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さよならオヤスミマン

作者: あかみんご
掲載日:2026/06/26

我が家のリビングのカーテンの裏には、定期的に「怪獣」が潜む。


その日の夕方。彼はTVで「おかあさんといっしょ」を見ていた。「からだ☆ダンダン」をニコやかに踊る体操のお姉さんを見つめていた。だが次の瞬間、スッ……と気配を消したかと思うと、リビングの遮光カーテンの影に身を隠す。そして、カーテンの裾から覗く小さな足にギュッと力が入り、顔を真っ赤にして踏ん張り始めるのだ。


そこは彼にとって、誰にも侵されたくない神聖なプライベート空間らしかった。


「Kちゃん、どうしたの?」


私は気づいていないフリをする。

彼は聞こえていないフリをする。


「うんち?」


彼は何も言わない。


息子、三歳半。周囲の「まだおむつ外れないの?」という無邪気なプレッシャーをよそに、彼は頑なにおむつへの忠誠を誓い続けていた。特に、一世一代の大仕事を成し遂げようとする時の彼のこだわりは異常だった。


「トイレいこう!」


私がカーテンを開け、現行犯の彼を確保しようと手を伸ばす。


両脇を掴まれた瞬間、彼はまるで、絶体絶命のピンチに陥った小動物のように身体を激しく捩った。骨がないのかと思うほどの軟体ぶりで私の腕からすり抜けようとし、小さな手足をバタつかせて猛烈に抵抗する。その口から飛び出すのは、終末を告げるかのような絶叫だ。


「いかない!」

「いくよ!」

「いかない!」

「おしり汚くなるよ!」

「い”か”な”い”の”ぉ”ぉ”ぉ”!」


濁点まみれの悲鳴がリビングに響き渡る。

平和なリビングは、一転して戦場と化す。


そこまで嫌がらなくてもいいじゃないか、トイレは別に拷問部屋じゃないんだから……と遠い目になりつつ、私は私で、暴れる十五キロの肉体を必死で抱え込もうと、汗だくの組み手を繰り広げるのだった。


徐々に、臭気が漂い出す。


リビングを揺るがした大バトルの末、結局、彼はカーテンの裏という聖域でおむつにすべてをぶちまけたのだ。私の敗北である。


しかし、本当の戦いはここからだった。用を足し終わって、汚物まみれになったおむつを交換しなければならない。もう三歳半。身体も大きく、力も強い。赤ん坊の頃のように、ごろんと寝かせて「はい、キレイにしようね」なんてのんきな交換は不可能なのだ。


私は彼の手を引き、無言でお風呂場へと連行する。


ドラえもんがプリントされたマミーポコの両側をバリバリと破り、そっと脱がせる。おしりから股間にまで渡ってベットリと汚物がついている。ここからが時間との戦いだ。私はあらかじめ用意しておいたウェットティッシュで、手早く彼の股を拭う。時々汚物が私の指に付着することもある。そんなとき、私は汚れた人差し指を彼の眼前に突き出す。


「Kちゃんがトイレいかないから、パパの指にうんちが付いちゃったよ」


息子は目をつぶって「いや!」と顔を背ける。

私だって嫌だ。


シャワーの蛇口をひねり、温かいお湯で一気に洗い流していく。

この間、我が子ながら感心するほど、彼の態度はガラリと変わっている。


さっきまでリビングで「い”か”な”い”の”ぉ”ぉ”ぉ”!」と狂ったように叫んでいた怪獣は、どこへ行ったのか。お風呂場の白いタイルの上で、彼はすっかり大人しく、従順になっていた。


まるで、銃を突きつけられて投降した捕虜のようだ。


彼はただじっと、されるがままに立っている。私と目を合わせようともせず、神妙な面持ちで虚空を見つめ、シャワーの温水が太ももを伝い落ちるのを静かに受け入れている。そのあまりの変わり身の早さと、哀愁を帯びた小さな背中を見ていると、おかしくて仕方がなくなる。


「はい、おわったよ」


お尻をバスタオルで包み込んでやると、捕虜はようやく解放されたと言わんばかりに、またパタパタとリビングへ走っていく。おむつへのプライドが粉砕されたお風呂場は、彼にとって敗戦処理の場所に違いなかった。


そんな、一進一退というよりは全面敗北に近いおむつ奮闘記を繰り返していた、ある週末のこと。


私たちはいつものように、アミュプラザおおいた店に出かけていた。今はなき大分駅のミニSL「ぶんぶん号」に笑顔で乗って、近くの子育て支援センターで思いきり身体を動かし、昼食にマックのハッピーセットを食べて、屋上の広場で遊ぶのが息子のお気に入りコース。毎週土曜日、この場所で弾けるような笑顔を見せる息子を追いかけるのが、私の定番の過ごし方だった。


一通り遊び終え、私たちは4階の紀伊國屋書店に立ち寄った。自宅を離れ、ズラリと並んだ本棚を眺めている時は、おむつのことなどすっかり忘れて穏やかな時間を過ごしていた。


だが、その平穏は突如として破られる。


さっきまで私の隣でトーマスの絵本を物色していた息子の動きが、ピタリと止まった。うず高く積み上げられたおすすめ絵本コーナーの前に立ち、積み上げられた本の上に両手をついて、じっと一点を見つめている。じわじわと、彼の顔が赤くなっていく。


遮光カーテンの代わりに、絵本のタワー。

そのポーズと表情を見た瞬間、私の脳内にアラートが鳴り響いた。


ここで催し始めたか!


