10
(きたっ!)
停戦の合図に従って軍を退かせ、得物の血糊を払っていたジェレアクは反射的に剣を鞘に収める。期待と不安の綯い交ぜになった高ぶる心を抑えて、しっかりと大地を踏まえ、ひろげた両手を高く挙げてその《気》を受け止めた。
《冥府の鍵》
その絶大な魔力を持ってすれば魔族千人を殺める事も可能と言われる呪縛である。いくら強いとは言え、アルスラヴィン一人を葬るだけでその魔力のすべてを使い切ってしまう事はない。
それ故、ジェレアクは罠を巡らせ、この《月の谷》の端、すべてを見届けられる地で機を窺っていたのだ。
もちろん、方向性を欠き、ただ消失してゆく為にのみ拡散してゆく《力》ではあっても、強大で危険な事にかわりはない。だからこそ、ジェレアクはランドグリーズを借り受け、ウォデヴァーの魔力を使って結界を開き、自らの魔力は温存してあった。
力――
シャーンの憎悪と無念、悔恨と恐怖、怒りと孤独と絶望が凝縮した黒い魔力。
その力を捉え、集める。ジェレアクの唇は驚異的な速さと正確さで呪文を紡ぎ、心にひとつの図形を思い描いた。闇の最深部に住まう妖魔の黒い血を用いて描いた魔法陣。中央に妄執という名の闇を安置された彼の野望。
『アイシャ!』
複雑に様式化された舞によって魔法陣の力を高めていたアイシャは心に響いたジェレアクの声の強さに気を失いそうになった。気力を振りしぼって踏みこたえ、時空の狭間を通して送り込まれてきた《力》を正しい位置へと導く。
「あ……あ……あ……あ……」
魔法陣へと流れ込む力の大きさに圧倒され、ただ呆然と言葉にならぬ声をあげるムニ。
「あ――――っ!」
《力》のすべてが一点に吸い込まれ、集められた瞬間!
黒い波動がアイシャを襲った。
目に見えぬ波、耳に聞こえぬ轟音。
だが、それを感じたのはアイシャだけではなかった。黒い石を中心に生まれた波紋は瞬時にその直径をウェリアの全土にまで拡げ、少なからぬ者達に不気味な不安を与えたのだった。
「あれは……あれは、何?」
衝撃から立ち直ったアイシャが見つめる先に魔法陣はなく、卵のような黒い石もなかった。
そこにあったのは――恐ろしく滑らかであるのに全く艶がなく、黒よりも暗い煤色、闇よりも濃い暗黒――墓石のように佇む六面の碑石。大きくはない。アイシャの膝上の高さ、幅はそれより狭く、上部の厚みは一スパン程。下方の幅がやや広く、碑名はない。
「これが……お兄様の望んだもの? これが……?
ムニ! これは一体なに? なんの為のもの? ジェレアクはこれをどうするの? ――答えて! 答えてよ、ムニ!」
その場にガクリと膝をついたアイシャは呆然とその碑石を見つめ、そこから滲み出る得体の知れない何かに胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
「ラヴィン!」
《冥府の鍵》が発動した瞬間、ミルディンは失神しそうな程の衝撃を受けた。《月の谷》で起こる出来事はすべて《月の雫》を通して彼女に直に影響を与える。
だが、失神などしている場合ではなかった。
ラヴィンが――谷を守る為に最も危険な敵と戦ってくれていたアルスラヴィンが恐ろしい呪いを受けてしまったのだ。
彼は彼女の兵士ではなく、谷の住人ですらないというのに。竜騎士としての《王国》に対する務めよりも、愛する妻と息子の傍にいたいという彼の望みよりも、新たな重責への不安に震える彼女の我儘を優先させて谷に残ってくれたが故に。
(どうすれば……どうすればいいの?)
できるものなら魔王子の呪いを我が身に受けたかった。だが、それはアルスラヴィンに向けて発動されてしまったのだ。もはや改変は不可能。《冥府の鍵》を無効にする手段など伝説にすらない。
「ミルディン様? ミルディン様!」
事情のわからないミラータが急に様子の変わったミルディンを心配して声をかけてきた。彼女にも魔法の才があり、先程の衝撃を感じてもいる。しかし、すぐに何かミルディンの集中を必要とする事態が起き、それを邪魔してはならぬのだと悟って静かに傍らに控えた。
(お母様、ディアンお兄様、シシアンお兄様……助けて)
ゥオオオオォ――――ン……
魂を引き裂くようなヴァルガスの叫びが谷を揺るがす。
「ヴァルガス……」
アルスラヴィンの無二の友、ヴァルガスの思いがミルディンを叱責し、励ました。
(時間が……どうすればいいのか考える時間が欲しい……)
闇の王子の消滅が感じられ、更に彼女を急き立てる。もう時間がない。ウェリア一の勇者と謳われた竜騎士、稲妻のアルスラヴィンの命の終わりが目の前に迫っている。
(時間? ……!)
