第三十話 現実逃避
悠平は布団の上で、スマホを握ったまま目を細めていた。部屋は明かりを点けず、カーテンの隙間から朝の光が差し込むだけだ。床にはコンビニ弁当の空き容器が散乱し、テーブルの上にはクレジットカードの明細書が何枚も重なっている。
現実の彼は、家賃も滞納し、電気代も未払い。昼も寝坊気味で、まともに外に出る気力はない。だが、ゲームの中では冷静沈着、合理的にギルドをまとめ、戦略を練るリーダーだ。そのギャップに本人ですら苦笑してしまう。
悠平は履き古したスウェット姿で台所へ向かう。朝食などあるはずもなく、棚にあったカップラーメンを手に取る。
(あー、やべ。もう飯も食えねぇや)
最後のカップ麺にお湯を注ぎ、スマホを手にしたまま、ゲーム内のギルドチャットを流し読みする。ダークキングの動き、他ギルドとの駆け引き、裏工作の話題が飛び交う。画面の向こうでは、指示一つでメンバーが動き、戦況が変わる。
「ダークキングに一泡吹かせないと、気がすまねぇな」
独り言を呟きながら、悠平はカップラーメンをすすり、ベッドに戻る。時計は昼前を指していた。今日も部屋から一歩も出ず、ゲームの世界でのみ存在感を放つ一日が始まる。
彼は、半年ほど前までは、普通に働いていた。
大学を卒業後、都内の大手企業に入社。配属先は営業。上司の顔色をうかがい、取引先に頭を下げ、ノルマに追われる毎日。それが当たり前だと思っていた。
だが、冬の終わりごろ、突然身体が動かなくなった。出社しようと玄関で靴を履こうとしても、息が詰まり、視界がぐにゃりと歪む。
ただの疲れだと思い込み、無理に行った日もあった。けれど、会社に着くころには頭が真っ白で、電話一本かけるだけで手が震えていた。
診断は抑うつ状態。
医師は休職を勧めたが、上司から返ってきたのは冷たい一言だった。
「お前の代わりなどいくらでもいる。そんな簡単に潰れるんならいらない」
そこから坂を転がるように崩れていった。
貯金は家賃と光熱費に消え、友人との連絡も途絶えた。
親には「大丈夫」とだけ言い、実際はコンビニの廃棄寸前の半額弁当で数日を凌ぐような生活。
そんなとき、偶然見つけたのが《サンドボックスウォーズ》だった。
最初は気晴らしのつもりだったが、いつしかその世界のほうが「現実」になっていった。
誰も自分を責めない。努力が数字で返ってくる。
何より、そこでは自分が“必要とされていた。
それまで、借金など一度もしたことがなかった。
だが、サンドボックスウォーズにのめり込むようになってから、悠平の金銭感覚は徐々に狂っていった。
最初は「ちょっとした課金」だった。
仕事をしていた頃の名残で、クレジットカードの残高にも余裕があった。
限定装備、建築用の素材パック、経験値ブースト——少しの課金で、仲間たちと肩を並べられる感覚が嬉しかった。
けれど、現実のストレスと虚しさを埋めるように、課金は次第に増えていった。
ギルドバトルやレイドで活躍すれば、仲間達からの称賛のチャット、それが唯一、自分を肯定してくれる証のように思えた。
気づけば、クレジットカードは限度額に達していた。利用明細を見ても現実味がなく、むしろゲームのステータス画面を眺めているほうが心が安らいだ。
そして、そんな生活を続けた末に彼が辿り着いたのは…
《サーバー総合力ランキング6位》という称号だった。
数千人が参加するサーバーの中での順位。他人から見れば、ただの数字かもしれない。人によってはくだらないとすら言われるだろう。
けれど、悠平にとっては、それが生きている証だった。
現実では何もできない自分が、ゲームの中では仲間を導き、戦況を変える存在になれる。
それが彼のすべてだった。
悠平はため息まじりに呟いた。
「……現実より、こっちのほうがよっぽど生きてる気がするな」
そう言って、彼はアプリをタップした。
画面が暗転し、しばしの読み込みのあと、幻想的な光景が広がった。
無機質な六畳間とは違う、荘厳な石造りの城砦。
空には淡い蒼光がゆらめき、旗にはギルド《エターナル》の紋章がはためいている。
ログイン通知が流れる。
【システム】《ペインがログインしました》
その一行がチャットに表示された瞬間、静まり返っていたギルド拠点が一気にざわめき出した。
【Mira】「マスター来た!」
【ジェイ】「待ってました!今日も頼りにしてます!」
昼間の時間帯は、学生や夜勤明けのメンバーが数人いるだけ。それでも、彼らはペインのログインを心から喜んでいた。
広間の中央で、ペイン。悠平のアバターがゆっくりと立ち上がる。
黒と銀を基調とした鎧に身を包み、背には禍々しい双剣イビル・イン・ライト。
現実の疲れ切った青年とは似ても似つかない、威厳ある姿。
【ペイン】「今日は拠点防衛の確認から行く」
ペインの短い指示に、メンバーたちはすぐ反応する。
【ジェイ】「了解っす!」
【Mira】「こっちは索敵続けます!」
そのテンポの良いチャットの流れに、悠平の胸が高鳴る。ここでは誰も彼を責めない。誰も遅いと言わない。命令すれば皆が動き、信頼の言葉が返ってくる。
たった数行のやり取りでも、脳の奥にあった錆びついた回路が再び動き出すような感覚があった。
(これだ。俺が、生きてるって感じられるのは)
画面の中のペインが剣を背に収め、城壁の上に立つ。遠くには宿敵ギルド・ダークキングの旗が、風に翻っていた。
平日の昼間。現実では静まり返った六畳の部屋の中で、悠平の心だけが熱を帯びていた。




