書かれていた通りに
駅前の古本屋で、妙な本を見つけた。
薄い装丁に、タイトルも著者名もない。表紙は一面、無地のグレーだった。
けれど、その本だけがまるで私を呼んでいるようで、気づけば手に取っていた。
ページをめくると、こう書いてあった。
「彼女はこの本を手に取り、立ち読みをしている」
思わず本を閉じた。
心臓が跳ねる。
けれど気になって、私はもう一度ページをめくった。
そこには何も書かれていなかった。
さらにめくると、新たな一文があった。
「本を閉じたあと、先程の一文が消えている。そして彼女は眉をひそめ、周囲を見渡す」
私は眉をひそめて、周囲を見た。
店内の誰も私の存在に気づいていないようだった。
本を閉じて、棚に戻そうとした。
だがそのとき、ページの端から何かが見えた。
「彼女は本を棚に戻そうとするが、ためらい、そのままレジへ向かう」
私は、本を持ってレジに向かった。
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帰宅してすぐにページを開いた。
最初の十数ページには、私の行動がすべて記されていた。
本を手に取ったときの気温、隣で立ち読みしていた子どもの動き、店内のBGMまでも。
どれも現実とぴたり一致していた。
だが奇妙なことに、何度読み返しても内容は変わらなかった。
そして、あるページで手が止まる。
「朝、彼女はパンを落とした。バターの面を下にして。」
――そんなこと、してない。……してない、はずだった。
けれど、確かに“記憶がある”。
あの音、バターの感触が手についた嫌な感じ。
私はその朝、パンを落としたのだ。
次のページには、こう続いていた。
「午後、彼女はこの一節を読み、自分のことだと気づく」
私は慌ててページをめくった。
「彼女はページをめくる。そして、“この文章”を読む」
私は震えながら、本を閉じた。
けれど、すぐにまた開いてしまった。
「彼女は閉じた本を再び開き、“それでも中身は気になって、また開いてしまう”という一文を読む」
ぐらりと視界が揺れた。
手のひらに汗がにじむ。
私はページをめくる。もう止まらなかった。
「その晩、彼女は眠れず、本を抱えたまま朝を迎える」
「会社で同僚の言葉に上の空になり、仕事で小さなミスをする」
「帰り道、電車の中でこの続きを読み、ふと“自分の死”について考える」
「そして、“それもまた書かれているのだろうか”と疑い始める」
私は、ページをめくる手を止めた。
だが次の一文が目に飛び込んできた。
「彼女はページをめくる手を止めるが、書かれている内容に導かれるように、また指が動く」
私はペンを持ち、余白に書き込んだ。
「この本は嘘を書いている」
するとそのすぐ下に、すでに一行が加わっていた。
「彼女は、“この本は嘘を書いている”と書き込むが、それもまた書かれていたことに気づく」
声を上げたくなったが、喉が凍りついたように声が出なかった。
夜。
私は玄関の鍵をかけ、カーテンを閉めた。
本を枕元に置き、布団に潜り込む。
そして気づいた。本には、まだ続きがある。
「彼女は本を読み終え、ようやくこの一節にたどり着く。
――そして、ページの最後に書かれた言葉を目にする。」
私は震える手で、最後のページをめくった。
そこには、たった一行。
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「彼女がこれを読むとき、部屋のドアが、静かに開く」
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私は、後ろを振り返ることができなかった。