第2話:ドル・プリンセスと新世界の誘惑
【第1部】
一八八〇年代半ば、ロンドンの冬は鉛色の空の下、冷酷なまでに凍てついていた。
ウィンストン・チャーチルは、サンドハースト王立陸軍士官学校の厳しい規律の中にいた。
彼にとって、この士官学校は名誉ある門出などでは決してなかった。
二度にわたる不合格の末、ようやく三度目の挑戦で滑り込んだ「騎兵科」という落としどころ。
当時、歩兵科に比べて莫大な維持費がかかる騎兵科は、成績下位の富裕層が行く場所とされていた。
「また父親に、無能の証明書を突きつけられたようなものだ」
ウィンストンは厩舎の片隅で、馬糞の臭いにまみれながら、自嘲気味に呟いた。
彼の父ランドルフ卿は、息子の三度目の正直を祝福するどころか、
「歩兵科にすら入れない頭の悪さで、我が家の財政を圧迫する気か」と冷酷な書簡を送ってきた。
父の政治的キャリアは、すでに崩壊の一途をたどっていた。
かつては大蔵大臣として一世を風靡した天才政治家も、自身の傲慢さと、
時の首相ソールズベリ侯爵との権力闘争に敗れ、政界の主流派から完全に干されていた。
その八つ当たりが、すべて出来の悪い長男であるウィンストンへと向けられていた。
「お前にはマールバラの看板を背負う資格はない。
お前が生きているだけで、私は世間から笑いものにされているのだ」
父からの手紙にある言葉の一つ一つが、ウィンストンの肉体を鋭く抉る。
彼は父を病的に崇拝していた。
だからこそ、その父から注がれる絶対的な拒絶は、彼の精神を異様な形へと歪めていった。
「僕を見てくれ。父上、僕を認めてくれ」
いくら心の中で叫んでも、父の冷徹な瞳がウィンストンを顧みることはなかった。
そして一八九五年、ウィンストンが二十歳の時、父ランドルフは狂気と病魔に侵されたまま、
何一つ息子を褒めることなく、この世を去った。
残されたのは、名門の看板とは裏腹の、莫大な「借金」の山だった。
「イギリスの貴族制度なんて、ただの虚飾だわ。
中身はとっくに腐り落ちて、スカスカの髑髏みたいなものよ」
ロンドンの高級住宅街にある、主を失ったチャーチル邸の書斎。
母ジェニーは、喪服に身を包みながらも、その退屈な黒いドレスを嘲笑うかのように、
豪奢なアメリカ製の煙草に火をつけた。
彼女の指先で光るのは、イギリスの伝統的な細工ではなく、
ニューヨークの宝石商が仕立てた、露骨なまでに大粒のダイヤモンドだった。
「ウィンストン、泣くのはおやめなさい。
あの人は天才だったけれど、この国の『古い因習』という壁に勝手に突っ込んで自滅したのよ。
エスタブリッシュメントどもはね、私たちのような『新参者』を絶対に許さない。
ランドルフがどれだけ働こうが、彼らは最後まで彼を『公爵になれなかった三男坊』として扱ったわ」
ジェニーの言葉には、夫を亡くした悲しみよりも、
自分たちを冷遇し続けた英国上流階級への、強烈な侮蔑と憎悪が込められていた。
「これからの我が家を支えるのは、お前の死んだ父親の名前じゃない。
私の実家……ジェローム家がニューヨークで動かしている『緑色の紙切れ(ドル)』よ」
ジェニーは、ウォール街の投機家である父レナード・ジェロームから、
定期的に莫大な送金を受け取っていた。
イギリスの貴族たちが領地からの地代の減少に喘ぐ中、
アメリカの新興資本は、鉄道と株の投機で天文学的な富を生み出し続けていた。
ウィンストンは、母から渡された分厚いドル紙幣の束を見つめた。
大英帝国の象徴である女王の肖像ではなく、見知らぬアメリカの偉人たちが印刷されたその紙切れは、
イギリスのどんな名誉ある勲章よりも、重く、確かな万能感を持っていた。
「この金があれば……僕はどこへでも行ける」
「そうよ、ウィンストン。名声はお金で買いなさい。
イギリス人が喜ぶ『英雄譚』を、アメリカの資本で仕立て上げるのよ」
母の妖しい微笑みが、ウィンストンの脳裏に焼き付いた。
大英帝国という巨大なシステムは、内側から見れば、すでにアメリカの金なしには
呼吸すらできない狂った老人になり果てている。
ウィンストンの心の中で、祖国への忠誠心は完全に消滅した。
あるのは、「アメリカの富」という巨大なレバーを使って、