「トイレいこう」


私は慌てて腰をかがめ、息子の顔を覗き込む。


「やだ」

「トイレいこうって」

「やだ」


この期に及んでも、彼のおむつへの忠誠心は揺るがなかった。

外だろうがなんだろうが、彼はいつものスタイルで事を済ませようとしている。


しかし、ここはアミュプラザの店内だ。カーテンもなければ、失敗した後に連行できるお風呂場もない。もしここで決壊されたら、パパの指に付着するどころの騒ぎでは済まない。


焦る私の頭の中で、一つの作戦がひらめいた。

私は一計を案じ、息子の耳元で囁いた。


「じゃあ、トイレみるだけにしよう」

(みるだけなら……)という不信感を湛えた目で私を見上げる息子。


その隙を逃さず、私は彼を抱き上げて素早くエスカレーターへ飛び乗った。


目指すは一階下、3階のフードコートに隣接する子ども用トイレだ。絵本タワーの前で限界を迎えつつある息子を連れての移動は、まさに時間との戦い、一秒たりとも無駄にはできない。


トイレに滑り込み、個室の鍵をガチャンと閉めた瞬間、私の「みるだけ作戦」は速やかに解除された。


「よし、座ろう!」

「いや!」


だがズボンとマミーポコを膝まで引きずり下ろし、私は暴れる彼を抱え上げて、無理やり小さな便座の上に座らせた。


当然、息子は身体を限界まで捩って抵抗する。便座からずり落ちようとする十五キロの軟体を、私は両腕で必死に抑え込んだ。狭い個室の中、パパと息子のガチンコ勝負。外からは他の親子の微笑ましい会話が聞こえてくるが、この個室の中だけは完全に修羅場である。


「十秒座るだけでいいから!十秒だけ数えて!」


私は個室に響かないよう、押し殺した声で小さく叫んだ。すると息子は、この地獄から一秒でも早く脱出したい一心だったのだろう、目をつむって猛烈なスピードで口を動かした。


「12345678910!」


早口言葉のギネス記録に挑戦するかのような勢いで、わずか三秒足らずで数え終えた。


「はやいはやいはやい!」


思わずツッコミを入れつつ、私がなんとかその身体を便座に押し付けた、まさにその瞬間だった。


──ポトン。


静かな個室に、小さく、しかし確かな音が響いた。出た。


「……やった!すごいじゃん、Kちゃん!トイレでうんちできたよ!」


私は歓喜の声をあげた。我が子が歴史的な一歩を踏み出したのだ。お風呂場での敗戦処理の日々が、パパの指に付着したあの悲劇が、今ここで報われた。


しかし、当の息子はというと、歓喜に沸く私とは対照的に、顔をこれ以上ないほど真っ赤にして俯いていた。初めて「おむつ以外」の場所で用を足した気恥ずかしさと、自分のこだわりが敗れた衝撃が入り混じっていたのかもしれない。


彼はじっと俯いたまま、顔を上げようとはしなかった。


ただ、その小さな右手が、目にも留まらぬ速さで壁に向かって突き出された。


──バチンッ!!


壁に設置された「流す」ボタンを、彼は渾身の力で叩きつけたのだ。


ゴーッという激しい流水音とともに、彼の頑ななこだわりと、これまでのおむつへの忠誠心は、文字通り一瞬で水に流されていった。あまりの潔さとスピード感に、私はただ圧倒されるしかなかった。自分の意志とは関係なく「大人の男」の扉を開けてしまった息子の横顔は、どこか諦念に満ちていて、おかしくも少し誇らしげに見えた。


「出ちゃった」という事実に一番驚いたのは、他でもない彼自身だったのだろう。


あの日を境に、彼はあっさりとカーテンの裏を卒業し、トイレへ向かうようになった。……とはいえ、すぐに一人で完璧にできるほど、大人の階段は甘くない。おむつという「聖域」を失った彼は、トイレという未知の空間で踏ん張るために、新たな道具を必要とした。


私だった。


「パパ、もって」


トイレに座ると、彼は真剣な顔で両手を伸ばしてくる。「持って」と言いながら、実際には「抱きしめてくれ」という意味なのだ。私は狭いトイレで便座の前にしゃがみ込み、彼を正面からぎゅっとハグする。息子は私の身体にがっしりと掴まったまま、耳まで真っ赤にして全力で踏ん張るのだ。


その姿は、トイレの中という超至近距離で繰り広げられる、泥臭い相撲の取っ組み合いのようだった。リビングでのあの激しい組み手が、形を変えてトイレの中で再演されている。だけど今度は拒絶の戦いではなく、彼が私を必要とするためのハグなのだと思うと、真っ赤な顔で踏ん張る我が子が愛おしくて仕方がなかった。


そんな「相撲スタイル」のトイレタイムをしばらく繰り返すうちに、彼は本当に、私の身体さえも必要としなくなった。


あんなに激しかったリビングでの組み手も、お風呂場での捕虜のような時間も、そして便座の上での熱い取っ組み合いも、すべては子供の成長という激しい流水のスピードで、一気に過去のものになっていく。


夜、押し入れの奥に残された、出番を失ったオムツたちのパッケージを見る。あの濁点まみれの悲鳴も、哀愁を帯びた小さな後ろ姿も、もう見られないのだと思うと、晴れやかな気持ちの裏側で、ほんの少しだけ寂しさが胸をツンと突く。


頼もしく成長していく息子の背中に、私は心の中で、そっと笑顔で手を振るのだ。


さよなら、マミーポコ。

さよなら、オヤスミマン。


お世話になりました。

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