Without you 〜朝を待つだけ〜
「はい、お会計一万円になります。」
レジ袋に包まれた二つの割り箸を放り込みながら、バイトの店員が気のない声で言った。
拓海がポケットから財布を取り出し、千円札を何枚か数えてトレーに乗せる。私は自分のバッグを探るフリをして、軽く息を吐いた。
「ごめん拓海、割勘にしよ。いくら?」
「いいよ別に。お前、今日あんまり食ってねぇし。」
拓海は無造作に釣り銭をポケットに押し込むと、大衆酒場の引き戸をガラガラと開けた。
八月のぬるい夜風が、アルコールで熱を持った頬を撫でる。雑多な居酒屋街の喧騒の中、私たちは並んで歩き出した。
「で? 本当に終わったんだな、遠藤と。」
前を向いたまま、拓海が思い出したように言った。
隣でタバコ箱を弄ぶ彼の横顔を横目で盗み見る。大学時代からの長い付き合いだ。今夜、わざわざ私を飲みに誘い出した理由なんて、最初から分かっていた。
「まあね。あっち、秋から大阪の本社に転勤だし。わざわざ私について行く理由もないじゃない。」
努めて軽快なトーンを作って答える。ヒールの音を一定のリズムで鳴らしながら、私は自分の声が思った以上に自然に響いたことに密かに安堵していた。
「お前ら、もう三年だろ。遠距離とか、ついて行くとかさ……そういう選択肢はなかったわけ?」
「ないない。私だって今の仕事好きだし。お互い二十代後半でしょ? リアリティのない夢見る年齢でもないじゃない。」
私は笑ってみせた。
「物分りのいい、サバサバした大人」の仮面を被るのは得意だ。拓海は「ふーん」と気のない返事をして、煙草に火をつけた。紫の煙が夜の街灯に溶けていく。
――リアリティ。
自分の口から出た言葉の虚しさに、胸の奥が少しだけ引きつる。
付き合おうという明確な言葉はなかった。プロポーズなんて、もちろんされた記憶もない。
けれど、週末になれば当たり前のように彼の部屋に泊まり、ふたりでスーパーで買い出しをして、彼のお母さんから届いたという地方のみかんを一緒に剥いて食べた。私の誕生日に彼がくれたのは、何の変哲もないシンプルなゴールドのネックレスだったけれど、「ずっと使えるでしょ」と言って私の首に回してくれた彼の手の温もりを、私は確かに覚えていた。
証拠なんて何ひとつなかったのに。
私は漠然と、このまま彼と結婚するのだと信じ込んでいた。形のない未来を、二人で当たり前に積み重ねているのだと疑わなかった。
「お前ってさ…?」
駅の手前の交差点で立ち止まり、拓海が煙草の煙を吐き出しながら私を見た。
「昔からそうだけど、変にプライド高くて損するよな?」
「……は? なにそれ」
「いや。マジで平気ならいいんだけどさ。」
拓海はそれ以上何も言わず、青に変わった信号に向かって歩き出した。
私はその背中を追いかけながら、バッグの底にあるスマホをギュッと握りしめた。通知センターには、蓮からのメッセージが最後に一通だけ、虚しく残っていた。
「話があるんだ。」
蓮からそう連絡があったとき、胸の奥を掠めたのは、かすかな期待だった。
二十代最後の夏。お互いの仕事も落ち着き、週末を彼の部屋で過ごすのが当たり前になっていた。そろそろ、具体的な将来の話――結婚や、一緒に住む部屋を探す話でも出るのだろうかと、私はお気に入りのブラウスを選んで彼のマンションへ向かった。
けれど、通されたリビングのテーブルの上には、冷えた麦茶のグラスが二つ並んでいるだけだった。
「大阪の本社に、異動が決まった。」
ソファの端に腰かけた蓮が、静かな声で切り出した。
一瞬、思考がフリーズする。転勤。遠距離。……でも、ついてきてほしいと言われたら、私は今の仕事を辞める覚悟だってあった。
「……そっか。いつから?」
「十月。……それでね、葵…」
蓮は少しだけ目を伏せ、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。
「お互い、仕事も大事な時期だし……ここで区切りをつけようかと思うんだ。」
区切り。
その単語が、頭の中でカチリと異音を立てて弾けた。
「葵には葵の生活があるし、俺の都合で振り回したくない。遠距離でだらだら続けるのも、お互いのためにならないと思う。」
蓮の顔には、どこまでも誠実で、申し訳なさそうな笑みが浮かんでいた。
彼らしい、あまりにも整った論理だった。
責める余地すら与えない、完璧な「お別れの提案」。
…え、なんで?
