第十二話 現実の仕事もさばく
火曜日、午前九時。
オフィスのドアを開けると、香ばしいコーヒーとコピー用紙の匂いが混ざり合う。
藤村紗月は軽くため息をついてから、デスクに鞄を置いた。
「おはようございまーす!」
明るい声の後輩・美月が元気に挨拶する。
紗月は微笑んで返す。
「おはよう、美月。朝から元気ね」
「はいっ!でも課長、今日も朝から“全台キャンペーン”やるって言ってましたよ」
「……また、ですか」
嫌な予感がした。
営業課長・大林は、契約数さえ増えればどんな無茶も押し通すタイプ。車検すら工場の都合を聞かずに捩じ込んでくるため、他の営業マンが被害を被る。
昨日も在庫ゼロの車種を「すぐ納車できます!」と豪語して、紗月が夜遅くまでメーカーに調整を頼んだばかりだ。
毎月10台以上契約を取るため、本社からの評価は高いが、店舗では生きる厄災と言われている。
風の剣士、現実では書類の嵐を斬る。
椅子に腰を下ろすと同時に、電話が鳴った。
相手は早速、例の課長だった。
「紗月くん、例の件、今週中に三台増やしといて!」
「三台ですか? 今月の配車スケジュールだと、最短で来週以降になりますが」
「なんとかして!奇跡の調整力があるって、みんな言ってるじゃない?」
「それ、褒めてるつもりですか?」
「ははっ、頼りにしてるよ~!」
通話が切れる。
紗月は静かに頭を押さえた。
(奇跡か……。私、神様じゃないんですけど)
だが、文句を言いながらも手は止まらない。
端末で在庫データを確認し、他店舗との調整メールを送る。
その手際は、まるで剣技のように滑らかだった。
「紗月さん、これ、昨日のキャンペーン分の契約書です!」
「ありがとう、美月。……あ、ここ署名欄、印鑑が抜けてる。後で営業さんに確認しておいて」
「は、はいっ!」
冷静で、正確。
社内では「うちの守護神」などと呼ばれているが、本人は苦笑いするばかりだ。
昼休み。
食堂の窓際の席で、サンドイッチを片手にスマホを開く。
通知には、玲からのメッセージ。
「おつかれ。今日のログイン、夜8時に合わせるね」
その一文に、わずかに口元が緩む。
(嵐の前に、現実の嵐を乗り切らないとね)
「紗月さーん!すみません、課長が“即納OK”って言っちゃったお客様、もう来店されました!」
「……了解。今行きます」
サンドイッチを一口で飲み込み、立ち上がる。
冷静な眼差しが、すでに仕事の戦場へと戻っていた。
午後のショールーム。
笑顔を絶やさず、トラブルを一つひとつ捌いていく紗月。
その姿はまるで、現実の剣士。
「納期が早いって聞いたんだけど?」
「はい。正式には9月上旬の予定ですが、社内在庫の再調整で、少しでも早められるよう進めています」
「なるほど、じゃあそれで頼むよ」
「かしこまりました。ありがとうございます」
笑顔で頭を下げると、背後から大林がひょっこり顔を出す。
小声で、「助かった~」と呟く課長に、紗月は小さくため息。
「……次は、風任せじゃなく、スケジュールで戦ってくださいね」
夕方、仕事を終えてオフィスを出るころには、空は橙に染まっていた。
車の音とネオンが混じる帰り道、紗月はため息をひとつ吐く。
疲労よりも先に、頭の中に浮かぶのは、あの課長の顔だった。
夜。
シャワーを浴びて髪を乾かしながら、スマホを手に取る。
玲からの通知が届いていた。
「もうすぐインする?」
「うん、あと五分。……その前に、愚痴ってもいい?」
「どうぞw」
「うちの課長マジでないわ。今日も在庫ゼロ車を“即納OK”って言い切ってさ。結局こっちが全部調整。あれで賞与査定Aとか、ほんと意味わからない」
すぐに既読がつき、返信が返ってくる。
「その課長、給料たぶん紗月の倍あるよ」
「やめて。その事実が一番刺さる。玲の勤めてる工場行こうかな」
「給料、今の紗月の7割くらいになると思うよ」
「それは困るな」
「社会って理不尽ゲーだよねぇ」
「ほんとそれ。努力値、どこに振れば報われるんだろ」
「風属性にはバランス型が多いらしい」
「うるさい。うまいこと言ったつもり?」
「ちょっとだけw」
笑ってしまう。
現実の鬱憤が、ほんの少しだけ風に流れていくような気がした。
「……よし。愚痴終わり。今からインする。むしゃくしゃするからガチャで気分晴らす!」
画面の光が部屋を照らす。
現実の疲れを引きずったまま、それでもまた剣を取る。サーバーの向こうで、風と水が再び出会う。
【Rain】「なんかいいアイテムでた?」
【椿】「何にも。私が天才だからって現実もゲームも試練与えすぎ」
【Rain】「w」
現実がたとえどんな理不尽な世界でも。
玲がいてくれれば、それだけでいい。
それだけで、幸せ。
それだけで、私は頑張れる。




