悪役王妃の愛娘
死がこの塔を訪れるとき、それは決して足音を忍ばせて忍び寄るものではない。むしろ骨の指でティーカップを優雅に持ち上げ、微笑みながら扉を叩くのだ。
王宮の北の塔の最上階。蜘蛛の巣がレースのカーテンのように垂れ下がる円卓で、レディ・ヴェンデッタ・レヴェナントは、ひび割れたボーンチャイナに闇を煮出したような漆黒の紅茶を注いでいた。
「それで? お母様。九十七番目の罪状は何だったかしら」
ヴェンデッタが深い隈に縁取られた虚ろな瞳を向けると、ドレスの上のそれは陽気に笑った。
「聞いてちょうだい、ヴェンデッタ。『火曜日に王が愛でる灰色猫より先に欠伸をした罪』よ。信じられる? わたくし、あの日とても寝不足だったのに。猫の面子を優先しろだなんて、あの男のセンスの無さには呆れるわ」
元王妃アン・デ・ラ・ポルカは自分の首を膝の上に乗せて、手鏡で鮮やかな斬首痕を覗き込んでいる。首のない胴体の方は、慣れた手つきでスコーンに見るからに食欲を失わせる色のジャムを塗っていた。
「ひどい話ね。でもお母様、そのおかげで今の貴女は、どのドレスにも合う素敵な着脱式の宝石を手に入れたじゃない」
「そうなの! 霊界じゃこれが最新のモード。首がない方がデコルテがスッキリ見えて小顔効果も抜群なんだから。あんな湿気た王に執着して一生を終えるなんて、今思えば時間の無駄だったわ」
カタカタ、と骸骨のメイドたちが同意するように顎を鳴らす。その傍らで影のように細長い従者の青年、ジッパーが、大きなハサミをシャキシャキと動かしながらヴェンデッタの袖口を縫い直していた。
「……レディ・ヴェンデッタ、お客様です。またご自身の棺桶を選びたがっている御方が」
ジッパーの極度の不眠症で濁った瞳が、重い扉の向こうを捉える。ドタドタと不恰好な足音が響き、現れたのは脂ぎった顔を歪ませたポークベリー侯爵であった。
「やあやあ、レディ・ヴェンデッタ。相変わらず、埃と骨に囲まれて不健康なおままごとをお楽しみですな」
ポークベリー侯爵は肥えた腹を揺らしながら、口先だけの礼儀を振りまく。彼の眼にはヴェンデッタの細い首ではなく、彼女の血筋が持つ価値が透けて見えていた。
「貴女のような忘れ去られた王家の至宝を、私が引き取って差し上げましょう。もちろん然るべき務めを果たせば、この塔から出してやってもいい」
侯爵は薄ら笑いを浮かべる。その意味するところは、世継ぎを産む道具としてだ。
母アンが処刑台の血飛沫となって消えたその瞬間、彼女の王女の称号は剥奪され、王の私生児としてこの塔に放り込まれた。しかしその指先に流れるのは、この栄光ある国を統治してきたレヴェナント王家の濃い血である。
ヴェンデッタはまるで壊れやすい人形のように、白く細い首をゆっくりと傾けた。その仕草は猛毒のように血を巡り、侯爵の期待を煽る。
「まあ、なんて甘美な響き。ねえ侯爵。もし……私が男の子を産めなかったら? 貴方もお父様のように、私に『雨の日に歌った罪』を着せて、この首を捻じ切ってくださるのかしら?」
ヴェンデッタの背後でアンの首がケタケタと笑い、骸骨たちがティーカップを叩いてリズムを刻み始める。恐怖に顔を強張らせる侯爵の耳元で、ヴェンデッタはさらに声を潜めた。
「楽しみだわ。貴方の背後に立っている、貴方に毒殺された先代の奥様も、早くこちら側へおいでって、手ぐすね引いて待っていらっしゃるもの」
侯爵の耳に、喉を抉るような断末魔が流れ込んだ。それは数年前、彼がスープに一滴の毒を混ぜて黙らせた先妻の、泡を吹きながら絞り出した最期の苦悶の叫びであった。
「ひ、やめ、やめろッ!」
侯爵は脂ぎった顔を瞬時に土色に変えて絶句した。
ヴェンデッタにとって、死霊術は北の塔での退屈しのぎに過ぎなかった。埃を被った古い魔導書をめくり、墓場から這い出した骸骨と茶を飲む。砂糖の量で言い争いになり、骨の欠けを巡って謝罪させる。その程度のささやかな趣味である。
しかし母を処刑し、自分を泥に突き落としたこの王宮において、今やその趣味は極めて効率的な実益へと形を変えつつある。
ヴェンデッタはせっせと塔の階段を登ってくる強欲な求婚者たちを、獲物を誘い込む蜘蛛のような冷ややかな好奇心でもてなした。