喉の奥まで、その言葉がこみ上げてきた。
なんでそんなに簡単に決められるの? 私たちの三年は何だったの? 私、ずっとあなたと生きていくと思ってたよ。結婚すると思ってたよ。
「私、仕事辞めても――」
言いかけた言葉が、蓮の「葵は強いから、どこに行っても大丈夫だよ」という優しい眼差しに遮られた。
その瞬間、冷や水を取り頭からかぶせられたような感覚に襲われた。
ああ、そうか。
彼は「どうやって私を傷つけずに手放すか」だけを考えて、この言葉を用意してきたんだ。私との未来なんて、最初から彼の選択肢の中に存在しなかったんだ。
勝手に未来を期待して、勝手に浮かれていたのは自分だけ。
その残酷な事実が、鋭い刃となって胸に突き刺さった。惨めだった。情けなくて、消えてしまいたかった。
ここで「嫌だ」と泣き叫んだらどうなる?
「私を置いていかないで」とすがったら?
彼は困った顔をして、私のことを「重くて面倒な女」として記憶に刻むのだろう。
…絶対に、それだけは嫌だった。
ちっぽけで、くだらない私のプライドが、悲鳴を上げながら私にブレーキをかけた。
「……そっか…。」
私は引きつりそうになる頬の筋肉を必死でコントロールし、ゆっくりと微笑んでみせた。
「蓮のキャリアにとっても、その方がいいよね。大阪、ずっと行きたがってたもんね?」
「……葵、怒ってない?」
「怒るわけないじゃん。応援するよ。お互い、大人なんだから。」
物分りのいい、最高の理解者のフリをした。
蓮は心の底から安胴したような顔をして、「ありがとう」と言った。その安心しきった笑顔を見て、私の中で何かが木っ端みじんに砕け散る音がした。
帰り際、玄関で靴を履く私に、蓮は「今まで本当にありがとう」と言って、いつもみたいに優しく頭を撫でてくれた。
その手の温もりが、どんな冷言よりも残酷に私を傷つけた。
「じゃあね、お元気で。」
私は一度も振り返らずに、彼の部屋を後にした。
涙は、一滴も出なかった。
居酒屋を出て、拓海と駅の改札で別れた。
「じゃあな。無理すんなよ」と言う拓海の声に軽く手を振り、私は一人、深夜の住宅街へと足を進めた。
八月の夜気はどこまでも粘りつくように重い。
ヒールの低い靴音が、静まった夜道に寂しく響く。拓海に言われた「変にプライド高くて損する」という言葉が、不揃いなリズムで脳裏をリフレインしていた。
……損なんか、してない。
心の中で呟いてみるけれど、その声はどこにも届かずに消える。
マンションのオートロックを解除し、エレベーターで自分の部屋の階へ上がる。鍵を差し込み、ドアを開ける。「ただいま」と声に出しかけて、呑み込んだ。
「暗いな。」
当たり前だ。ここは私の部屋で、私はずっと一人で暮らしているのだから。
パチッと壁のスイッチを押し、シーリングライトを点ける。一瞬でパッと明るくなった六畳一間のワンルーム。
掃除の行き届いたフローリング、整然と並んだ調理器具、一人分の洗面用具。そこには、蓮の私物なんて何一つ落ちていない。
同棲をしていたわけではない。
だから、彼が去ったからといって部屋の光景が変わるわけでもなかった。彼の歯ブラシも、服も、最初からここにはなかったのだ。
それが、無性に惨しかった。
洗面所の鏡の前で、パチンとヘアクリップを外し、メイクを落とし始める。クレンジングオイルを肌になじませながら、鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。
取り乱さず、泣き叫ばず、物分りのいい女として別れた私。
