03
「ひどいわ、お兄様!」
突然あびせられた非難の言葉にジェレアクは少しばかりたじろいだ。とりあえず、後ろ手に扉を閉め、出窓の端に腰掛けたアイシャの傍へと歩み寄る。
アイシャの外見は人の子なら思春期頃といった感じで、むき出しの腕や膝上までのスカートからのびた脚は子鹿のそれのように細く、しなやかだ。
ついさっきまで喉を鳴らしていたらしいムニがアイシャの膝から飛び降り、部屋の隅へさがった。
「一体何をそんなに怒っているんだ?」
暗い紫の瞳を怒らせたアイシャのフワリとした巻き毛をやさしく指で掻きあげ、額に軽く唇を触れる。
ジェレアクが処刑された時、まだ十かそこらだった末の妹は大して構ってやっていたわけでもないのにジェレアクを慕ってくれ、彼の失脚に涙し、心から帰還を祝ってくれた。
そんな事情で帰還以来ほかの家族とは疎遠になっていたジェレアクも、アイシャとだけは親交を深めていたのだが。
「近頃ちっともお顔を見せてくださらないと思っていたら、エリシャやサーラ、デリア、シグニイにグズルーン……いいえ、お姉様達だけじゃなく親族のほとんどすべての女性の所をお訪ねになっていたそうね。私だけ除け者になさるなんて、あんまりよ!」
立ち上がり、一気にまくしたてるアイシャの瞳には涙まで浮かびはじめている。
「驚いたな……」
「驚いた、ですって?」
ジェレアクはアイシャの彼に対する感情の激しさに感心したのだが、彼女は兄が秘め事が暴露されたのに驚いたのだと勘違いしてしまったようだ。更に涙目になってほとんど叫びに近い声をあげる。
「おっしゃる事はそれだけなの?」
「頼むから少し落ち着いてくれないか、世界一大切な僕の姫君」
ジェレアクは両手でアイシャの頬を挟み、こぼれ落ちてきた涙を親指でぬぐった。
「ウェリア一大切な……? 本当?」
「あたりまえだろう? それなのに君は僕が君の事を除け者にしたなんて本気で思っていたのかい?」
「いいえ……いいえジェレアク……お兄様……」
ジェレアクは多少うんざりした気持ちを隠してアイシャを抱き寄せ、落ち着くまで髪を撫でてやらなければならなかった。
「僕は今とても大きな事をやろうとしている。それには時宜をはかるのがとても大切でね。君を放っておいたのは悪かったが、それは時間がなかったからなんだ。僕が訪問したみんなにはやってもらわなければならない事があったんだよ」
「ごめんなさい。お兄様のなさる事にはみんなちゃんとした理由がおありだって、言われなくてもわからなきゃいけなかったのに。でも、私にできる事は何もないの?」
幼い自分の非力を知っているアイシャは遠慮がちに尋ねた。
「そろそろそれを話しに来るつもりだったんだ。ぜひ君にやってもらわなきゃならない事があってね」
「まあ!」
アイシャの顔が喜びに輝いた。
「これは他の誰にも頼めないとっても重要な事なんだ。それに絶対に秘密を守るって誓ってもらわなきゃならない」
「誓うわ! ああ、なんて素敵なのかしら。ジェレアクお兄様と二人きりの秘密を持てるなんて」
両手でジェレアクの手を握りしめたアイシャはほとんど跳ね回らんばかりだ。
「それで、その秘密って?」
「その事を話し合うにはここは適当じゃない」
「じゃあ、どこで?」
「後で遠乗りに出かけよう。だが、その前にもうひとつ片づけておきたい事があるんだ」
「後って、どのくらい?」
目に見えてシュンとしてしまったアイシャが不憫になったジェレアクは深く考える前に口に出していた。
「一緒に来るか?」と。
「本当? お邪魔じゃない?」
(邪魔になるかどうかはわからないが。それも一興だろう)
はしゃぐアイシャを伴ってウォデヴァーの居室へと向かった。
ウォデヴァーはグレンダの息子で彼のあと生まれた三人の王子が亡くなった為、現時点ではジェレアクのすぐ上の兄にあたる。
