§nenuphar 1
残酷な表現・生々しい描写が含まれる小説ですので、苦手な方は閲覧をご遠慮ください。
私は、ある街で不思議な人々に出会った。そこはいつも通る見慣れた街なのに、なぜかその日は違和を覚えた。ぎこちなく歪んだメインストリート。不協和音であってしかるべき都会の喧騒は、規則的に叩かれる小太鼓のようだった。入り乱れる雑踏さえも、この日は円舞のように不気味なほど滑らかな曲線を描いて交差していた。そうして私の目の前を通り過ぎる数多の人々の中に、私を見つめる6つの瞳があった。胸を大きくはだけさせた、容姿端麗な男が艶めかしい視線を私に送っている。豹のような妖しい色気を放つ男のすぐ側には、きっちりとした服装に身を包んだ男がこちらを見ていた。如何にも権力を牛耳っていそうな男は、まるで獅子のようだった。そして、狼のように鋭い視線で私を睨みつけている女がいた。派手な格好をした、その女は何が気に食わないのか、鬼の形相で私から目を離さない。彼らは何者なのか。私は、恐ろしくなって来た道を引き返そうとしたその時だった。
「こんにちは、お嬢様。あなたは私たちが見えるのですね」
雑踏の街中で、私はその場に男に後ろから声をかけられた。振り返ると、その声の主は奇妙な出で立ちをしていた。一言で言い表せば、まるで中世仮面舞踏会に出てきそうな男だった。その「日常」に似つかわしくない男が私に向かって手を差し出している。
「あなたは、この欲深き人間の坩堝の中の一人にしては、何とも珍しい。目の前の欲の塊を自ら払いのけるとは。実に、面白い」
男の顔は仮面に覆われているはずなのに、私を視線が貫いていた。私は逃げたくても逃げ出せない、金縛りにかかったかのようだ。前後から迫る恐怖に硬直していると、男は優雅な手つきで指を鳴らした。ぱちん。その音が鳴ると同時に、私を背後から射抜いていた視線が消えた。
「あなたは、選ばれたのです。御手を拝借してよろしいですか。私がお連れしましょう。あなたの魂がいずれ帰るところへ」
「――あなたは、誰なの。それに消えた人たちは…」
「私は人間ではありません。ですが、かつて人間だったことはあります。彼らは私が見せた幻とでも言っておきましょうか」
男は不気味な笑みを浮かべると、私の手を恭しくとり街中を歩いた。こんなにおかしな光景なのに、誰も気づいていない。私は、声を出すことができなかった。
「不思議がることはありません、お嬢様。あなたしかこの私は見えていないのですよ」
この男は人の心が読めるのだろうか。男は私の手を取り、黙々と喧騒の街を抜け、裏路地へと入って行った。人影はまるっきり途絶え、黒猫すらいない。私は、自分の歩むべき道から足を踏み外して取り残されたような孤独感に襲われた。まだ、人生の半ばにすら届いていないというのに。私はこのままどうなってしまうのだろうか。そんな考えを逡巡させていると、男はある古びた重々しい雰囲気のする家の扉の前で立ち止まった。壁は所々剥がれ落ち、その建物が経た年月を表していた。庭の花は枯れ落ちて、雑草に塗れていた。
「――カロン。娘さんを一人お連れしました。船の準備をお願いします」
男はノックをして扉を開けると、誰かを呼んだ。ここは、川も海もない街なのにどうして船なんか出すんだろう。じりじりと襲う不安と恐怖。無理もなかった。膝はがくがくと笑っていた。
「こんなところで恐怖なんか感じてたら、この先はもっと大変ですよ、お嬢様」
耳元で男は囁いた。
「この先でカロンが船の用意をしてくれています。さぁ、行きましょう」
私は男の手を振り払おうとしたが、それは虚しく終わった。そもそも男は私に触れてはいなかった。私は見えない糸で操られているような感覚を味わっていただけだったのだ。
「私の手袋がお嬢様の罪で汚されますからね。そんなことせずとも、お嬢様は私に身を預ければよいのです」
投げかけられる仮面越しの冷たい視線。ひたすらその視線は私の心を抉っていた。
「この先で朽ち果てたいならば、私を殺しても構いません。逃げることは叶いませんよ。それとも、元の世界に戻りたくはないのですか」
私は、条件反射のように首を振り、観念して男に従うことにした。私が上を見ると、扉の上方には一編の詩が彫られていたが、私には解読できなかった。
"Per me si va ne la città dolente, per me si va ne l'etterno dolore, per me si va tra la perduta gente. Giustizia mosse il mio alto fattore; fecemi la divina podestate, la somma sapïenza e 'l primo amore. Dinanzi a me non fuor cose create se non etterne, e io etterno duro. Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate”
