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サンドボックスウォーズ  作者: 黒瀬雷牙
第三章 アメリアの物語

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第十三話 画面の外の一歩

 金曜日。

 仕事が終わった瞬間、阿里亜はほとんど反射的に帰路についた。


 帰宅すると、鞄を置くより先にシャワーを浴びる。

 昼間の埃と、工場の匂いと、妙に長く感じた一週間を洗い流すように。


 髪をざっと乾かし、最低限の荷物だけをまとめる。

 着替え、充電器、財布。それだけで、十分な気がした。


 駐車場で待っていたのは、愛車の軽自動車。

 カラーバリエーションがやたら豊富で、女性向けを全面に押し出したモデルだ。

 正直、走りは平凡。けれど、阿里亜はこの車が気に入っていた。


 エンジンをかけ、夜の道路へ滑り出す。


 高速道路に入ると、空気が変わる。速度の違い。距離感。後方から詰めてくるヘッドライトに、思わず肩が強張った。


 急いでるのは、私だけじゃない。


 そう自分に言い聞かせながら、追い越し車線を譲る。それでも煽られるたび、胸の奥に小さな棘が刺さるような気分になった。


 しばらく走り、サービスエリアの案内表示が見えたとき、阿里亜は迷わずハンドルを切った。


 サニーボックスコーヒー。

 シアトルを拠点とするコーヒーチェーン店。

 照明の明るさが、妙に現実味を取り戻させる。


 少し高めのコーヒーを買い、紙カップを両手で包む。苦味の奥に、わずかな酸味。


(ずいぶん来たな)


 物理的な距離だけじゃない。仕事帰りに、誰とも約束せず、ただ家に帰っていた頃から考えれば、これはかなり遠い場所だ。


 カップを捨て、再び車に戻る。夜はすっかり深くなっていた。


 やがて、目的地の表示が現れる。


 愛知県名古屋市。


 集合場所。画面の向こうだった世界が、地図の中で具体的な点になる。


 阿里亜はスマートフォンを確認し、ディスコを開いた。

 外部チャットツール。ゲームとは切り離された場所で、教えてもらった住所。


 ナビに入力し、住宅街へと車を進める。


 知らない道。知らない夜。

 けれど、不思議と引き返したいとは思わなかった。


(ここまで来たんだ)


 アメリアではなく、阿里亜として。画面の外の一歩を、確かに踏み出しながら。


 彼女は、指定された場所を目指して、静かにアクセルを踏んだ。


 市街地に入った途端、空気がまた変わった。


 車線変更は強引で、ウインカーは意思表示というより宣言に近い。

 右からも左からも、遠慮なく割り込んでくる車の流れに、阿里亜は思わずハンドルを握り直した。


(こわ……)


 噂には聞いていた。


 名古屋運転。交通事故ワースト一位、その言葉が誇張ではないと実感させられる。


 信号が青に変わった瞬間の加速。

 黄色は「注意」ではなく「まだ行ける」。

 右折車は直進より強い意志を持つ。


 ひとつひとつに悪意があるわけじゃない。

 ただ、全員が「自分の流れ」を優先しているだけなのだろう。


 それでも、地方の工場地帯を主な行動範囲としてきた阿里亜には、神経を削られる時間だった。


 ナビの音声だけが、唯一の味方だ。


『次の信号を、右です』


 その指示に従い、細い道へと入る。途端に車の数が減り、住宅街特有の静けさが戻ってきた。


 助かった。


 胸の奥で、そっと息を吐く。


 やがて、ナビが目的地到着を告げた。


 目の前に現れたのは、想像していた「住宅」とは少し次元の違う建物だった。


 門がある。しかも、かなり大きい。


 その内側に広がるガレージには、外車が二台。

 それでもなお余裕のあるスペースが残っている。


(……え)


 エンジンを切ったまま、しばらく固まる。聞いてはいた。「駐車場あるから大丈夫」と。

 けれど、これはあるというレベルを超えている。


 門の向こうには、堂々とした大きな住居。夜でも存在感がはっきりわかる、手入れの行き届いた外観だった。


(メリッサ……想像以上に、すごいところに住んでる……)


 車を降り、どう動いていいかわからず立ち尽くしていると、誰かに声をかけられた。


「……もしかして、阿里亜さん?」


 不意に、柔らかな声がかかった。


 振り向くと、門の内側に一人の女性が立っていた。阿里亜と同年代だろうか。長い髪を上品にまとめ、派手ではないのに、自然と目を引く美しさがある。


 姿勢が良く、表情は穏やか。どこか育ちを感じさせる気品が滲んでいた。


「え、あ……はい。そうです」


 少し慌てて答えると、女性はふっと微笑んだ。


「よかった。初めてだと、ちょっと驚きますよね」


 そう言って、軽く頭を下げる。


「はじめまして。篠宮玲華です」


 その名前を告げる声は落ち着いていて、よく通った。阿里亜が言葉を探していると、玲華はその反応を察したのか、少しだけ目尻を下げた。


「驚きますよね。ゲームだと、どうしても名前も雰囲気も違って見えるから」


 そう言って、柔らかく笑う。


「改めまして。私が、メリッサです」


 胸の奥で、何かがすとんと落ちた。


 この人が。

 箱庭の向こうで、何度も助言をくれて。静かな言葉で場を整え、アメリアを支えてきた人。


「……あ」


 それだけしか声が出なかった阿里亜に、玲華はくすりと微笑んだ。


「長距離運転、お疲れさまでした。金曜の夜に名古屋市内は……正直、初心者殺しです」


 その一言に、張り詰めていた緊張が、ふっと緩む。


「こわかったです……」


 思わず零れた本音に、メリッサは小さく頷いた。


「ですよね。無事に着いてくれて、本当によかった」


 そう言って、門の方へと身体を向ける。


「どうぞ。中、暖かくしてあります。運転のあとって、思ってる以上に疲れてるから」


 鍵の音。静かに開く門。その所作ひとつひとつが落ち着いていて、家全体が彼女の延長のように感じられた。


 敷地内に足を踏み入れると、外の夜気が一段、遠のく。


「車は、そのままで大丈夫です。明日、ゆっくり移動しましょう」


「……ありがとうございます」


 そう答えながら、阿里亜は思う。

 この人には、自然とここにいていいと思わせる力がある。玄関に近づくと、メリッサは振り返った。


「そうよそよそしくしなくても大丈夫ですよ」


 穏やかで、しかしはっきりした声音。一瞬だけ、視線が阿里亜をまっすぐ捉える。


「阿里亜さん……いえ、アメリアがここに来てくれた。私は、嬉しくてたまらないのです」


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。


「……はい」


 短く、けれど確かな返事をして、阿里亜は玄関をくぐった。


 画面の向こうだった居場所が、今度は現実の温度を持って、彼女を迎え入れていた。

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