はっとしたミルディンは《月の雫》に蓄えられた記憶を引き出し、可能な限りの速さで必要な呪文を唱え始めた。
「……我が魔力 紡ぎだしたる言霊よ 琥珀の罠となってアルスラヴィンの時をとらえよ!」
「ミルディン様っ!」
魔法の発効と同時に膝を折ったミルディンをミラータが支える。
「大丈夫よ、ミラータ。まだ、倒れるわけにはいかない。私が倒れればラヴィンの時間が……」
「時間……?」
「そう、時間。今、ラヴィンの時間は《冥府の鍵》がもたらそうとしている死の一歩手前で止まっているわ。でも、私が支えていなければ《時の罠》が破れる……」
「なんて事!」
竜騎士と竜の魂は常に共鳴し合っている。それ故、どちらかが死すれば魂は相方の魂と融合し、最期の別れを告げる為にひとたび記憶の奔流となって宙を舞う。その魂は生前と違って無防備である。
残された者の魂と触れ合い、冥府へと旅立ってしまえば手出しは出来ないが、ただの記憶として移動している最中なら、それを読み解き、写し取ることも可能なのだ。
《冥府の鍵》を発動させる事によってシャーンがアルスラヴィンと自身との命運を定めたのを感じたエリシャは《魔の山》に向けて一角獣を走らせながらも、竜騎士の魂が解き放たれる一瞬の機会を捉え、アズルの記憶を手に入れようと神経を尖らせていた。
だが――
「冗談じゃないわ。これじゃ只働きじゃない」
そう、魔王子シャーンがラヴィンに向けて放った死の呪いを、《月の谷》の女王ミルディンが、ラヴィンの時を凍結するという手段によって封じたのだ。
《冥府の鍵》が何人たりとも逃れ得ぬ呪いである以上、ミルディンの力が尽き、止まっている時間が再び流れ始めたその時こそ、名高い竜騎士の最期となるのはわかっている。
が、それは結界が閉じた後、彼女の力の及ばぬ場所で起こるだろう。
「どうしてくれるの、ジェレアク?」
口の中で呟くが、今おおっぴらに彼を責める訳にはいかない。二人が初めからシャーンとアルスラヴィンを対決させ、その相打ちを狙っていたなど、一族の他の者に知られてはならないのだ。
ましてや、今回の一幕には夜頃子供達のやる事に無関心な父王が首を突っ込んできている。
「あの人が考えている事なんてわかりはしないけど……」
それでも、エリシャはこう推測していた。
闇の王として様々な特権・道具を駆使できる彼がその気になれば、宮殿内からでも一部始終を見届けることは可能なはず。それをわざわざ人界にまで出向いてきたという事は何か……おそらくはエリシャにも全貌の掴めていないジェレアクの計略に対する
「おまえのやろうとしている事に気づいているが、やらせてやっているのだ」
という遠回しな威圧ではないか? と。
そんな状態で少しでも危ない橋を渡るわけにはいかない。彼らの父は自らの統治を脅かす存在を決して許さない。相手が妻であれ、子供であれ、反逆者に容赦するなどあり得ないのだ。
『エリシャ。聞こえるか? エリシャ』
『ええ、聞こえてるわ、ヘルヴァルド』
『シャーンが……』
『わかってる。……でも、今はおとなしく引き揚げましょう。もう、彼の為にできる事は何もないわ』
ヘルヴァルドからの心話には哀しみが感じられる。闇の一族にも確かに愛というものが存在するのだ。
(私も、もっと何か感じるべきなのかしらね、シャーン? あなたは私の為に戦ってくれたのだもの。たとえ、自分の愚かさと誇りの為に死んだのだとしても)
(ヴァーガ・ジュードよ。感じたか? ウェリアが震え慄いたのを。
――あの碑石こそ我が望みへの道しるべ。
エリシャ、レダニア……そして父上。アンタ達は俺がやった事に気付いているかもしれない。だが……)
ランドグリーズに手をかけ、《月の谷》を見渡したジェレアクの視線の先に何があるのだろう。
闇に属するすべての者が引き揚げた今、戦いの始まりを告げた魔槍が引き抜かれる。
東の地平近く、暁の星が瞬き始め、夜が黒から藍、濃紫へとその色を移してゆく。
細長い銀緑の葉に露を宿した月香樹の白い幹が、立ち並ぶ墓標のように見えたその夜明け。千年の齢を重ねた銀竜は、生きているとも死んでいるとも言えぬ友の傍らで、長い首をうなだれていた。
深い深い森の奥、曙光も射さぬ葉隠れで、闇の碑石が触手を伸ばす。
それは黒い染みのように大地を穢し、じわり、じわりと拡がっていった。侵されたすべてのものが変貌し、瘴気を放つ黒い円。
それが何を意味するものなのか――ジェレアクですら熟知しているとは言えぬ。
そう、すべてを知る者は誰もいない――
※一スパン(十八センチ)
来週からは「闇の碑石」の後話「銀の雨」というラヴァスの過去話をUPしていきます。
少しでもこの作品に好感を持っていただけたら、下の★をクリックしていただけると嬉しいです。感想大歓迎。




