1.鏡の声
ここは巨大都市「東亜市」。ラウンドマークタワーを囲うようにビルが立ち並び、夜中でもネオンが輝く眠らないここは犯罪やスキャンダルが絶えない。一方で中心地から少し離れれば、古いアパートや商店街が残る下町エリアがあり一部の富裕層を除いた多くの市民が暮らしていた。
真宮凛が寝起きのまま洗面台に立つと、鏡の中から唐突に男の声が響いた。
『アンタさぁ、寝癖がひどいったらありゃしないわよ。探偵を名乗る前に、その頭どうにかしなさい!』
「…おはよ…ミラ。…朝からうるさいってば…。」
凛は鏡の声に軽く返すと、バシャバシャと乱暴に顔を洗って、洗面台の取っ手にかけたタオルで顔を拭いた。そのあとは化粧水を叩き込んで気合を入れて、ガシガシと歯を磨く。
『ねぇ、ちょっと!歯磨き粉が飛んでる。あぁ、またそんな乱暴にして…。』
鏡から飛んでくる小言を完全に無視して凛はガラガラと口をゆすいで、髪の毛を濡らしたタオルで押さえた。
彼女の生活は、誰にも信じてもらえない『鏡との会話』から始まるのが常だった。
最寄り駅から徒歩20分、築数十年の1DKのボロいこのアパートのどこにでもあるような建付けの洗面台。有名メーカーのロゴなどとうの昔に消え去ってしまった年季を感じさせるそれは両サイドに物置を構えたシャワー付きのシンプルなものだった。
引っ越した当日、何気なく鏡を拭こうとしたら急に声が聞こえて「ぎゃぁぁぁぁ!」と叫び声をあげた凛に、負けじと『アンタの叫び声のほうがよっぽど怖いわよっ!』と鏡こと【ミラ】が叫んだ時から二人の奇妙な関係は始まった。
それ以降、リンは仕事の愚痴や日々の不満などをミラに語るようになり、ミラもそれを真摯に受け入れ、時折アドバイスなどをしながら生活力が皆無な凛を口うるさく世話している。
コーヒーメーカーのスイッチを入れれば細く立ち上がった湯気が狭い部屋にコーヒーの香りを運んでくる。テレビをつけてソファに座れば、手元に置いたスマホの暗い画面からミラの小言がとんだ。
「ちょっと、朝食は食べないつもり?一日の始まりの食事は大切なのよ!?」
「はいはい…適当に食べるよ。」
「また、そんなこと言って。アンタの冷蔵庫に食べられる物なんてないでしょうよ?」
「残念、バナナがあるもんね。」
凛はそう言って立ち上がるとコーヒーメーカーからカップにコーヒーを淹れる。そして電子レンジの上にあったキリン模様のバナナとカップをもって再びソファに座った。一口飲んでからリモコンでチャンネルを変えればちょうど朝のニュースが流れてきた。
『次のニュースです。東亜市に住む人気インフルエンサーのタカミんこと、高見優菜さんが今朝未明自宅マンションで遺体となって発見されました。警察の捜査によると遺体に不審な点は無く、自殺ではないかと推測されるとのことです。』
淡々と告げるアナウンサーの横に亡くなった女性と思われる顔写真が映し出される。加工アプリをふんだんに使用したと思われるその顔は不自然なほど目が大きかった。
「嫌なニュースね。」
『そうね。東亜市ってここじゃないの。』
「ここは本当にいろんな事件が起こるからね。まぁ、だから仕事に困らないってのもあるんだけど。」
『ちょっと、アンタその言い方は不謹慎よ。』
「はいはい。」
凛の仕事はフリーの調査員兼便利屋だ。警察に頼れない人からの依頼を受けたり、逆に警察からの依頼で調査協力もしている。凛は昔から観察力と洞察力に優れ、他人の癖や心の動きを読むのが得意だった。刑事だった父親の影響も大きいと思うが、その力を存分に生かしこれまで多くの依頼をこなしている。ただ、すべてが彼女の力で解決できたわけではない。ミラは鏡のせいか人の表情から心の揺れを読む『臨床的洞察』に優れていて凛を的確にサポートしていた。
朝食を終えてカップを流しに運んでいると、ソファの上のスマホが震えた。表示されたのは見覚えのない番号だった。
『依頼かしら?』
洗面台の鏡からミラが尋ねる。凛は何かを感じて頷くと静かに電話に出たのだった。
「娘が…死んだの。自殺だ…って、警察は___でも、あの子はそんなことするような子じゃないんですッ!」
昼下がりのカフェ。主婦や若いカップルがお茶を楽しむ店内に嗚咽の混ざった女性の声が小さく響いた。
朝の電話はミラの予想通り仕事の依頼だった。凛はとりあえず依頼人と直接会って話を聞いてからミラと相談して依頼を受けるかどうか判断している。対面での会話は凛の中で依頼を受けるための絶対的な条件で、自分がその人の顔を見て話を聞いてどう感じるかを大切にしていた。そして、それが意外なところから事件の解決の糸口になることもあるからだ。
