1話 女神の寵愛は、ない。
気がつくと、タクシーの後部座席に座っていた。
──なんだろう、この妙な夢は。
金曜の夜に仕事を終え、疲れた体をベッドに沈めた。いつもの通りのはずだった。毎週こうして一週間の終わりを迎え、眠りに落ちる。しかし、今夜の眠りは、いつもと少し違っていた。
タクシーの窓の外には、ぼんやりとした明かりとともに、夜の街が広がる。見覚えがあるような、ないような、そんな曖昧な景色だった。どこかで見たことがある気もするが、具体的にいつの記憶かが思い出せない。そこに既視感のようなものが混じり、余計に不気味さを増していた。
それくらいなら、まだ、そういう夢として彼も納得出来たかもしれない。
だが。いつもの夢と違う──。
いつもなら、夢の中で「これは夢だ」となんとなく理解できている。だが、今は違う。目の前の景色はぼやけることなく、耳に届くのは、タクシーのエンジン音と、シートに体が沈み込む感触。夢の中なのに、妙にリアルだ。
──そしてもう1つの問題は、運転席には、”女神”のような格好をした女性がいることだった。
煌びやかな衣装に、神秘的な雰囲気をまとったその姿は、まるでゲームやアニメの登場人物のようだ。
豪奢な白いローブに金の装飾が施され、髪は長いブロンド。バックミラーに映る彼女の目元は、ハーフのような彫りの深さがあり、日本人離れしている。その整った顔立ちは、美しさと威厳が同居していた。
(女神のキャラクターを題材にした、コスプレイヤーか?)
しかし、その見た目とは裏腹に、彼女はハンドルをしっかりと握り、実に落ち着いた態度で運転をしていた。その姿が異様すぎて、余計に現実味を持ってしまう。
タクシーというあまりに日常的な空間と、ファンタジー世界の登場人物のような運転手──そのミスマッチが、脳を混乱させる。
「……変わった夢を見ているな。」
自分の深層意識を反映するのが夢ならば、俺の心理状態は一体どうなっているのか。
そんなことを考えるが、それよりも気になるのは、やはりこの現実感の強さだった。思考も感覚もクリアで、まるで実際にここにいるかのような──。
「もしかして、俺は死んだのか?」
心臓を押さえてみる。鼓動は確かに感じるし、痛覚もある。死んでいるという実感はまったくない。
(いや、死んだことはないからわからないけれども。)
自分にツッコミを入れ終わったとき。運転手──、女神のような姿の女性が、不意に口を開いた。
「不安になる必要はありません。あなたは、ちゃんと生きていますよ。これから、異世界へ向かうのです。」
「え?」
思わず聞き返す。言葉の意味は理解できる。
だが、頭が、当然、それを受け入れられなかった。
(異世界? まるでなろう小説の設定みたいな言葉が飛び出してきた。いやいや、そんな馬鹿な話が──。)
窓の外の景色は、いつの間にか、街ではなくなっていた。乗客の彼には海か川かの判別はつかなかったが、キラキラと小さく光る様子から察するに、水辺に差し掛かったのだと受け止めていた。
と同時に、世界の「奥行き」が少なくなっている。しかし、その「中」にいる彼には、そのことは認識できてはいない。
彼は下を向くと、思考を巡らした。自分の足元を見ると、普段外出するときの相棒、黒いスニーカーを履いていることに気づく。
(まだ、自分の見ている景色が、夢なのか、現実なのかはっきりしない。まずは、状況を整理しよう。)
(俺は金曜の夜に眠りについた。そして今、このよくわからないタクシーの中にいる。)
そして、口を開く。
「あの、運転手さん。つかぬことをお聞きしますが、これは、私の夢ってことでよろしいですか?」
「そうです。あなたは今、現実世界で夢を見ながら、同時に異世界へ移動している最中です。」
(は?異世界!?移動!?)
「ほほう。異世界。いや。あ、あの。自分には妻子もいるし、あんまり、出来るなら、そちらに長居はしたくないのですが。」
夢か現実かはっきりしないが、とりあえず、状況に似つかわしくないほど、真面目に、聞いてみる。
それを受けて、女神は微笑んだ。
「大丈夫ですよ。あなたがどれだけ異世界で過ごしたとしても、現実世界のこの日に戻って来られます。」
(なんだそれ。一体俺はなにを真面目に聞いてるんだ。そして向こうもなにを真面目に答えてるんだ?)