彼女がその白く、あまりに細い首をしなやかに傾けて彼らの喉元へ顔を寄せるとき、男たちは自分が彼女を支配していると錯覚する。しかしそのとき彼女の鼓膜を震わせるのは、生者の甘言ではない。彼らが栄華を築くために踏みつけ、土の下へ葬ってきた死者たちの賑やかすぎる告発の声だ。
一人目。軍爵グレイヴは鋼の鎧を鳴らし、野心という名の脂汗を流す大男であった。彼は王位の軍事力を手に入れるため、ヴェンデッタを戦利品として求めた。
「レディ。貴女のか細い首には、宝石よりも私の軍旗の影が似合う」
ヴェンデッタが彼に歩み寄り、鎧の隙間から覗く無骨な首筋に唇を寄せた瞬間、彼女の耳に数百人の兵士の呻き声が響いた。
「この男は退却路を確保するために、自軍の殿を見捨てて背後から射殺しましたッ!」
泥にまみれた亡霊が、グレイヴの肩に噛みつきながら戦果報告のように叫ぶ。ヴェンデッタは男の腕の中で、愛おしげに目を細めた。
「あら大佐。貴方の背中には、とても冷たい雨が降っているのね。しかもその雨は血の色をしていて、決して止まないんですって?」
二人目。財務卿シルクハット・ラットは、シルクの帽子を脱ぎ、仰々しく膝をつく小男。彼はヴェンデッタの血筋を、自らの不正を隠蔽するための最高級の隠れ蓑にしようと考えていた。
「この塔にある埃を、すべて金貨に替えて差し上げましょう。私の隣に座るだけでいい」
彼がヴェンデッタの手をとり、その指先に乾いた唇を落としたとき。彼の背後にいた痩せこけた老女の霊が、待ってましたとばかりにヴェンデッタの耳元で叫んだ。
「その金は飢饉で死んだ私の村の救済金よ! この男がパンを石にすり替えたの!」
ヴェンデッタは野ねずみのようなラットの頭を優しく撫でた。
「素敵。でもその金貨には、飢えた子供の歯が混じっていないかしら?」
三人目。美貌の貴族ナルシス伯爵は、ヴェンデッタを魔女の娘と蔑みながらも、彼女の退廃的な美しさを自身のコレクションに加えようとする耽美主義者であった。
「ヴェンデッタ。君を私の庭にある最も美しい毒花の隣に植えてあげよう」
彼がヴェンデッタの細い首に顔を埋め、その香りを嗅ごうとした瞬間。彼の背後から、首に真珠のネックレスを巻き付けた少女の亡霊がひょっこり現れ、冷たい吐息を漏らした。
「……飽きられた私はね、この真珠でギューっとされて、バラの肥料にされたの」
ヴェンデッタはナルシスの頬を撫で、まるで恋人への囁きのように告げた。
「バラの香りがするわね、伯爵。でも、根元にはいつも白い秘密が埋まっているのでしょう?」
ヴェンデッタはジッパーがハサミを鳴らす音を聞きながら、男たちの耳元で甘く囁き続ける。それは求愛ではなく、死霊術師が死者から受け取った秘密という名のナイフを、生者の心臓へ突き立てる準備だった。
「さあ、次の求婚者はどなた? 私の首を絞める前に、まずは貴方の過去を私に捧げてちょうだい」
しかし、彼女が手記に漆黒のインクで男たちの罪状を、楽しげな風刺画と共に最後の一行まで書き添えていた頃、宮廷では異変が起きていた。塔を訪れた求婚者たちが一様に顔を土色に変え、ガチガチと歯を鳴らしながら逃げ帰っていたのだ。
「彼女の瞳に映ったのは僕じゃない。僕が数年前に、不慮の事故で亡くしたはずの叔父上が、手招きしながら笑っていたんだ!」
「ヴェンデッタが首を傾げると、背後の影から頭のない女が這い出してきて、可愛くおねだりされたんだ! 『まずは貴方の心臓を、お皿に載せて差し出して?』とな!」
そんな噂が湿った霧のように王宮の廊下を這い回り、貴族たちの肝を冷やしていた。
月のない夜、ヴェンデッタはいつも通り北の塔の静寂の中で、アンの亡霊と「どちらの首筋が美しいか」という不毛な議論に興じていた。
「処刑人の刃が磨き抜かれていたおかげで、わたくしの切り口は今でも新鮮よ」
アンの首は動脈をぶら下げたまま手鏡を覗き込み、自慢げに笑っている。その平穏な不気味さを破ったのは、乱暴な金属音だった。
轟音と共に扉が蹴破られ、埃が舞う。踏み込んできたのは重装の鎧を纏った近衛兵たちだ。彼らは死霊術への恐怖を隠すように、これ見よがしに剣を突き出した。
