5.観察者のゲーム
深夜のホテル。
凛は窓から離れて備え付けの机の上に捜査書類と被害者の遺品を並べていた。外は静かで物音すら聞こえないがその沈黙が恐ろしい。
「ミラ…聞こえる?」
『ええ、凛聞こえるわ。さっきは取り乱してごめんなさいね。』
警察署を出てからずっと護衛の警察官がいたためミラに話しかけることが出来なかった。廊下にはまだいるかもしれないが流石にホテルの室内までは入ってこない為、ここにきてようやくミラに声をかけることが出来たのだった。
「…ミラ、私…どうしたらいい?」
『あの影、凛を試しているのよ。どれだけ揺さぶれば〝自分がどう動くか”知りたいの』
「ゲームみたいに扱いやがって。」
凛が怒りに任せて机を拳で叩く。
『そう、これはゲームよ。観察者が仕掛ける命をかけたゲーム。』
「……負けたくない。」
『ええ、…勝ちましょう…私たち二人で。』
凛は息を整え再び再び机に向かう。被害者が殺害された前日に書いたメモの一部が赤いペンで無理やり消されている。
「このペン、書いた人の圧が強すぎる…怒りっぽいか、焦ってた?」
『違うわ。これは消したい記憶に触れた時の癖。精神科でよく見た。』
ミラは静まり返るような声で言った。
「…羽村一成の事…聞いてもいい?」
しばらくの沈黙の後、ミラはゆっくりと話し出した。
羽村一成は当時14歳の少年で人の表情から感情を読むことが以上にうまかった。幼少期から「誰かにずっと見られている」と訴えていたが周囲は気味悪がり、真剣には取り合わなかった。そのうち羽村の学校で不審な出来事が続き、当時精神科医だったミラにカウンセリングが依頼された。
「不審な出来事って?」
『最初はクラスの担任が自宅で倒れたのよ。その次は同級生の不審な怪我。二人とも命に別状はなかったけど、精神的にすごく追い詰められてて不穏だったわ。そして事件があった現場には必ず鏡があってすべて同じ角度に調整されていた。』
「ッ!!…それって!?」
『ええ、今回の事件と同じね。』
落ち着いたようなミラノ声で話は続いた。
『羽村一成―――あの子ね、アタシにだけ心を開いてくれたの。学校も家庭も壊れてて…唯一大切にしていたのが母親の形見の手鏡だった。でも、カウンセリングを重ねるうちに、羽村の異常な…なんていうのかしらね性癖のようなものも見えるようになったわ。あの子は〝他人の視線の動きを読むのが快感”だと言っていた。そして、偶然あの子がいつも持ち歩いているノートを見ることがあったの。…始め見た時私、怖くて堪らなくなったわ。』
ゴクリと凛の唾をのむ音が静かな部屋に響いた。
「なんて書いてあったの?」
『…何も…。』
「え?」
『文字はないも書いてないわ。ただ、すべてのページに、細かい点と線で構成された奇妙図形と誰かの視線を示すような軌跡があった。そして、あるページだけ真っ黒に塗りつぶされて中央に文字が一つだけ書かれていたの。…『観察者』…って。』
その瞬間、凛の背筋にゾワリと悪寒が走り、鳥肌が立った。無意識に自分の肩を両手で抱きしめる。
『アタシ、最後の診察になってしまったあの日、こう言われたの。「先生、あなたももう見られているよ。奴は鏡を好むんだ。見たいもの全部が映るから。」…アタシその時はよく意味が分からなかった。でも、今思えばあの子は一種の天才だった。だから…あの子は観察者に狙われた。』
「羽村君…それからどうしたの?」
『アタシが最後に会った一週間後…部屋で亡くなっていたわ。原因は不明。争った痕もない。ただ――』
ミラは苦し気に続けた。
『手鏡だけが、彼の手に残っていた。』
ミラは胸が締め付けられた。心なしか呼吸まで浅く苦しくなっていく。
「ミラ…それって…。」
『ええ。あなたのお父様が殺害された現場と同じよ。…そして今回の事件も犯人は過去の事件と同じ〝観察者”である可能性が高いわ…。』
「……嘘、でしょ…。」
その時、ピンポーン!と突然インターフォンが鳴った。
ビクッと肩を震わせた凛は顔だけを部屋の出入り口のドアに向ける。外には警察官が待機しているんじゃないの?だとしたら何か用があって…?
ふらりと立ち上がりドアに向かおうとした凛を鏡の中からミラの鋭い声が止めた。
『ダメッ凛ッ!!罠よ!!』
その言葉にまるで凍ったようにピタリと凛の体が止まる。
ピンポーン!
再びインターフォンが鳴った。凛の背筋が凍り付く。
ピンポーン、ピンポーンピンポーン、ピンポーンピンポーン、ピンポーンピンポーン、ピンポーンピンポーン、ピンポーンピンポーン、ピンポーン、ピピピピピピンポーンピンポーン!
