返す彼に触れながら、固唾を飲んで見守った。

「俺には…もう死者の…魂なんか…いらないんだ」

轟く彼の叫び。私にはどうすることもできなかった。

「…許してくれ…赦してくれ…」

誰にともなく許しを請う彼。

「ああ…また大地が…私を責める…」

 彼は、再び呻き声をあげて仮面の上から顔を押えて苦しみだした。仮面の隙間から見える無数の火傷の跡。それが触れると痛みが増すのだろうか、彼は仮面をかなぐり捨てた。大気に晒される火傷を負った彼の醜い横顔。彼は、理性を取り戻しつつあるのか、私に向かって途切れ途切れに言い放った。

「…見るな…俺を…私を…見ないでくれ」

火傷を負った顔は、水膨れが酷く彼の瞼は腫れていた。顔の半分は赤く抉られており、辛うじて肌とわかる部分も蒼白い紫に変色していた。切れ長の目にも肉が盛り上がり、彼の視界を徐々に奪いつつあった。彼の醜い顔と対照的に、美しく流れる絹のように艶やかで滑らかな金色の髪。その髪が彼の顔に触れるたびに、彼は苦悶の表情を浮かべ、地に倒れこんだ。荒野に絶えず吹き荒れる風が痛々しい。

「どうせ…冥府の神が私を…俺を…咎めているだけだ…気にするな…」

さらなる激痛に襲われ始めたのだろうか、彼は白い手袋を放り投げた。彼の手の甲には無数の蛆が這い、火傷で壊死した彼の皮膚を貪り食っていた。

「じきに…元に戻る…プルートの怒りをこの身に受け続けても…死ねない身体だ…」

私は気持ちの悪さに口を覆うが、彼から視線を逸らすことはできなかった。磁石に惹きつけられたかのように、その場に立ち尽くした。

「あなたをここに引き込んだことが…気に食わなかったのでしょうかね…」

息を荒げながら、それでも自分の醜態を隠そうとして私の目を覆い隠そうとする大きな蟲の棲む手。

「俺を見るな…吐くぞ…」

私を見つめる彼の目は、肉の薄い瞼を押しのけて眼底から飛び出していた。焦点が合わない彼の目玉は、ぎょろぎょろと奇怪な動きをし続ける。ぼとりと片方の眼球が地に落ちた。

「おまえは…俺から…離れろ…食われるぞ…」

焦点の合わない目で私を探りながら、彼は声の限りで叫んだ。その反動なのか。彼は吐瀉し痙攣をし始めた。びくびくと不規則に震動する彼の四肢には、どこから沸いたのか奇怪な生物が集い始めた。彼の脚を服の上から刺し続ける毒々しい色をした無数の蠍。彼の腕に噛み付き、飢えを満たそうとする血走った眼の狼。細い彼の首に容赦なく絡みつき、彼の呼吸を奪おうとする大蛇。蛆と共に彼の手の甲に集り続ける蠅の群れ。彼の服を突き破り、露わになったその背の上で飛び跳ねる針鼠のせいで何本もの太く鋭い針が肉の奥深くまで貫通していた。そして、彼の目玉を美味そうに啄む一羽の美しい雄の孔雀がいた。

「見るな…俺を…見るな…!」

 彼から迸る激情と交差する私の卒倒。私は気が遠くなっていき、空が近くなっていく。閉じられてゆく瞳の片隅に捉えた、ひびが入った白骨の断片。彼がまだ肉の残る右手で指を鳴らす音が沈みゆく意識の表層で聞こえた。ぱちん。何かがはじける音がした。眠りの中に解けて消えていく光。私が暗闇の心地よさに身も心も捧げ始めていたその時、私の頭の中に何かが流れ込んできた。

「俺とはなんだ。俺は誰だ。俺を存在させている理由を教えてくれ…」

「理由……?それはあなたが夢を見ているから」

ここはどこだろう。八方を鏡で覆われた昏い小さな檻の中に私はいた。鏡は暗く、私の視界以上のものを映してはいなかった。目の前に端麗な男が手をついて叫んでいる。その声に応えるかのように、どこからともなく低い女性の声が降ってきた。

「俺は夢なのか。夢でしかないのか」

「世界を世界たらしめているモノ。ヒトの世の常。儚く脆い一抹の花」

「俺の声に応えるのは一体…」

「それはあなた自身ですよ」

男が顔をあげる。私は彼の背後からその様子を見ていた。

「お願いだ。もうこれ以上悩ませないでくれ。俺は眠りたいんだ」

「本当のあなたから逃げるのですか。血を裏切ったあなたが。憎しみのままに集めるのです」

そして会話はそこで途切れ、男は解き放たれた。憎悪を植え付けられた男の瞳は、氷のように冷たく、鏡のように光を反射するだけだった。男の顔は、闇色の霞に邪魔されてみることは叶わなかった。どこかで聞いたような会話。どこかで見たような面影。それを思い直す前に私は睡魔に誘われ、眠りの苑へ旅立ったのだった。


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