「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ、ということにございます。死の希望さえもここでは望めないのです」
男は静かに呟いた。私は、驚愕と絶望の雷に貫かれたような錯覚を覚えた。しかし、もう戻ることはできないと私の本能が告げている。
「――どこに向かうの」
「すべての魂がいずれ帰る場所、とでも申しましょうか。着いてからのお楽しみですよ」
私が男と共に扉を潜ると、そこには鬱蒼とした森が広がっていた。光を通さないほど、生い茂る木々。私は、男のあとを恐怖に打ち震えながら歩いた。木々に巻き付くようにして、私の行く手を阻む荊が私の服を破り、露わになった柔肌を削る。大木の根元に点々と無造作に転がる死屍。その躯は腐って強烈な異臭を放っていた。まだ辛うじて外見を保っている体には、大量の虫に刺された跡が見て取れた。まだ残っている眼球や唇には蛆が集り、飢えを満たすかのようにそれを貪り食っている。充満する鼻を劈くような死臭に耐え切れなくなって、思わず私は膝をついた。男はさぞ面白がるように私を見つめている。
「無為に生きて善も悪もなさなかった亡者は、地獄にも天国にも入ることを許されず、ここで無数の蜂や虻に刺されるのですよ。何もせずにに生きることもまた、ここでは罪なのです。あなたが今、膝を落としている地面さえ、それは長い時を超えて死者の肉体が形成した大地なのです。これこそまさに、母なる大地」
恍惚の表情を浮かべ、手を胸にやる男。その仕草はまるで、聖者に祈りを捧げる仕草に似ていた。彼の不釣り合いな行為にあいまって、私は何度も吐き気に襲われた。死者の腐臭に満たされた森が、そこに横たわる屍が築き上げたものという事実。無為に生きることさえ、罪なのだという事実。私を睨みつけながら横を何度も通り過ぎる蜂や虻。生きていることが憎らしいのか、私を嬲り殺すことができないことが恨めしいのか、私にはわからなかった。森に生える大木の根に何度も躓きそうになりながら、私は必死で私は男のあとに続いた。
しばらくすると、森が開け、そこには大河が広がっていた。一つの橋もかかってはおらず、ただ簡素な船着き場だけが存在していた。
「ここは、アケロンテの川。生者と死者の袂を分かつ河川にございます。私がついているので心配はございません。あなた次第では戻れないこともございますけれど」
にこやかに話す男とは対照的に、私は急速に自分の中から体温が奪われていくのを感じた。
「さぁ、行きましょう。カロンを待たせると厄介ですからね。カロンがあちらの岸までご案内しますよ」
男に連れられ、私は船頭のカロンの乗る船へと乗り込んだ。ぎしぎしと嫌な音を立てて揺れる小さな船。
「ぼけっと突っ立ってんじゃねぇよ。ここは俺しかいねぇんだ。あんたは特別にしろって言うからな、こいつがよ。感謝しろ」
一気にまくしたてるカロンと呼ばれた男。全身は黒いローブに覆われ、表情をうかがい知ることは難しかった。
「さっさと船、出すぞ。しっかり掴まってねぇと、川底に突き落とすかもしれねぇからなぁ」
にやりと不敵な笑みを浮かべるカロン。その言葉の端からは、今まで彼が数えきれないほどの死者を櫂で突き落としてきたことが感じられた。ゆっくりと動き出す船。灰褐色に濁ったアケロンテの川。離れた岸には、大量の亡者が手を伸ばして絶叫をあげていた。
「煩くてしゃあねぇよ、あいつら」
「まぁ、そんなものでしょう。まさかこんな世界が待ち受けているなんて夢にも思っていなかったでしょうから」
「あんたも、こいつに引き寄せられるなんてな。不運な女だな」
「それでは、まるで私が死神みたいじゃないですか」
「何か相違でもあんのか?」
「間違ってはいませんがねぇ」
私を挟んで交わされる会話からわかる、私に下された死の宣告。
「今まであんたが連れてきた奴ら、みんな発狂して死んでいったらしいじゃねぇかよ」
「それは私の責任ではありません」
「無責任な奴。だから、言っただろ。あんたに惹かれるなんて不幸な奴だってな」
目を閉じて、私は自分を恨んだ。きっとそれさえもこの得体のしれない男たちの前では無意味なのだろう。ただ嵐が過ぎ去るのを待つしかない。私は、孤島に流された魔法使いの話をふと思い出していた。叶わない希望に思いを馳せているうちに、船が岸に上がった。
「着いたぜ」
「ありがとうございます、カロン。では、私たちはこれで」
「ああ」
「カロンも早くしないと、あの岸が迷い人であふれかえりますよ」
「いちいちうるせぇ野郎だな、わかってるよ。じゃあな」
手を振りながら帰っていくカロン。少しだけ彼の人間らしさを垣間見た気がした。まさかとは思ったが、彼は人間だったのだろうか。
「彼も、もともとは人間でした。カロンもまた、この地獄で縛られているのです」
思わず、あなたはと聞こうとしたとき、男は遮るように口を開いた。
「私も、そうなのかもしれませんね。気にしたことはありませんが」
男は指を鳴らすと、帽子を取り私に向かって深々と一礼をした。星なき空がそこにはあった。
「ようこそ。地獄へ。心行くまで私がご案内いたします、お嬢様」