6.逆襲は観察から
夜が明けてホテルから自宅に戻った凛は昨夜より幾分気持ちが落ち着いていた。ミラは特に変わった様子もなく、まずは腹ごしらえに、とカップラーメンを取り出した私にお小言を飛ばしてくる。身近に迫っている危険なんて感じさせない日常。それが意図的に作られている物だとしても、心と体を休めるには最適だった。
凛はスマホの画面を指でなぞりながら、最新のSNSの通知を確認した。
「…また篠原蓮?」
『またソイツ?今時フルネームなんてめずらしいわね?』
ミラの声に軽く返してスマホをスクロールする。
ストーカー殺人事件の調査の一環としてSNSアカウントを作成して日々の出来事などを適当にアップしていたら、定期的にコメントが来るようになった人物だ。コメントは何気ない内容だった。だが、このコメントは文章の端々に自分しか知らないはずの事が書かれていた。
「昨日はホテルに泊ったの?」
凛は一瞬、息をのんだ。
昨日ホテルに泊まったのは五十嵐さんをはじめとする警察関係者しか知らないはずだ。
「なんで…知ってるの?」
違和感は、小さな波紋のように胸の奥に広がった。これまでも、移動した直後に「偶然だろう」と想えるコメントが届くことはあった。でも、ここまで正確に行動を追われている感覚は初めてだ。
凛は自分の行動を整理してみる。
・昨日、家を出た時間
・帰宅してSNSを更新したタイミング
・誰にも話していない部屋の配置
全てが、篠原連のコメントに反応している。偶然の範囲を超えていることに凛はやっと気が付いた。
『凛?どうしたの?』
「…私の行動を逐一観察している…。」
『!!それって…観察者ってこと?』
凛は慌てて過去の投稿とコメントをさかのぼる。スクロールする指が震えていた。案の定、篠原のコメントには自分の部屋の小物や日常の細かな癖まで正確に書かれていた。その瞬間、凛の胸に冷たい確信が落ちた。
「…この人、私を観察している。」
次の瞬間視線を感じるような気がして、窓の外を見る。だが。街は静かなままだ。どうして気が付かなかった!観察者事件のなぞと犯人戸の接触で他のことが見えなくなっていた自分が情けない。
「クソっ!」
『…落ち着いて、凛。大丈夫よ。…篠原蓮って男が犯人なのかはわからないけど、コイツは凛の生活に入り込んでいる。偶然では説明できない痕跡を残した。決定的な証拠はまだないけど…そうね、心理の糸口は掴んだわ。』
元精神科医のミラが言う心理の糸口とは何か凛にはわからなかったが、ミラがそう言うのであれば、まだ私達にも正気があるはずだ。
「やられっぱなしは、趣味じゃないしね。次に何をするべきか、計画を建てよう。」
『ええ、そうね。冷静にね。』
そうして、二人は新しいノートを開いて作戦を書いていった。
取調室ほど無機質ではないが、温度のない部屋だった。机を挟んで座る五十嵐刑事は、凛の話をさえぎらずに聞いている。メモは取らない。ただ、時折視線だけが鋭くなった。
「―――つまり、その男は〝見ていないはずのもの“を知っていた。」
凛が頷くと五十嵐刑事はようやくペンを動かした。
「知っている、じゃない、〝見ている”だな。」
その言い方に、凛の背中を冷たいものが走る。五十嵐刑事は淡々と続けた。
「被害者女性も同じことを言っていた。偶然が、重なりすぎる。って。」
机の上に、何枚もの紙が置かれる。写真で地図でもない。ただの時系列のメモだった。たが、凛にはわかった。それが人の生活の影を並べたものだと。
