第十三話 親友以上
――約七年前。
高校に入学して間もない春、
紗月は廊下の隅で、ひとり静かに本を読んでいる少女を見つけた。
雨宮玲。
物静かで、誰とも群れない。
けれど、教室のざわめきの中で、彼女だけが穏やかな空気をまとっていた。
その落ち着きに、紗月はなぜか惹かれた。
体育で走ればクラスが沸き、笑えば誰かに好かれ、けれどどこか虚しさが残る。
そんな自分とは、まるで対極にいる存在だったから。
「ねえ、玲ってさ、いつも一人だけど、寂しくないの?」
初めて話しかけた日のことを、今でも覚えている。
玲は少し驚いたように顔を上げ、けれどすぐに柔らかく笑った。
「寂しくないよ。……でも、話しかけてくれて嬉しい」
その瞬間、紗月の中で何かが静かに弾けた。
――あ、この子だ。
この人となら、ちゃんと笑えるかもしれない。
それから、二人は一緒に過ごすようになった。
昼休み、帰り道、放課後のコンビニ。
玲の静かな笑顔と、紗月の明るさが、不思議な調和をつくっていった。
いつしか、玲は紗月にとって特別になっていた。
彼女が笑えば一日が輝き、他の誰かと話していると胸が痛む。
この気持ちは何だろう?
けれど、名前をつけるのが怖かった。
紗月は美人だった。
何度か告白されたこともある。
でも、そのたびに断った。
どんな言葉も、玲のひとつの微笑みには勝てなかった。
高校を卒業し、それぞれの道を歩むことになった。
紗月はディーラーの事務職、玲はお菓子工場の勤務。
現実の時間は、二人を少しずつ遠ざけていった。
それでも、紗月は時折、玲のことを思い出した。
「あの子、今も笑ってるかな」と。
やがて、ある日。紗月はふと思いついた。
もう一度、玲と何かを一緒にしたい、と。
現実では叶わない時間を、別の場所でなら取り戻せる気がした。それが、オンラインゲーム《サンドボックスウォーズ》との出会いだった。
「ねえ、玲。これ、一緒にやってみない?」
そう送ったメッセージに、玲はすぐ「いいよ」と返してくれた。
ただそれだけで、胸の奥が熱くなった。
再び繋がれた気がして。
ゲームの中では、二人は息の合ったコンビになった。
紗月は剣士として、玲は魔導士として。
戦場を駆け抜け、勝利を重ね、笑い合う。
まるで、あの高校の日々が続いているかのようだった。
いや、あの頃よりも強く、近くに感じられた。
現実の距離は関係ない。
画面の向こうに、玲がいる。
それだけで、十分だった。
だから、紗月は迷わなかった。
《ダークキング》を抜けると決めたときも、
玲が自分の後を追ってくることを、疑いもしなかった。
信じていた。いや、確信していた。
だってこの世界は、玲と自分のためのものだから。
あの日、教室の隅で交わした「嬉しい」の一言が、
今も、紗月の中で生きているのだから。
そして、玲は本当に追いかけてきてくれた。
どんな状況でも、迷わず、誰よりも早く。
まるで、紗月が踏み出す瞬間を待っていたかのように。
やっぱり、玲しかいない。
そう思えた時、紗月の胸の奥で、止まっていた時間が再び動き出した。
そして夜。
紗月と玲は、いつものようにログインし、ランク戦の開始を待ちながら探索で時間を潰していた。
チャットは穏やかで、時おり聞こえるモンスターの撃破音だけが夜の静けさを彩っている。
そして、時計が午後九時を指す。
《個人ランク戦》の開幕だ。
連敗だけは避けたい。
そう思っていた椿の前に、マッチングされた相手の名が浮かぶ。
【対戦相手:31サーバー 「21位」サザン】
その名を見た瞬間、椿の胸に小さな緊張が走った。
同格、いや、ほとんど互角。
油断すれば、簡単に崩される。
そう、ゲームはいつだって実力だけでは決まらない。
椿は深く息を吸い、剣を握り直した。
マッチ開始の合図とともに、闘技場の砂地が風を巻き上げた。
夜の闇を思わせるフィールドに、ふたつの影が向かい合う。
椿の手には、一振りの刀。
対するサザンは、軽装の黒衣。両手に短剣を構え、足元はまるで風そのもののように軽い。
「盗賊タイプか……厄介だな」
椿は息を潜める。初動で斬り込めば、確実にかわされる。
ならば、相手の動きを見切るしかない。
次の瞬間、サザンの姿がふっと消えた。
背後に気配。即座に振り返り、刃を走らせる。
だが、空を切る。
見えたと思えばもう消える。
サザンの足運びは異常だった。
「速すぎ……!」
椿は距離を詰めようとするが、手応えがない。
かすめる短剣の一撃がHPをじわじわと削っていく。
焦りが指先を固くする。呼吸が乱れる。
――落ち着け。呼吸を合わせろ。
心でそう呟き、椿は一瞬の間を置いた。
刀を下段に構え、サザンの動線を読む。
相手が背後を取ろうと回り込む軌道。そこに、全力の踏み込みを合わせる。
【椿】「斬空波!」
鋭い一閃が走る。
サザンがバックステップをするが、この斬撃は飛ぶ。
【サザン】「見事…!」
サザンの動きが一瞬止まり、HPバーが大きく削れる。
「よし!」
だがその瞬間、サザンは距離を取り、煙幕を展開。
視界が白く染まる。
霧の中から短剣が飛ぶ。
避けきれない。
HPがゼロになり、椿の身体が光の粒となって崩れた。
敗北。
「……また負けた、か」
深呼吸しても、胸の奥のざらつきは消えない。
指先が汗ばんでいた。
連敗。
同時に、ギルドチャットが点滅する。
【Rain】「ランク戦、連勝!椿、どうだった?」
【椿】「うん、負けた。相手、速すぎて手が出なかった」
【Rain】「そっか。でも大丈夫、次は勝てるよ」
慰めの言葉。
その優しさが、胸に刺さる。
Rainは上へ、遠くへ、手を伸ばしても、もう届かない場所に行ってしまうような気がした。
椿は無言でメニュー画面を開いた。
煌めくアイテム一覧の先に、課金ショップのアイコン。
指が、自然とそこへ伸びる。
「……もう、負けたくない」
その呟きとともに、決済ボタンを押す音が響いた。




