第三話 越えた一線
オニッシュからの返信が届いたのは、十数分後だった。
画面の光の中、短く打たれた文字が浮かぶ。
【オニッシュ】「僕が紫苑という確信はないだろ。バラしてどうする」
星音はその一文を何度も読み返した。
指先がわずかに震え、唇の端が上がる。
(……やっぱり、紫苑ちゃんなんだ)
否定しながらも、言葉の端々ににじむ焦り。
それで十分だった。
星音はゆっくりとキーボードに指を置いた。
【琉韻love】「確信なんてどうでもいい。ただ、私は知ってる。それだけで十分でしょ?」
小さく呼吸を整えて、さらに打ち込む。
【琉韻love】「フローライトを抜けて、バッタに来て。来なきゃ、私が気づいた人として広める。アーカイブの時間、コメント、ログインの癖。繋げれば、誰にでも分かるようになるよ」
しばらく沈黙。
画面の向こうで、何かが止まったように感じる。
やがて、短い返信が届いた。
【オニッシュ】「お願いです。フローライトのみんなが大好きなんです。僕がいなくなったら、迷惑をかける。見逃してもらえませんか?」
星音は無言でそれを見つめた。
お願いですの文字列が、妙に軽く見えた。
眉をひとつ動かし、再び指を走らせる。
【琉韻love】「だめ。あの人たちが好きでも、私の好きとは関係ない。これは、あんたと私の話。逃げようとするなら、全部晒すだけ」
返事が来ない。
沈黙の数十秒が、妙に甘く感じられる。
やがて、再び文字が現れた。
【オニッシュ】「……わかりました。斬々抜断に行きます。でも、もう二度とこの話を持ち出さないでください。」
星音は、ふっと息を漏らした。
その吐息は、笑いにも、ため息にも聞こえない。
ただ淡々と、決着を受け止めるように。
【琉韻love】「約束できるなら、それでいい。あんたが来たら、全部終わる。ちゃんと話しようね。」
送信。
モニターに反射した自分の瞳は、氷のように澄んでいた。勝った、という実感もない。
ただ静かに、星音の中で何かが確かに完成していた。
チャットの画面に、再び文字が浮かぶ。
【オニッシュ】「……わかった。
でも、今日だけ待ってほしい。
フローライトのみんなに、きちんと別れを言いたいんだ。」
星音は数秒間、モニターを見つめていた。
胸の奥に、ほんのわずかなざらつきが生まれる。
それは罪悪感ではなく、むしろ小さな違和感――
“まだ、向こうの世界を捨てきれていないの?”という苛立ち。
【琉韻love】「……いいよ。
でも、約束は守って。
明日になったら、必ず来てね。」
【オニッシュ】「ありがとう。
明日、必ず。」
チャットが閉じられる。
夜の部屋に、パソコンのファンの音だけが残った。
星音は画面を見つめながら、小さく笑った。
それは勝利でも満足でもなく、
ただ「自分の望む形に世界が動き始めた」という確信の笑み。
翌日、午後八時。
《サンドボックスウォーズ》32サーバーの全体チャットがざわめきに包まれた。
【そる】「え、オニッシュ抜けたってマジ?」
【すなっち】「フローライトのエースじゃん……」
【ジェイ】「中央金どうすんの!?」
【シン】「どこ行った?」
【らいおん】「キリキリバッタに移籍らしい」
その知らせは、瞬く間にサーバー全域へ拡散していった。
中央を制していた上位ギルド《フローライト》
そこから、誰もが認める絶対的エースが抜けた。
沈黙を貫くフローライト内部。
トップクラスの戦力を求めて入った、5人のメンバーのうち、二人も後を追うようにギルドを離れた。
それでも古株の絆はもちろん、新参のリデル、烈火、マルロの3人は残った。
一度のレイドで、誰もが気づいていた。
フローライトは、ただの強さでは測れない。
そしてその価値に、誰よりも早く気づいていたのがオニッシュだった。
【マルメン】「おい、見ろ!スーパーウルトラ新人から申請きてたぞ!!」
【シャイン】「は?オニッシュ!?マジで?バッタのタグついてんだけど!」
【たっちゃんパパ】「え、移籍って本当だったのか!」
【リオン】「うわー、これは激アツ展開www」
【ノイス】「うちのギルド、次元変わるぞw」
コメントの流れは止まらなかった。
驚き、興奮、好奇心が入り混じり、チャット欄が一瞬で光の滝になる。
画面の片隅、ギルド一覧に新しい名前が加わっていた。
《オニッシュ》
星音はその名前を見つめた。
何度も、何度も。
指先が机の上で静かに動く。
【琉韻love】「ようこそ、バッタへ」
一行だけ。
その文字はあっさりと流れ、やがてチャットの波に飲み込まれていった。
誰も気づかない。そのようこそに、どんな意味が込められているのかを。
モニターに映るオニッシュの名前は、さっきから動かない。
たぶん、フローライトの仲間に最後の言葉を伝え終えたばかりなのだろう。
その静けさを、星音はゆっくりと味わうように見つめた。
(……ちゃんと来てくれたね)
心の奥で、何かが静かに満ちていく。
安心と支配が混ざった、不思議な感情。
勝ったとか、奪ったとか、そんな言葉では表せない。
ただ、これでようやく、自分の描いた世界が動き始めた、という実感だけが残った。
画面の向こうでは、誰もがオニッシュの加入を喜び、歓迎の言葉を打ち込んでいる。
誰も知らない。
彼が本当は誰なのかを。
そして、彼をここまで導いたのが、画面の向こうの彼女であることを。
星音はそっとモニターの明かりに照らされながら、微笑んだ。
チャット欄にはまだ“おかえり”“よろしく!”の文字が流れ続けている。
その喧騒の中心に、星音だけがひとり、静かに満たされていた。
ーーー 第一章 琉韻loveの物語 完 ーーー