自分を足蹴にした英国の支配層をひっくり返してやるという、冷徹な計算だけだった。
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【第2部】
一八九五年後半、ウィンストン・チャーチルは、大英帝国の軍服をまといながら、
イギリスの国益とは全く無関係の場所にいた。
スペイン領キューバ。
現地で巻き起こっていた反乱軍との戦闘を「視察」するため、彼は休暇を利用して海を渡った。
当然、旅費や現地の案内人を雇うための資金は、すべて母ジェニーを通じて
ニューヨークのジェローム家から融通されたものだった。
「戦火は、私という商品を最も高く売るための市場だ」
ウィンストンはキューバの鬱蒼としたジャングルを進みながら、ノートにペンを走らせていた。
彼は純粋に軍人としての任務を果たしに来たわけではない。
ロンドンの新聞社『デイリー・グラフィック』と契約し、
自らの命を賭けた冒険譚を「戦況報告」として寄稿する売名行為が目的だった。
銃弾が耳元をかすめるたび、彼は恐怖ではなく、異様な興奮を覚えた。
この恐怖が激しければ激しいほど、ロンドンの大衆は熱狂し、
自分を「若き英雄」として祭り上げるだろう。
「英国の貴族どもが、クラブの安楽椅子でパイプをくゆらせている間に、
僕は最前線で血の匂いを嗅いでいる。どちらが本物の支配者にふさわしいか、
すぐに教えてやる」
キューバから戻った彼は、休む間もなくインドのアフガン国境へ、
そしてスーダンへと従軍を繰り返した。
どこの戦場でも、彼の行動は一貫していた。
他の将校たちが部隊の指揮や兵士の掌握に奔走する中、
ウィンストンは常に「自分が最も目立つポジション」を探し回り、
自らの活躍を誇張した記事を本国へ送り続けた。
軍の上層部は、彼のこの露骨なスタンドプレーを激しく嫌悪した。
「チャーチル少尉は軍人ではない。あれはただの物書きであり、悪質な売名徒だ」
「名門マールバラの血を引いているとは思えない品性のなさだ。アメリカ人の血が混ざると、
あのように何でも金と名声に換算するようになるのか」
司令官たちの冷ややかな陰口は、当然ウィンストンの耳にも届いていた。
通常の人間であれば、軍内での孤立を恐れて自重するところだろう。
しかし、ウィンストンの内面に宿る怨念は、その批判を栄養としてさらに肥大化した。
(笑うがいい、無能な老人ども。お前たちが大事に守っている『軍の規律』や『騎士道精神』など、
新聞の一面を飾る僕の嘘一つで、大衆の歓声にかき消されるのだ)
一八九九年、ウィンストンはついに軍を辞し、南アフリカで勃発したボーア戦争へ
『モーニング・ポスト』紙の特派員として向かうことを決意する。
出発の直前、彼はロンドンの港で、母ジェニーから紹介された一人の男と密会した。
男の名は、ウォール街の若き冷徹な金融家、バーナード・バルークの代理人だった。
「チャーチル氏。あなたの書く記事は、ニューヨークの資本家たちの間でも評判が良い。
伝統的なイギリスの価値観に縛られず、非常に『合理的』な視点を持っている」
代理人は、霧の立ち込める埠頭で、ウィンストンに冷たい笑みを向けた。
「我々アメリカの資本は、大英帝国がこれ以上、アフリカやアジアの利権を独占し続けることを
好ましく思っていない。帝国は少し、風通しを良くする必要がある」
ウィンストンは、葉巻の煙を静かに吐き出した。
普通なら、自国を脅かす外国の資本家に怒りを覚える場面だ。
しかし、ウィンストンの口元に浮かんだのは、共犯者の笑みだった。
「風通し、ですか。私なら、その窓を内側から開けて差し上げることができるかもしれません」
「期待していますよ、チャーチル氏。あなたが英国の政界で発言権を得るための資金なら、
我々はいくらでも用意がある。まずは南アフリカで、誰もがひれ伏すような
『絶対的な英雄』になって戻ってきなさい」
ウィンストンは深く頷き、船へと乗り込んだ。
彼の目に見えているのは、大英帝国の勝利ではない。
アメリカという巨大な「新世界の怪物」の手を取り、
自分を傍流として切り捨てた大英帝国を、根底から解体するための終わりの始まりだった。