甘い物が好きでほとんど表に出て動くという事をしないので、歩くのも大儀になるほど太り、皆から間抜け扱いされていた。
が、彼がこれまで生きのびてこられたのは、誰もが本気で彼を競争者、自己に対する脅威としてとらえなかったその徹底した間抜けぶりのおかげと考えれば、彼なりの処世術と考えられなくもない。
(もしあれが演技なら奴はウェリア一の役者だな。
ま、どっちでも構うものか。あいつが臆病な間抜けを装っているんなら、なおさら俺の頼みを断る訳にはいかないさ)
「ウォデヴァー! ジェレアクだ! ここを開けろ!」
透視でウォデヴァーがいるのを確かめてあった部屋の扉の前で声を張りあげた。
「今すぐ開けないとぶち破るぞ!」
「うひゃっ! ま……ま、ま、待て!待ってくれ! ……すぐ開ける」
あわてふためいた声に続いて魔法が働くのが感じられ、カチャリという音と共に眼前の扉が内側に開いた。
大股に室内に歩み入ったジェレアクは、菓子や果物の並んだ食卓奥の寝椅子に座したウォデヴァーの前に立ちはだかる。驚いて眼を丸くしていたアイシャも急いで中に入り、扉を閉めた。
赤ん坊のそれの様に薄く短い髪。関節が肉に埋まり、くびれというものがみあたらない肉体。踝まであるローブをだらしなく着たウォデヴァーはとっさに抱え込んだらしいクッションに、幾重にもたるんだ顎をのせ、ワナワナと唇を震わせていた。
「な……ななななな……」
「何の用だと言いたいのか?」
肩にめり込んだような首を何度も振って肯定の意を表した彼はすっかり怯えきっているように見えた。
「貸しを……返してもらおうと思ってな」
ニヤリと笑ったジェレアクは果物の汁や菓子のかけらで汚れたウォデヴァーの胸ぐらをつかみ、顔を近づけた。
「頭のいいアンタの事だ。しっかり覚えているだろう? 俺に命の借りがある事を」
「あ、あ、あれは、み、みんながやれって言ったからで……」
「みんな? みんなっていうのは誰と誰だ?」
ジェレアクは眼をすうっと細めて険悪な表情をつくる。
「そ、それは……」
ウォデヴァーは大粒の汗を吹き出しながら、狭い水槽に入れられた魚が空気を求めるようにパクパクと口を開け閉めした。
「いや、いい。俺はそんな事が聞きたくて来た訳じゃない」
ウォデヴァーから手を離したジェレアクは菓子皿を押しのけて食卓に腰をおろした。
「アンタの魔力が人一倍強力だってのは周知の事実だ。
そうだろう、アイシャ?」
「え? ……ええ」
突然話をふられたアイシャは自分の声が素っ頓狂に響いたのではないかと不安になった。どうやらジェレアクはウォデヴァーに何かをさせる為に脅しつけているらしいのに、それを手伝うどころか台無しにしてしまうのではないかと危惧したのだ。
(それならそうとおっしゃってくださっていればいいのに……)
廊下でそんな話をする訳にはいかないし、ジェレアクがとても急いでいるのも感じられたからそれが無理な注文だというのはわかっていたのだが。
「そこでだ……」
ジェレアクはウォデヴァーの抱えているクッションの上に右足を載せて長靴の爪先でウォデヴァーの左耳をつついた。
「アンタのその魔力を今度は俺の為に役立てて欲しい」
「い、一体……何を……?」
「何、簡単な事さ。次の新月の夜にアンタのありったけの魔力を俺に送ってくれればいい」
「な、何をするつもり……」
ウォデヴァーは厚ぼったい目蓋の下で半ば閉じたような小さな眼をパチパチさせる。
「うっ……!」
長靴の踵でウォデヴァーの腹をクッションごと蹴りつけ、そのままグイグイと足を押しつけるジェレアクの唇が楽しげにほころんだ。
「《月の谷》の女王陛下に即位のお祝いを奏上するのさ」
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