早くと駆り立てるようなインターフォンの連打の後、急に沈黙が落とされた。何も出来ずに震えながら立ち尽くす凛をあざ笑うかの様にドアノブがゆっくり回される。
『大丈夫…施錠はしたから。』
「う、うん…。」
ドアチェーンもかけて二重に施錠されているこのドアを簡単に開けられるはずがない。そう思えば、たとえドア一枚でも安心感を感じられた。
カチャっ…カチャ…
何度かドアを回して諦めたのか再び沈黙が落とされた。
そして部屋の外から、コト…コト…と固いものが置かれる音。ミラはドアノブの鏡面から外に何が置かれたのか確認する。そして、しばらく固まった。
「ミラ?」
『凛…。』
ミラの声が震える。
『外に、鏡を置いて行った。…これは招待状よ。観察者からのね。』
凛の手が、脚が全身が震える。
これは…ただの殺人事件じゃない。
そして、凛は確信した。ミラの過去の患者と観察者事件と影は一つの点で繋がっている。ゆっくりとミラが凛の名前を呼ぶ。
『凛…覚悟しなさい。アイツはアンタを完成形の観察対象に選んだ。』
凛は鏡に向かい小さく答える。
「そんなの…願い下げよ。…ミラと私で必ずこのゲームに勝つよ。」
『ええ…そうね。勝ちましょう。』
その時、ドアの外に置かれた鏡が僅かに向きを変えたことを二人は知る由もなかった。
間もなく夜が明ける。
凛は仮眠を取ろうとしたが、うまく寝付けずホテルの部屋に備え付けのドレッサーの前に座った。外からは何の気配もないのに心臓の音はまだ少し早い。そんな凛にミラの
が優しく落ちてくる、
『…凛、こっちを見て。』
凛は素直に顔を上げて鏡を覗き込んだ。そこに映るのは酷く顔色の悪い自分の顔なのに、どうしてかその奥に、もう一人、自分ではない誰かが見える気がする。
『…酷い顔よ。今にも泣きそうじゃない。』
凛は力なく眉を落とした。
「…ミラの前だと何だろう、素直に自分を出せるんだよね。」
『あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。そうね、最初からずっと、私を信頼してくれていたわね。』
凛は苦笑いをする。
『でも、最初の印象は最悪だったけどね。えげつない悲鳴とすぐに鏡を割ろうとしたでしょ?』
ミラはわざとらしくため息をつく。
「だって鏡から声がしたら普通壊すでしょ?」
『…でも壊さなかった…。』
ミラの静かな声に凛は少し俯いて小さく返す。
「だって…私が一人になってからずっと苦しんでいた夢を見た時〝あなたは大丈夫よ”って最初に行ってくれたのは…ミラだったから。」
父親の死がきっかけなのか、特定の悪夢を見るようになった凛を声だけで落ち着かせて「ずっと見ているわ。大丈夫よ。」と言ってくれたことは凛の心に強く刻まれていた。この世界に一人だけになってしまった孤独に、そっと寄り添ってくれたのは彼だけだった。
「まぁ、いつも食事や生活習慣を逐一指摘してくるし、お店の鏡コーナーに行っただけで「浮気しないで」って拗ねるような面倒くさい人だとは思わなかったけどね。」
『あら?可愛い嫉妬じゃないの。アンタにそんなふうにやきもち妬くのなんてアタシくらいなんだから、感謝しなさい。』
「…強気すぎない?」
凛の声に鏡の中で何かが笑った気がした。
『アンタはね…本当に不器用で…でも、一生懸命で強がりで…優しいわ。…そんなアンタだから…私は救われた。』
「…ミラといると…本当の自分の事を見られるのが怖くないって思えるんだよ。」
『それは…アタシを信じてくれているから?』
「それもあるけど…。」
凛は一瞬迷ったが、続けた。
「見てほしいと思ったのはミラが初めてだよ…。」
ミラは沈黙した。鏡の奥の光が揺れる。
『…それ、反則だろ。』
初めておネエ言葉じゃないミラの低い声に一瞬胸が高鳴る。それでも、今の雰囲気を壊したくなくて凛は照れたように笑って話を続けた。
「ミラが…私を見てくれるの、好きだよ。怒ってても、心配してても、嬉しそうでも……鏡越しでも、全部わかるし。」
ミラは微かに囁く。
『…アタシもよ。凛の表情、声、仕草…鏡という檻に閉じ込められてから、初めて〝見ていたい”と想えたのがアンタだった。』
凛は胸に手を当てた。込み上げてくる想いが胸にいっぱいで苦しい。
「ミラ…毎日ミラの声を聞きたい。…触れたい…。」
ミラは一瞬、言葉に詰まりながら、凛を抱きしめるように声を寄せた。
『凛…アタシ、アンタの隣に立ちたい。本当は鏡から出て触れたい…抱きしめたい…それだけ…アタシは…ッ!』
凛は鏡にそっと額を触れさせた。
「ねぇ、ミラ。あなたは鏡の中にいるのに、見えないはずなのに…泣いているように感じるよ。」
『…泣いてないわよ。鏡は濡れないんだから。』
少し声が湿っぽい気がしたが、そこはあえて触れずに凛は両手を鏡に置いた。
「じゃあ、私が代わりに泣くね。」
凛の涙が鏡にポタリと落ちた。それを見ていたミラの声が震える。
『馬鹿…あんた、優しすぎるでしょ…。』
「…ミラ…あなたの記憶が戻ったなら、あなたを探しに行きたい。髪はどんな色で、どんな目をしているのか、どんなふうに笑うのか…ミラをたくさん知りたい。」
ミラは自分の過去を少しずつ思い出しつつある。鏡に入ってしまった理由はわからないが今回の事件がミラが鏡に入ってしまった事と関係しているのなら…凛はそう思い言葉を続ける。
「…ずっと…そばにいてね。」
その瞬間、ほんの一瞬だけ凛は頬に柔らかく温かい温もりを感じた。幻かもしれない。吊り橋効果とか希望的観測の類かもしれない…けど…。
『…いるわ。…アンタの傍にずっと…アタシはいるわよ。』
その優しい声と共に確かに凛には確かに触れた気がした。




