第四十六話 会社の飲み
土曜日、朝七時。
出勤前の玲は、いつものようにコーヒーを片手にノートパソコンを開いていた。
画面には、オンラインゲーム《サンドボックスウォーズ》。その32サーバーの勢力マップが表示されている。
週に一度のギルドバトルの日。そして、三十分後には、今夜の戦いを決める戦線布告が始まる。
玲はマップ上を指でなぞるように見つめる。
《ダークキング》との激戦の果てに、中央金と南銀は《王国騎士団》が支配。
北東銀にはサーバー総合力2位の実力者が束ねる、《サンドウォール》。
北西銀は《フローライト》。
そして、かつてサーバー最強を誇った《ダークキング》は、まさかの拠点なし。
一時代を築いたあのギルドの旗は、どの区画にも存在しない。
玲は画面越しに、小さく息をついた。
数多の上位陣に続きまろんも抜け、崩壊に向かう彼らだが、どこかでまた再集結してくるような…そんな気配だけは消えていなかった。
上位勢が金・銀区画で激戦を繰り広げていた隙に、《キリキリバッタ》が南西銅を確保。
これで南東に続き、銅区画二つ目。ついに銀区画への挑戦権を手にした。
一方、東側では、《サンドウォール》が北東銀にて、黒王との戦いに集中していた間に、《ウィンドクローバー》がその下層の拠点を奪取。そして、北東銅も《焼肉キングダム》が戦力の分散していた《フローライト》から奪取。
しかし北西銅では、《フローライト》が新興ギルド《ブラッドハウンド》をその状況下でも防ぎ切った。
さらに西銅は、《ブルーアーチ》が《スパイラル》から守り抜き、静かにその存在感を保っている。
玲は思わず呟く。
「……ブルーアーチも、まだ頑張ってるんだ」
モニターの右下では、ギルドメンバーのチャットが点滅していた。半からの布告先について考えているようだ。
画面の中では、各ギルドのエンブレムがゆっくりと瞬いていた。七時半から始まる戦線布告。
玲はチャット欄を見ながら、マップを再び眺めた。
《フローライト》がもし金区画への布告に成功すれば、当然ながら北西銅の防衛は手薄になる。
焼肉キングダムとしては、そこを突く絶好の好機だった。
ギルメン達の声がチャットに流れる。
【ペンギン】「フローライトが金に行くなら今しかない」
【そる】「でも、フローライトが布告失敗したら、こっちの布告意味なくね?」
そして七時半。
全サーバーが一斉に更新されるその瞬間、マップが光に包まれる。
玲の視線が固まった。
金区画への布告成功したのは、《サンドウォール》だった。結果として、《フローライト》は他の布告先を確保できず、攻め手を失う。
さらに、《フローライト》の持つ北西銀は誰も布告しなかった。
【らいおん】「…なるほど。じゃあ、こっちは真正面から行くしかないか」
マップ上では、焼肉キングダムとフローライトの名前が、北西銅で交差していた。正真正銘、正面衝突。
一方、南銀では《キリキリバッタ》が《王国騎士団》へ布告。
これにより、騎士団は《サンドウォール》と《キリキリバッタ》の両面を同時に叩かなければならない。
戦線は、完全に混迷していた。
玲はカップのコーヒーを飲み干し、息をついた。
「フローライトか…今夜は、面白くなりそうだ」
出勤のため、玲はノートパソコンを閉じた。
コーヒーの残り香が漂う部屋を後にして、いつもの時間に家を出る。
昼。
玲はベルトコンベアの前に立ち、流れてくるお菓子をひたすら箱へ詰めていた。
単調な動作。鳴り響く機械音。
隣の同僚が「もう土曜かぁ」と呟く。玲は曖昧に笑うだけだ。
仕事が終わる少し前、班長が声を上げた。
「今日さ、久しぶりにみんなで行かね? 駅前の焼き鳥屋、新しくできたとこ」
周囲がざわつく。
「いいですねー!」
「雨宮さんも来るでしょ?」
玲は一瞬、手を止めた。
いや、今夜はギルド戦がある。帰らないと。
そう言いかけた言葉が、喉の奥で消える。
「……あ、はい。少しだけなら」
気づけば、そう答えていた。
断る勇気が出なかった。
仕事終わり、作業服のまま駅前の焼き鳥屋へ向かう。
狭い店内に、油と煙の匂いが満ちていた。
テーブルには、串とジョッキが並ぶ。
「雨宮さん、全然飲んでないじゃん」
「いえ、私あまり強くないので……」
笑い声。油の弾ける音。
玲はグラスを両手で握りしめ、曖昧に笑う。
誰かが話すたびに相槌を打ち、会話の輪の中に“いるふり”をする。
時計の針は、八時半を指していた。
胸の奥がざわつく、そろそろ集合の時間だ。
玲はスマホを見つめ、息を呑んだ。
店の喧騒の中で、仲間たちの声が遠く感じられる。
「……すみません、私、ちょっと用事があって」
ようやく絞り出した声に、班長が顔を上げた。
「お、どうした? 大丈夫か?」
「はい、少しだけ……すみません、先に失礼します」
「おぅ、気をつけてなー」
「また今度ゆっくり飲もうよ、雨宮さん」
玲は軽く頭を下げ、暖簾をくぐった。
外は夜風が冷たかった。
スマホの画面には、仲間たちの名が並んでいる。
そして彼女は、早足で駅へ向かった。