綺麗に整えられた私の生活。
でも、この部屋のどこを見ても、見えないはずの「幻影」がちらついていた。
「この間取りなら、もう少し広い部屋に引越しかな」
「将来さ、キッチンの広い部屋がいいよね」
具体的に何かの契約をしたわけでもないのに、二人でなんとなく語り合っていた「いつか」の会話。
私は勝手に、その「いつか」の中に自分が当たり前に存在していると思い込んでいたのだ。何の約束も、証明もないのに。
お別れの時、彼の部屋には彼の生活があり、彼の未来があった。だけど、私のこの部屋に残されていたのは、二人で選ぶはずだった「存在しない未来の残像」だけだった。
残された物がないからこそ、捨てることすらできない。
メイクを洗い流し、タオルで顔を拭う。
鏡の中の私は、傷ひとつついていない綺麗な顔のまま、冷たく私を見返していた。
部屋の明かりを消すと、一瞬で世界が黒く塗りつぶされた。
ベッドに入り、シーツを頭まで被る。エアコンの微かな送風音だけが、静まり返った部屋を満たしていた。
明日も朝から大事な打ち合わせがある。目覚ましをセットしなければと、サイドテーブルからスマートフォンを取り出した。指先が画面に触れると、まぶしい光が暗闇を切り裂く。
画面の上部には、まだあの通知が残っていた。
『今まで本当にありがとう。葵と過ごした時間は楽しかったよ』
アプリを開くこともできず、ただ通知センターの中で冷たく光るその二行の文章を、私はじっと見つめた。
あの日、彼の部屋で「行かないで」と泣き叫んでいたら、何かが変わっていただろうか。
彼の袖を引っ張って、「お願いだから私を置いていかないで」と惨めにすがっていたら、彼は私の手を取ってくれたのだろうか。
――そんなこと、できるわけがなかった。
「傷つきたくない」「惨めになりたくない」というちっぽけなプライドが、いつだって私の喉を塞いでいた。私は「引き際の綺麗な良い彼女」の仮面を被ることで、自分を守ったつもりになっていたのだ。
でも、本当は違った。
彼は怒る私を見ずに済んで、安堵して去っていった。
私は自分の手で、彼を引き止める最後のチャンスを捨てたのだ。
「……バカみたい。」
口から漏れた声は、情けないほど震えていた。
仕事はある。生活もちゃんと回っている。明日になればいつも通りメイクをして、いつも通り笑って働ける。私はこれからも、ちゃんと一人で生きていける。
でも――。
あなたなしで生きる毎日に、なんの意味があるんだろう
遅れてやってきた強烈な孤独感が、巨大な波となって足元から全身を飲み込んでいく。胸の奥がぎゅっと締め付けられ、息がうまく吸えない。
泣きたかった。声を上げて、子どもみたいに泣き崩れてしまいたかった。けれど、長い間かけて自分で自分に縛り付けた「物分りのいい大人」という呪縛は、一人きりのベッドの中でも解けてはくれなかった。
私は感情のない手つきで、画面上の通知を左へスワイプした。
すっと消えていく二行の文字。そのままトーク画面を開き、彼の名前を非表示にして、連絡先をブロックした。怒りも未練も超えた、淡々としたただの作業。画面から彼の存在が消えても、私の胸の空洞は一ミリも埋まらなかった。
やがて、遮光カーテンの隙間から、薄桃色の朝の光が静かに差し込み始める。
電子音のアラームが、容赦ない音量で部屋に鳴り響いた。毎朝七時にセットされている、いつも通りの現実を知らせる音。
私は一睡もできないまま重い体を起こし、アラームを止めた。
「あなたのいない」今日が、また、始まろうとしていた。
end