「レディ・ヴェンデッタ! 貴様には、国王陛下より『国家反逆』および『宮廷を惑わす邪術の行使』の疑いで召喚状が出ている!」
「まあ。お父様ったら、お迎えを寄越すのにわざわざ鉄の玩具を持たせるなんて。相変わらず、私の趣味を理解していらっしゃらないのね」
ヴェンデッタはジッパーが丁寧に仕立てた、喪服のように真っ黒で、不吉な星を散りばめたドレスを優雅に翻して立ち上がる。
彼女は求婚者たちの罪と下手くそな似顔絵を綴った分厚い手記を小脇に抱えると、背後で自分の頭を弄んで笑う母の亡霊を連れ、近衛兵たちが引くほど堂々と塔の階段を降りていった。
辿り着いた王宮の大広間は、やけに張り切って飾り立てられていた。金の燭台、花輪、横断幕──本日の公開処刑とでも言わんばかりの気合いの入りようである。
祝祭の準備にしては客の目が血走りすぎており、葬式にしては皆やけに楽しそうだった。ここは社交場であり、見世物小屋であり、そして何より、退屈な貴族たちの暇つぶし会場だった。
玉座にどっかりと腰を沈めた王は、青白い顔をさらに不機嫌に歪め、忌々しげに北の塔から引きずり出された娘を見下ろした。その隣にはヴェンデッタを娶り損ねたポークベリー侯爵やシルクハット・ラットたちが、自分は処刑されない側という安心感に満ちた笑みを浮かべて並んでいる。
「レディ・ヴェンデッタ。貴様の不謹慎な振る舞いは、我が王家の血を汚した。あの母にしてこの娘あり。アンと同じく、貴様もまた救いようのない悪女だ」
王の合図で侍従がずるずると床を引きずるほど長い巻物を広げ、朗々と罪状を読み上げ始めた。それはかつて王妃アンが断頭台へ送られた際と同様の、悪意に満ちたデタラメの羅列だった。
「一、王の寝室に飾られた真紅のバラの蕾を、その不浄な眼差しで枯らした罪! 二、月曜日の朝に、王の愛犬が吠えるよりも不吉な音で、ハサミを鳴らした罪! 三、雨上がりの水たまりに、王の威厳を損なうような青白い顔を映し出した罪!」
途中で侍従は一度、行を見失った。隣のもう一人が小声で「それは三十二番目です」と助言する。
読み上げられる罪状が五十を超えたあたりで、貴族たちは内容を聞くのをやめて「そうだ、死罪だ!」「首を撥ねろ!」と野次を飛ばし始めた。中身はどうでもよく、参加していることが重要なのだ。
ヴェンデッタは鉄格子のない処刑台の真ん中で、ただじっと立っていた。彼女の肌は月の光に洗われた墓標のように青白く、深い隈に縁取られた瞳は目の前の生者ではなく、彼らの背後に蠢く渦巻き模様の影だけを凝視している。
「……お父様、もうお疲れかしら? まだ半分も終わっていないのに」
ヴェンデッタの霊廟のように冷たい声が広間を凍らせた。彼女は背後で自分の頭部を小脇に抱え、真っ赤な切り口を自慢げに見せびらかしている母の亡霊に、そっと目配せをする。
「その百の罪状、とても素敵だわ。でも残念ね。死者たちの記録によれば、この広間にいる皆様の罪は一万と二百三十七よ。ちょっと多すぎて数えきれなかったけれど」
ヴェンデッタが指先で虚空を弾くと、広間の華やかな灯りが一斉に吹き消された。代わりに現れたのは、床の隙間や壁の影から這い出してきた、真実の目撃者たちの奏でる不協和音のコーラスだった。
『熱い、熱いの、喉が焼ける……あのスープの隠し味、覚えてる……?』
『使い捨ての、駒だと言ったな……さあ、今度は貴方が、地獄のチェス盤に乗る番だ……』
姿なき叫びが渦を巻き、逃げ惑う貴族たちの耳元で湿った断末魔が爆発する。そのとき、広間の壁を飾っていた甲冑の中から、ガチャガチャと乾いた音を立てて番人たちが這い出した。彼らはかつて王家の法に殉じ、死してなお正義という名の病に執りつかれた、カタカタと歯を鳴らす古の骸骨兵たちだ。
錆びついた手枷を引きずり虚ろな眼窩を光らせた番人たちは、泣き叫ぶ貴族たちの襟首を子猫のように掴み上げる。
「離せ、この骨クズども! 私は侯爵だぞ! オーダーメイドの服がシワになる!」
貴族たちは逆さまにひっくり返され、冷たい石床を音を立てて引き摺られていった。向かう先は日の光も届かない、腐敗と沈黙が支配する地下牢である。