電話をしてきたのは高見冴子。奇しくも今朝偶然ニュースで見た自殺したインフルエンサーの母親だった。テーブルに置かれたコーヒーに手を付けることもなく、肩を落として細かく震えている初老に近い女性を見ながら、凛はスマホに触れた。
「どう思う?」
『どうって…今の段階では何も言えないわ。でも、こうも泣かれちゃうとね…。』
ミラの本体は洗面台の鏡だが、ミラの声は凛が触れた反面から聞こえる。例えば、公園の水たまりや窓ガラス、電車の窓、スマホの画面(オフの時の暗い反射)、金属の光沢面など
【凛の視界に反射が入り、凛が触れたもの】が媒体になる。つまり、ミラは鏡に縛られてはいるが反射する面全てと共鳴できるのだった。もちろんミラの声は凛にしか聞こえない。
「あの、高見さん。娘さんが自殺ではないと思う理由をお伺いしてもよろしいですか?」
凛はボブに切りそろえられた髪を耳にかけながら、刺激しないように努めて優しい声で問いかけた。
「あの子、今度私に恋人を紹介してくれるって…。初めてこれから先もずっと一緒にいたいと思えるくらい本気で好きになった…素敵な人、だって…。」
「恋人…?」
「ええ、結婚も考えているって…。あんなに幸せそうに笑っていたのに、なのに…自殺なんて…。」
また肩を震わせ始めた冴子に凛は小さくため息をこぼした。
『恋人と別れたから自殺。そう考えるのが一番まともよね。』
「うん。でも…なんか引っかかるんだよね。」
『凛?アンタまさかほだされてんじゃないでしょうね?』
「ないよ。ただ、なんていうか…この人がどうこうじゃなくて…この事件調べてみたほうがいい気がする。」
ミラに小声で返していた凛は小さく息を吐いた。
「高見さん、この依頼お受けします。」
「!本当ですか!!」
「ただし、どんな結果になろうともそれを受け入れてくださいね。それがこの依頼をお受けする条件です。」
凛は強く言い切ってまっすぐに涙にぬれた冴子の顔を見た。自分が調べたところで結果は変わらないかもしれない。それでも、きちんと受け入れることができるのか。それをちゃんと確かめておきたかった。凛も家族を失う痛みを知っているから。
瞬くに沈黙の後、凛の顔を見てゆっくりと頷いた。
『まったく…あんたって人は…。』カップのソーサーに置かれたスプーンからミラの声が聞こえたが凛はそれに答えることなく、冴子との話を続けた。
現場となったマンションは、東亜市の中心部でも治安のいいことで知られた地区にあった。
エントランスに報道陣の姿は無く、すでに警察が締めだした後らしい。凛はマンションに入る前に、ポケットの中のスマホを軽くたたいた。
「ミラ、現場付いたよ。」
『ええ、こっちは全く現場が見えないけど実況よろしくね。』
「はいはい。」
ミラにはいくつかの制約がある。その一つは完全な暗闇では声が届かないのだ。光の反射がなければミラは存在できない。その為、ポケットなど光が弱くなる場所ではミラは外の様子が全く見えなくなってしまうのだった。
凛は深呼吸をしてエレベーターに乗り込んだ。8階のドアが開くとすぐに見慣れた背中を見つけた。
五十嵐慎吾。東亜警察署刑事課第一係の警部補だ。濃い眉と鋭い目つき。東亜署のやり手と言われているが、凛とは犬猿の仲だった。五十嵐が振り返った瞬間、彼の太い眉が引きつる。
「…またお前か。」
心底いやそうに落とされた言葉に凛は負けじと笑みを作った。
「あら、久しぶり。朝から渋い顔してるじゃん。」
「なぜ、ここに来た?部外者は立ち入り禁止だぞ。」
「依頼を受けたの。依頼人は被害者の母親。もちろん合鍵ももらってる。」
「…だとしても、お前の出る幕じゃない。」
五十嵐は大きくため息をつく。
「遺族感情に漬け込んで金稼ぎか?」
その言葉に凛の表情から笑みが消えた。
「その言い方、やめて。」
エレベータの入り口窓からミラの声が聞こえる。
『あら、いやだ。またあの偏屈男ね?凛、あっちの方が金に汚そうじゃない?あの顔だし。』
「ちょっ、やめてミラ。声がでかい。」
『アンタ以外聞こえてないから安心しなさいっての』
五十嵐は困惑したような顔でリンを覗き込んだ。凛が独り言を言ったように見えたのだろう。その表情は、哀れみとも心配ともとれる。
「…大丈夫か、お前。」
「大丈夫じゃなかったら、とっくに病院に行ってる。」
その答えに五十嵐は小さく舌打ちし、凛を無視するように部屋に向かった。しかし、扉の前で立ち止まり、低い声で鋭くリンを睨みつけて言う。
「入るな。とは言わん。だが勝手な行動はするな。今回の現場は…普通じゃない。」
「普通じゃない?」
五十嵐は静かにとびらを開けた。