「それは、つまり。既に夢オチが約束されているってことに、なっちゃうような気がするんですが。」
「異世界で何かを成し遂げたとして、結局は目が覚めて、ああ夢だったのか、と終わるだけというのは、そんなもの、徒労ではないですか。何か持ち帰れるご褒美とかはないんですか?お土産とか、写真とか、現金とか、ゴールドの現物とか。」
混乱のあまり、自分でも何を言っているのかあまりよくわからなくなっているが、状況が状況なだけに仕方ないものとした。そうせざるを得なかった。
“夢オチは良くないと、かの手塚治虫が言っていたはずだ”という、彼が人生で一度も活用したことのない、頭の片隅に残っていた知識を引っ張り出して、投げかけた質問だった。
「世界の因果律を変えると、世界が歪んでしまいますからね。現金のようなものは用意できませんが……何か考えておきますよ。」
(なんだろう。嫌なことに、夢にしては、この現実感と、女神の回答に、筋が通り過ぎている気がする。これは、マジか。マジなのか。)
背筋が冷え始める。
「そ、それじゃあ、異世界で何をすればいいんでしょう? 魔王を倒すこと?街を発展させること?何を目指して動けばいいんでしょうか?そのゴールは、どこですか?」
(これが夢であったとしても、現実であったとしても。今の自分に出来ることは、とにかく情報を集めておくことだ。こういう状況だからこそ、真剣に……!)
彼のそんな思いは、女神にたやすく打ち砕かれた。
「人生のゴールや目標は、自分で探すものですよ。」
突然突き放される。
(神様みたいなことを言う。いや、もしかしたら、この展開だと、まさか、まさか本当に──!?)
まだ、どこかで夢だと、あるは夢であって欲しいと思っていたこの状況が、彼の中でも、いよいよ真実味を帯び始める。
(いや、いや、待て、待て待て!)
窓の外の景色が、草原に変わる。夜が明け始めている。少し、明るくなる空の下。
世界はさらに奥行きを減らす。世界は、「3次元」から、「2次元」になる。世界が"情報"を削ぎ落とす。世界のすべてが"絵の中の景色"になる。「中」の彼は、やはり、気付けないままだが。
タクシーは、まだ、走っている。彼は、焦りながらも、状況をもう一回整理しようと努めた。
(俺は、仕事を終えて、金曜の夜、自宅で眠り、夢を見ていた。そのとき、女神様(仮)に運ばれて、異世界に転移させられようとしている。転移するにあたっては、現実世界への影響は考えなくていいが、異世界でやるべきことは、まだよくわかっていない。)
整理して、状況はまとまっても、思考はまとまらない。当たり前である。なぜなら、彼自身にも、彼に近しい人間にも、同じような経験を持つ人物など、居るはずはないのだから。
(なんだこれ。なんなんだこれ……!)
「じゃあ、あと1つ質問させてください。なんで、異世界転移の方法がタクシーなんですか。」
「超常的な現象を起こすためには、対象者の認識出来る範囲への調整が必要なのです。つまり、あなたにもわかりやすく言い換えると──、」
女神はここでひと呼吸置くと、続けた。
「あなたの想像力では、異世界へ転移する、というイメージが出来る方法が、タクシーしかなかったのですよ。」
そして、笑っている。
「二人乗りの自転車でもよかったですかね、いや、ですがそれはあまりにも。うふふ。」
まだ、笑っている。
(なんだこいつ。)
(こっちがどれだけ焦ってるか、本気でわかっているのか?)
彼の中に生まれたほんの少しの怒りの感情には構わず、女神は続ける。
「ワープは想像しづらいでしょう? それに、電車や飛行機じゃ運転手と話せませんし。」
(フォローみたいに言っているが、全然フォローにはなってないからな。)
彼がツッコミを入れる間もなく、タクシーは徐々に減速し、やがて完全に止まった。
「さあ、到着です。降りてください。」
「え、ちょっと……!?──。」
そのときには、彼も完全に、理解していた。今から、起こることを。
ただし……理解したうえで、受け入れられずにいたのは、言うまでもない。
ガチャン。タクシーの扉が、自動的に、開く。
その瞬間、眩しすぎる光が彼の視界を奪う。
反射的に目を閉じるが、全身が浮くような感覚に襲われる。
強い力で、タクシーの扉の先のどこかへ押し出される感覚。
高速で、どこかに上昇していくような感覚。
必死に、叫ぶ。
「ヤバイ、ヤバイって!嘘だろ!おい、おい!?そんな、え!?そんなの俺は……俺は、望んでないって!!」
(ふたりとも、ごめん……!絶対、いくら時間が掛かっても、俺は、「この日」に帰るから……!)
ひとりは、彼を心から愛し、いつも笑顔で迎えてくれる彼の妻。
もうひとりは、まだ二歳にもなっていない、覚えたての数字の「1」と「5」を手のひらで見せてくれる息子。
その二人の顔を頭に浮かべながら、彼の意識は、そこで途切れた。
──この、全く格好のつかない旅立ちが、彼の異世界冒険のはじまりである。
「グッドラック。」
女神が微笑んでいたのは、祝福か、それとも──。