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§nenuphar 2

川岸から少し歩くと痩せこけたなだらかな平地が広がっていた。そこには阿鼻叫喚はなく、風のざわめきのような声が所々から洩れていた。

「あ…あ…ああ…」

声にならない声を出しながら、みすぼらしい恰好をした男が目の前を通り過ぎた。彼の白髪と白髭は伸びるままに任せて、地を引き摺るほどであった。その男は、とても悲しい顔をして歩いている。そして、老翁と入れ違いに、老婆が髪を振り乱して私たちに向かって歩いてきた。

「…うう…う…う…」

襤褸を被った老婆は、私たちの姿を目に止めると、枯れた声で私に何か話しかけた。その顔には幾筋もの皺が刻まれ、彼女の若かりし頃の面影は一ミリたりとも残してはいなかった。先ほどのアケロンテの川の岸辺にいた亡者とは異なり、彼らからは激しい憎悪を感じ取ることはできなかった。なぜ、彼らはこんなにも悲しい顔をしているのだろう。絶望ではない。怒りでもない。諦観とも異なっている。なぜ、彼らは声を奪われているのだろうか。私がその疑問を投げかけようとしたとき、連れの男は口を開いた。

「ここは地獄の第一圏。辺獄と呼ばれる場所にございます、お嬢様。ここは、神を信じなかった者が永遠に苦悩し続ける場所なのです。呵責こそありませんが、希望もありません。彼らは、救いないまま永遠に時を過ごすのです」

「神を信じない者が…?」

「天国や地獄など…所詮まやかし程度の慰めでしかありません。それは、教えを敬虔に守るからこそ、救いとなるべく存在するのであって、いずれも信じぬ者を救う場所にはございません」

「私は…」

「ここに未だ留まる者たちは、大いなる知恵の神に愛された者たちなのです。何と皮肉なことでしょう。なまじ賢いがために、彼らは永久に自分の過ちを責め続けることでしょう。呵責に耐えきれぬ者はすぐに朽ちてゆくのに。何とも哀れな。ここを彷徨い続ける者の末路は、彼らのように、声を奪われることなのです」

「…救われることって…あるのでしょうか」

「さぁ…どうでしょうか。カロンや私のように…彼らとはまた違った形でここに縛られることもありえますしね」

微かに笑む男。それは、自分の定めに慣れ切ってしまったとでもいうような諦めの微笑みだった。

「カロンは、永遠の労働という形であの川に従属させられています。私は…どうなんでしょうね。もう、自分の名前さえ忘れてしまいました」

仮面に隠れて男の表情はうかがえないが、それでも何か昔を思い返しているのだろう。刹那、男は私から目を逸らした。そして、再び私に向き直ると手を取った。今度は、見えない金縛りなどではなく、直に手を取って。

「あれが見えますか。地獄の門です。今まで以上に惨たらしい世界が広がっています。心して入られますよう」

唾を呑み込んで強く私は頷いた。

「いいご返事ですね。では、行きましょうか。お嬢様」

地獄に近づくにつれ、私の背に悪寒が走り続けた。めらめらと燃え盛る炎が入口を飾るのとはまるで対照的だった。熱くて寒い、不思議な感覚が私を蝕みつづける。勢いよく燃え続ける業火の中に大きな、くすんだ銀の椅子があり、そこに一人の少女が長すぎる白金の杖を振りかざして鎮座していた。

「ミーノスではありませんか。ご機嫌麗しゅう。あなたもカロンのように暇がないようですねぇ」

「…貴様は、案内屋。死神といったか」

「カロンと言い、あなたと言い…本当に興ざめすることしか言いませんね」

「貴様が名を忘れるからだ」

「それは私に非があるような言い方ですね。仕方がないじゃないですか」

「だから、私も貴様をそう呼ぶほかあるまい。役職で呼ぶ以外何と呼べばいいのだ」

「それでは、好きなようにお呼びしてください」

「ならば、死神。おまえが連れて寄越した娘を私は裁けばいいのか。それとも貴様の単なる暇つぶしの玩具か」

「そんな酷い言いぐさをしないでください。お嬢様がかわいそうでしょう」

「ほう、貴様がそう言うなど珍しいこともあるのだな。生者でここまで発狂せずに辿りついた者も稀だがな」

私を無視して交わされる会話を私は、黙って聞いていた。

「そこの娘。面を上げろ」

少女が鋭く私に命令し、銀色に輝く杖を私に向かって振り下ろした。咄嗟に身の危険を感じて閉じられる私の瞼。しかし、想像していた衝撃はなくそこには巨大な天秤が出現していた。その片側の皿に乗せられている5つの内臓。それらはまだ、一定の律動を刻んでいた。びくびくと身を捩るように痙攣しながら、生々しく色鮮やかな赤い血を滴り落としている。その臓器はまだ生きていた。臓器が激しく動くたびに襲われる息苦しさと圧迫感。少女は、無表情に言葉を続けた。

「これは貴様の五臓だ、娘よ」

「私の…五臓…?」

「そうだ、今私が貴様の身の内から取り出した。肝臓・脾臓・肺・腎臓。そして心臓だ。案じることはない、そう簡単に貴様は死なん」

重い杖を両手で回転させると、もう片方の天秤の皿に何匹もの毒毒しい色をした大蛇が現れた。ともすれば、その蛇は私の身の内から無理やり取り出された臓器に喰らい付こうとしている。怯えている私を見かねたミーノスが杖を地に叩きつけると、大蛇は幾分大人しくなった。

「ここに乗せられた蛇は、貴様の罪の重さを表す。ふむ…貴様はまだ随分と余裕があるようだな。まだ地獄に行くと決まったわけではあるまい。よかったではないか」

「だそうですよ、お嬢様」

これはこれで何とも言い難いが。妖しい目つきをした蛇がこちらを睨んでいる。ミーノスが再び杖で地面を叩くと、心臓と蛇と天秤は霧消した。思わず私が首に手を遣り、脈を確かめるとどくんどくんと規則正しい音を立てて血液が送り出されていた。呼吸の乱れも元に戻り、私は少しだけ安堵した。

「ならば行くがよい。生者の娘。くれぐれも死神に殺されて、再びここで会い見えることのないように、な」

静かに別れを告げる少女。彼女もまた、地獄に縛られた者の末路なのだろうか。

「ミーノスは、かつては…どこかの地獄圏の住人だったと聞きます。ですが、いつからかあの玉座に座って死者の罪を裁くようになったのです。地獄圏から解放されることと引き換えに、記憶を奪われたようですしね、彼女は。哀しいことです。罪を裁くことに対する苦悩が彼女をここに呼んだのでしょう」

「――あなたも、縛られているんでしょう」

「そういうことになりますね…自分ではわからないのです。私は、それを探すために生者をこの地に呼び寄せているのかもしれません。とんだエゴの塊ですね。私こそ、存在すべき場所を間違えているようです」

地獄の入り口の玉座に背を向けると、男は私の先を行った。

「行きましょう。地獄の始まりです」

男は振り返ると、私に囁いた。

「もし、できることなら…お嬢様に…私を見つけ出してほしいのです」

その小さい声は、燃え盛る火から舞う灰と共に風に吹き飛ばされ、闇に溶けて消えた。


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