「ここを見てほしい。」
五十嵐刑事が指で叩いたのはある時間帯。被害者の投稿、凛の行動、そして―――篠原連の反応。
「毎回、この時間だけずれがない。仕事でも私用でもない。観察に都合のいい時間だ。」
凛は息を詰めた。それは自分が最も無防備になる時間でもあった。
「昨日、真宮のアパートで不審な影を見た時間は一致しねぇが、ホテルで警護していた警察官たちが騙されて署に戻り、その隙に真宮の部屋に犯人が向かっているとすれば…ピタリと一致する。」
トンッと五十嵐刑事の指がその時間帯で止まった。
『凛が篠原蓮にとっては何よりも価値のある観察対象だったのね。…だから自分の観察できないところに行ったことで不安に駆られたんでしょ。…自らの目で確かめないと安心できないほどに…。』
ミラの声に無意識に体が震えた。
「篠原蓮。こちらでも調べてみよう。真宮はもう帰れ。」
それだけ言うと五十嵐刑事は立ち上がった。それに倣うようにして凛も立ち上がれば、もう一言五十嵐刑事は付け足した。
「―――これは偶然じゃない。篠原は真宮が気づく段階に入ったことを、まだ知らない。」
その言葉が、凛の足を止めた。
恐怖よりも冷静な感情が湧き上がる。篠原蓮は、まだ自分が観察者から〝観察される”側になったとは思っていない。その事実が凛に大きな力を与えてくれた。
「五十嵐さん…お願いがあるんだけど。」
凛の突然の申し出に五十嵐刑事は心底いやそうな顔をした。そしてそれとは対照的に凛は満面の笑みで五十嵐刑事に近づいていった。
薄暗い部屋のなか、篠原はジッと座っていた。パソコンの画面には、無数のSNS投稿や監視カメラの映像が映し出される。それはそれを完璧に捜査しているつもりだった。
【誰にも気づかれない】
だが、ふと違和感が走る。
「動きがズレている?」
普段なら完璧に読める凛の行動のタイミングが、最近微妙にずれている。食事の時間、散歩のルート、仕事、SNSの投稿―――小さな差異。目の前の画面に映る自分の操作の痕跡に僅かな狂気の亀裂を感じる。その時キラッと机の隅に置かれた鏡のかけらが光った気がした。その光に吸い寄せられるように小さなかけらを手に取る。そして、狂ったように机に広げたノートに動線を書き込んだ。
「見られるより、見るほうが楽だ…。」
手元の割れた鏡の破片を指でなぞる。何時からそれがあるのかはわからない、ただ手にした瞬間、羽村の声が頭の奥に響いたような気がする。…もう何年も聞いていなかった…親友の声。
「…そう、動きを書き込むんだ。全て、見える。大丈夫だ…僅かなズレも修正できる。」
ノートに書きもまれた凛の一日の動線。どこで立ち止まり、どこで息を吐くか、どこで鏡に触れるのか。完璧に再現されていた。
「あの子も、ここまで見られていたのか…。」
篠原は唇を噛む。胸の奥が熱くなる。理解していない、経験もしたことがない感情。しかし、この興奮は羽村の残滓なのか、自分自身なのか区別が付かない。
篠原は指先でマウスを握りなおした。先ほどよりも幾分心は落ち着いている。
「偶然か…?」
だが、心の奥で偶然ではないことを知っていた。
これは…___この感覚は……〝見られている”__!!
その瞬間背中に冷たいものが走り、憎悪と興奮が入り混じって篠原の体を駆け巡った。観察する側だった自分が、逆に見られる側に立たされる恐怖。支配欲の高揚は僅かに揺らぎ、静かな怒りに変わる。
「まさか、あの子か……。」
…真宮…凛…ッ!!!!