一人、また一人と生者が消え、豪華な広間に残されたのは崩れ落ちた父王と、その足元に影を落とすヴェンデッタだけだった。王の震える手から権威の象徴である杖が滑り落ち、空虚な音を立てて転がる。
「寄るな、悪魔の娘め! 余が望んだのは国の礎となるべき雄々しき獅子、黄金の王子だ。家系図を汚すだけの過ちなど、墓の下で腐った骨の欠片に過ぎぬ!」
ヴェンデッタは立ち止まり、まるで古いオルゴールのネジを巻くようにゆっくりと首を傾けた。
「……そうね、お父様は王子が欲しくてたまらなかった。だから、男の子を産まなかったお母様を処刑なさったの。……それでもね、私はずっと貴方をお父様と呼んでいたのよ。いつかその大きな手で、私の頭を撫でてくださる日が来るんじゃないかって、骸骨たちと賭けをしながら待っていたの」
ヴェンデッタはまるでワルツを踏むように、しなやかに父王へ歩み寄った。そして目の前で跪くのではなく、優雅に腰を落として視線を合わせる。
「……でも、お父様が私に教えたのは、愛し方ではなく首の落とし方だけだった。お母様のあの、見事な断頭を特等席で見せてくださったもの」
指先が父王の喉元へ触れた。王はその指が、かつてお抱え処刑人である「うっかり屋のレイオフ」が、鼻歌交じりに研ぎすぎてカミソリよりも薄くなってしまったあの刃と同じ温度であることに気づき、喉を鳴らして絶句する。
「感謝しているわ。だからお返しに、今度は私がお父様に特等席を贈って差し上げるの。……さあ、番人たち。この方をあのお懐かしい断頭台へ。お母様が、とびきりの笑顔と切り口で待っていらっしゃるわ」
ヴェンデッタが指を二度鳴らすと、血染めの前掛けを丁寧に畳んだ処刑人がぬるりと姿を現した。ちなみにレイオフは、仕事熱心のあまり自分の指までスライスしては、そのたびに「気合入れていきます!」と陽気に叫ぶような、この城で一番風変わりな男である。
「レイオフの腕前は保証するわ。あの方は同じ首を二度落としたことがないんですもの。一回目で全部終わってしまいますから」
ヴェンデッタは立ち上がり、かつて父王が座っていた玉座に深く身を沈めた。もはやここは生者のための王宮ではない。死者たちの囁きを法とし、真実だけが意味を持ち、そして何よりセンスの悪い嘘が許されない国である。
「静かだわ。生きている人たちの心臓の音って、ドクドクうるさくて嫌いだったの。死者たちの静かな溜息の方が、ずっと上品な子守唄になるわ」
ヴェンデッタは父から奪い取ったブカブカの王冠を少し斜めに被った。その背後ではアンの亡霊がこれ以上ないほど陽気にハミングしている。
「ヴェンデッタ、見て。昔からこれがやってみたかったのよ!」
彼女は自分の青白い生首と、父王が落とした重い宝珠、そして誰かの首から外れた真珠のネックレスを手に取り、見事なジャグリングを披露し始めた。
生首が宙を舞うたびに「きゃあ!」「目が回るわ!」「次はもっと高く放り投げて!」と、自分自身の首と胴体が交互に叫び声を上げている。
「お母様、そんなに頭を放り投げたら、目が回って私が見えなくなっちゃうわ。ほら、ちゃんと私のことを見て。貴女の娘が、いまや王座に座っているんですもの」
勢い余ってシャンデリアにぶつかった頭が笑い声を上げ、切断面から乾いた血の粉が、新しい女王への祝福のように降り注ぐ。ヴェンデッタは透き通るように青白い指先で受け止めると、隣に控える影──ハサミを持つ従者へ、慈しむような視線を向けた。
「さて、ジッパー。これからの計画を立てなくてはね。まずはあの退屈な庭園をすべて、夜にだけ咲く白い毒花に植え替えて。根元には、地下牢へ行った皆様を肥料として撒いてあげるのがいいわ」
ヴェンデッタが小首を傾げて笑うと、ジッパーが鋭い指先を胸に当てて深くお辞儀をする。
「お望みのままに。貴女が死んで、僕が骨になるまで。……クイーン・ヴェンデッタ」
窓から差し込み始めた冷たい月光が、二人の影を床に長く、歪に引き伸ばしていく。ジッパーの指先は巨大なハサミのように、ヴェンデッタの影は茨の棘を纏う怪物の如く。闇の中で寄り添い合う影に、クイーン・ヴェンデッタは満足げに瞳を輝かせ、不気味で愉快な治世の第一歩を踏み出したのである。




