第二十九話 涙の跡
――話は、約一ヶ月前に遡る。
あの時、紫苑は琉韻loveからの異常な圧力と執拗なメッセージに追い詰められていた。
名前を見ればわかる。紫苑が心の底から嫌っている、姉・篝火琉韻のファン。
今やトップアイドルグループ〈ヤケ酒45〉のセンター。国民的アイドルとして、光そのものの存在。
ーー紫苑には誰にも言えない過去がある。
父の顔を、紫苑は一度も知らない。
母がかろうじて口にしたのは、
「……あの人は、テレビの向こう側の人よ。名前を言ったら、死んじゃうの」
曖昧で、現実味のない言葉。
ただひとつ確かなのは、父は芸能界の人間だということだった。
母は不安定だった。
まともな食事がある日のほうが少なかった。
夜になると、冷たい蛍光灯の下で、小さな白い袋が並ぶ。母はそれを弄びながら、震える声で笑った。
「大丈夫よ紫苑。これがあれば全部忘れられるの」
忘れたいのは、きっと現実だった。
やがて母は倒れた。テーブルには薬物の空袋と、処方箋の切れ端。
ニュースになることはなかった。
父が金で全部を消したからだ。
調査も報道もなかった。残されたのは、ひとりぼっちの紫苑だけ。
身元引受人はひとり――
腹違いの姉、篝火琉韻。
国民的アイドル。
笑顔で光に包まれる「完璧な存在」。
だが紫苑の目に映る琉韻は、檻だった。
「あなたは、私の足を引っ張らないで」
引き取られて最初に言われた言葉が、それだった。
本来の紫苑の名字は 三谷だった。しかし、琉韻の事務所が手続きを進めたことで戸籍の「身元引受人」の欄が書き換えられ、篝火紫苑となった。
アイドルの妹として「都合のいい家族」へ、組み込まれた。
紫苑の人生は、光を浴びる姉の影の中で始まった。
紫苑は深く息を吸った。
机に置いたスマホはまだ熱を帯びている。
星音とのやり取りが終わっても、胸の奥では何も終わっていなかった。
(……明日、全部終わる)
モニターには、ギルド〈フローライト〉のディスコ。スマホには星音からのDM。
(逃げられない……)
【Gemini】「マジでオニッシュのおかげ」
【ゆず】「オニッシュさんの攻撃力は半端ない」
【スカイ】「オニッシュさんがいて、助かったよ」
胸が熱くなった。……一人だった頃を思い出す。
最初に声をかけてくれたのはスカイだった。
(スカイがいたから、みんなと仲間になれた)
紫苑は文字を打つ。
【オニッシュ】「少し、話があります」
一瞬で空気が変わった。
【ココア】「どうしたの?」
【White】「深刻そうな声だな」
【むー】「なんかあった?」
(本当の理由は言えない。脅されてるなんて)
【オニッシュ】「今日でフローライトを抜けます」
少しの沈黙が走った。
【スカイ】「……え?」
【ゆず】「冗談だよね?」
【Gemini】「理由は?」
【ハルト】「納得できないぞ」
【烈火】「本気なのか?」
【オニッシュ】「理由は言えない。ごめんなさい」
沈黙。
そして、Whiteの落ち着いた声。
【White】「そうか……理由を言わなくても責めない。またいつでも来い」
涙がこぼれた。
【ゆず】「待ってる」
【Gemini】「席は空けておくから」
【ハルト】「また一緒に笑おうぜ」
【タイガー】「これは休暇だと思っとけ」
そして――
【スカイ】「オニッシュさん……あの時、あなたが来てくれて本当に嬉しかった!ありがとう、またいつか!」
【オニッシュ】「みんな、ありがとう」
紫苑は脱退のボタンを押した。
ウィンドウが灰色になる。
温かかった居場所が、無音のまま閉じた。
(……終わった)
紫苑は椅子から崩れ落ちる。
「っ……う……ぁ……」
嗚咽が漏れた。
「嫌だ……戻りたい……みんなと、いたかった……!」
――玄関の鍵が開く音がした。
ガチャ。
「ただいまー。あんた起きてる? 配信準備できてる?」
紫苑は顔を上げた。
そこに、姉・篝火琉韻が立っていた。
「何その顔。……またゲームで泣いてんの? きも」
腕を掴まれ、無理矢理立たされる。
「何泣いてんのよ、キモいな。ほら早く、篝火紫苑としての仕事をしなさい」
優しさの欠片もない声だった。
紫苑の涙は止まらない。
でも、拒否する権利はなかった。
琉韻はネットで適当に調べて話す。
「なんか奈落とかってとこ話題らしいじゃん。そこクリアしてよ。あんたゲームだけは上手いし」
そして琉韻が見張る中、配信が始まる。
琉韻は紫苑の背後に腕を組んで立ち、スマホで配信アプリを開く。
「ほら。サムネ写ってる。笑って」
笑えない。
紫苑の指は震えたままだ。
画面には配信開始の赤いボタン。
(やりたくない……もう無理だ……)
だけど、押さないという選択肢は、なかった。
琉韻の手が紫苑の肩に置かれる。
冷たい指先が、逃げ場を塞ぐ。
「押して。紫苑」
心臓が跳ねた。
(たすけて……誰か)
紫苑は画面をタップした。
配信開始。
チャット欄が一気に流れ始める。
《きた!琉韻ちゃんの妹!?》
《奈落チャレンジするってマジ?》
紫苑は呼吸が浅くなる。
「挨拶は?」
琉韻の囁きは、命令だった。
紫苑は顔を上げる。
涙の跡が残るまま、必死に笑顔を作る。
「……こんばんは。篝火紫苑です」
《暗w》
《笑えよ》
《コイツ、姉とは大違いじゃんw》
心がえぐられるコメントが飛ぶ。
琉韻はそれを見て、満足そうに頷く。
「そう、その調子。その顔のまま、奈落をクリアしてよね。数字、稼いで?」
紫苑の手は、キーボードの上で力なく震えている。
逃げられない。
もう、自分の名前すら、自分のものじゃない。
(……誰か、助けて)
だが音もなく、紫苑の願いは虚空に消える。
モニターの光だけが、涙の跡を照らしていた。