凛の目に、自分の痕跡を読み取る力がある。それを感じた瞬間、完璧な観察者としての自信が静かに崩れ始めた。指先が微かに震える。行きも、ほんのわずかに早くなる。しかし、その標章は不気味なほど変わらなかった。静かな狂気を保とうと…必死に。
だが、心の奥底でもう逃げ場はない事を知っていた。
夜は静かすぎて、凛の部屋の時計の秒針の音さえ大きく響くようだった。窓の外では街灯が微かに揺れ、影が壁に落ちている。
凛は机に向かい、篠原蓮情報を整理していた。違和感を積み重ねて、小さな矛盾を見つけて、五十嵐刑事と情報を共有して居場所も特定した。しかし、緊張は緩まない。
『凛、あの男…ただのストーカーじゃない。観察することが快楽になっているわ。』
その時、ミラの声が一段と低くなった。
『篠原蓮の名前を聞いた時から頭が痛くて、それでよく考えてみたの。そしたら思い出したわ。…篠原は羽村一成と同じ学校にいたの。アンタの知らない影の繋がりがある。』
凛は息をのむ。
「羽村君と?」
『ええ…羽村一成の母親の形見の手鏡なんだけど…アタシはあの子の死と関係していると思ってるの。』
「え…?」
『篠原は羽村の模倣をしているのか、羽村の意思を継いでいるのかは知らないけれど、篠原事態の能力はきっとそれほどでも無くて、実態はあの鏡なんじゃないかって思うのよ。』
「ごめん、どういう事?鏡自体が情報を吸収するの?」
『あなたの動線、感情、習慣…鏡に触れるたび、ほんの少しづつ篠原に伝わっているとしたら?』
「え?いや、ちょっと待ってよ!そんなことあるわけ…、」
『アタシが鏡の中にいるのに…?超常現象は信じられない?』
心なしかミラノの声が小さくなって凛は何も言えなかった。
『観察者現象の再現なんて、なんの才能もない人間には無理だもの。…それくらい羽村一誠は特殊で異質で天才だった。篠原は超常か心理か、どちらも混ざっているの。でも、確実なのは…あなたを狙っている。』
「…でも、私達は負けないんでしょ?」
『ええ…そうね。大丈夫よ…アタシがいるもの。』
相手は自分の事を観察している異常者で、超常現象や超能力の類の力を使うとしても、私達は負けない。それよりも、ミラの過去が少しずつ思い出されていることが気になる。それも今回の事件が終われば、解決するのだろうか…。その時は一緒にいれるのだろうか…。凛は不安を感じながらもそれを胸の奥にしまい込んだ。
そのころ、篠原は部屋の暗がりに座りパソコン画面を見つめていた。だが、いつもの冷静さが少しずつ揺らいでいる。
「見られている。」
微かに唇をかむ。支配欲の高揚が、今は静かな恐怖と焦燥に変わっている。篠畑はモニターに映る凛のSNSや生活の記録をスクロールする。何かが違う…___タイミング、行動の微妙な変化。
「まさか…あの子…。」
その言葉に冷静さの薄皮がはがされるような感覚があった。
凛は机の上でペンを握りなおし、深呼吸をする。戦略はある。心理的に揺さぶり、相手を動かす事。直接の対決ではなく精神の駆け引きで主導権を握りたい。もしミラの言うとおり、鏡に情報が吸収されたり、鏡を媒体にして命を奪われる危険性があるのなら、会うのは最小限にしておきたかった。
夜は更け、互いに眠れない時間が続く。
夜の静寂が、篠原の部屋を覆ってた。
パソコンの画面に映る凛の行動記録。どれも自分が完璧に「観察」してきたものだった。だが、今、画面の向こう側で凛の動きに微かな変化があることに気が付いた。
「…動いたな。」
心臓が跳ねる。支配欲は高ぶり、次第に焦燥が忍び寄る。彼女がこちらの手の内を読んでいる___そんな感覚に冷静だった頭が僅かに揺らぐ。
篠原は椅子に深く沈み、指先で机を叩く。微かな音さえ異常に鋭く聞こえる。
「俺が…支配するはずだった…なのにッ…!」
声にならないつぶやきが、部屋の闇に溶けた。
だが次の瞬間弾かれたように篠原も手元の資料をひっくり返す。紙が床に散らばる音が規則正しい静けさを裂いていた。秩序だった観察の世界が、自分の心理の乱れで乱れて行く瞬間だった。画面の向こうでは凛は冷静に整理された手帳をめくっている。その動きを篠原は、自分の掌を離れた存在としてとらえてしまう。
あんなに動線だって読めるのに。表情や考え方まで手に取るようにわかるはずなんだ!!
感情は爆発しそうだが理性が静かに警告していた___彼女を「手放せ」と。だが、支配欲は理性を簡単に押しのける。
「俺が…観察者だ!!観察者現象も観察対象も全部俺が支配しッ…見下ろしてやる…!!」
唾を飛ばしながら歯茎をむき出しにして叫ぶそこには狂気しかない。指先に力を込め、全身に高揚が走る。完璧に計算していたはずの観察が、逆に自分を追い詰めることになっている。静かな部屋で、息遣いだけが目立っていた。
その瞬間、篠原は完全に理解した。
「支配できるはずの相手が、自分を観察している___。」
恐怖と興奮が同時に遅い、彼は狂ったように鏡の破片を手に取った。そして、パソコンの画面ではなく淡く光った鏡の破片に映った凛を前に、静かに狂った支配欲の嵐が目を冷ましたのだった。




