プロローグ とある課金者の物語
クレジットカードの請求書を、琉韻は普段ほとんど見ない。
マネージャーが管理してくれるし、支払いは口座引き落とし。
だからこそ、その夜の琉韻が珍しく封筒を開けたのは、ほんの気まぐれだった。
「……なに、これ」
整った眉がわずかに動く。
そこには、見慣れない明細の羅列。
“オンライン決済”
“SBW公式ショップ”
“追加コインパック×3”
合計金額、七万八千円。
先月と合わせて、約十六万円。
「……は?」
リビングに、紙を叩く乾いた音が響いた。
その頃、紫苑は自室で静かにログアウトしたばかりだった。
ギルドの仲間と笑い合った後の余韻に、まだ心が温かかった。
けれど、その温もりは一瞬で凍りつく。
「紫苑!!」
琉韻の怒鳴り声。
まるで爆発のような衝撃に、紫苑の心臓が跳ね上がった。
足音。ドアが乱暴に開かれる音。
「この請求、なに?あんたでしょ!?オンラインゲームって書いてあるじゃない!!」
「……ごめんなさい……」
「ごめんじゃ済まないの!七万よ!?先月も!!子どもが何考えてんのよ!!」
琉韻の怒声が、壁を揺らした。
紫苑は何も言えない。
あのゲームでしか、自分は存在できなかった。
“誰か”として見てくれる仲間がいる、唯一の場所だった。
けれど、そんな言葉を口にすれば、もっと壊れてしまう。
「返してもらうから。いいわね?」
「……でも、わたし、まだ――」
「“大人になったら”なんて、甘えないの!!」
琉韻は紫苑の肩をつかみ、強く揺さぶった。
その目は、テレビで見せる輝きとはまるで違う。
光を失った鏡のように、どこか濁っていた。
「アンタ、私の妹でしょ!? だったら私みたいに稼げばいいのよ!!」
「……え……」
「顔だって悪くないんだから。アイドルでも、配信者でも、なんでもできるじゃない!! やるのよ、紫苑!! その分、全部返しなさい!!」
息が詰まる。
紫苑はただ、うなずくしかなかった。
――その日を境に、彼女の「現実」は少しずつ歪み始めた。
翌週。
琉韻のマネージャーが用意した撮影用のリングライトとスマートフォンが、紫苑の部屋に置かれていた。
机の上に添えられた、姉の走り書き。
「まずはゲーム配信からね。ちょうどアンタがやってんの、今人気のやつみたいだし。顔は出さなくていいけど、声は明るく。泣いたり暗いのは禁止」
紫苑は、冷たいライトの前で息を吸った。
初めて配信開始のボタンを押した瞬間、彼女は二つ目の「檻」に閉じ込められたのだった。
リングライトの白い輪が、紫苑の頬を照らしていた。
それはまるで、無機質な月のように冷たい。
画面の中に映る自分を見つめながら、彼女は震える指で“配信開始”のボタンを押した。
初めての生配信。
顔を出さなくてもいい
そう言われていたのに。
ドアが静かに開いた。
琉韻が入ってくる。
ステージで見せる笑顔のまま、紫苑の背後に立った。
「ちょっと、カメラ、上げなきゃ。これじゃ顔が見えないでしょ」
「え……? だ、だめだよ、お姉ちゃん……」
「なにがダメなの? せっかく可愛いのに。視聴者が見たいのは、あなたの顔よ、紫苑」
その瞬間、画面が切り替わる。
ライトの下、紫苑の顔がはっきりと映し出された。
生気の薄い瞳。柔らかく整った髪。
そして、画面の端には琉韻の完璧な笑顔。
「みんな~こんばんは!」
琉韻が明るい声で言った。
「実は今日は特別ゲストを連れてきたの。私の妹、紫苑です!」
コメント欄が、爆発したように流れ出す。
「え!? ガチ妹!?」
「似てる! 超かわいい!」
「この姉妹最強じゃん!」
「琉韻様、家族配信とか神すぎ!」
琉韻はその反応を見て、さらに笑みを深める。
「ね、可愛いでしょ? でもちょっと人見知りだから、みんな優しくしてね~」
紫苑の喉は乾ききっていた。
カメラの向こうの“世界”が、熱狂と好奇で自分を飲み込んでいく。
逃げたい。
けれど、琉韻が肩に手を置いた。
その指先は、氷のように冷たかった。
「ほら、笑って。あんたのためでもあるのよ。フォロワー増えれば、きっと楽しくなるから」
笑顔を作る。
ぎこちなく、痛みを隠すように。
コメント欄にはハートの絵文字が流れ、画面の右上に表示される数字が、秒ごとに跳ね上がっていく。
視聴者数、1,000人。3,000人。8,000人。
琉韻が囁く。
「いいじゃない、ねぇ。これが光よ、紫苑」
紫苑は、その言葉の意味を理解できなかった。
ただ、リングライトのまぶしさに目を細めながら、胸の奥で何かが静かに軋む音を聞いた。
琉韻はそんな妹の横顔を見つめ、ゆっくりと口角を上げた。
照明の反射がその瞳に宿り、まるで炎のように妖しく揺れる。
その笑みには、もはや優しさの欠片もなかった。
舞台の上で万人を魅了する天使の微笑みと同じ形をしていながら、
そこに宿っていたのは、支配と愉悦、そして――
確かな悪意だった。
その夜、紫苑は初めて知った。
光とは、時に、最も美しい形をした闇のことなのだと。




