01
静かな水面の中央に衝撃が加わり、漣となって映されていた画像を飲み込んでいく。
闇の泉の水をたたえた水盤から顔を上げたジェレアクは冷たい笑いに口元をゆがませて足早に《遠見の間》を去った。
発見けた!
とうとう、鍵となるものを探し出した。ジェレアクの頭の中であたためていた計画が急速に具体性を帯び、それが成った暁に手に入れるであろうものへの思いが胸を高鳴らせる。歩速を変える事なく、ベルトに下げた小さな革袋を握りしめて呟いた。
「ヴァーガ・ジュード、感謝するよ。おまえの忠告がなければこいつの使い道など思いつきもしなかっただろう」
《奈落》からの帰還以来、肌身離さず持ち歩いているそれには彼の妄執――裏切りと死と再生とを体験した彼の恨みと苦痛と望みのすべてが凝り固まったもの――が収まっているのだ。
廊下の先の扉が開き、宮殿の磨き上げられた黒大理石の床を掃くような、長いスカートをはいたエリシャが現れた。
背丈の中程まである闇色というよりは艶やかな漆黒の髪。切り下げた前髪から見え隠れする類い稀な頭脳のつまった白い額。わずかに緑がかった憂いを秘めた黒い瞳。まだ少女から抜けきらない華奢な体つきだが、既に男を惑わす美しさを備えている。
「あら、ジェレアクお兄様……」
彼女は血縁関係を誇示するように殊更にお兄様を強調した。まさか自分が保護を必要とする、か弱い妹だなどと彼に訴えるつもりでもあるまいに。
「お久しぶり。珍しいわね、こちらの棟にいらっしゃるなんて。
近頃は人界をうろつかれているのでなければ、《遠見の間》か《知識の塔》に籠っていらっしゃったのじゃなくて?」
「賢い妹はなんでもお見通しって訳か?」
「どなたが私の事を賢い、なんて言ってくださったのかしら? まだ百歳にもならない青二才には相応しからぬ、お褒めの言葉だわ」
「賢さと歳は関係ないさ。知識ばかり溜め込んで偉くなったように勘違いしている年寄りはたくさんいる。知恵と知識はまったくの別物だ。
ま、おまえの場合はどちらも持ち合わせているようだが」
エリシャはジェレアクの言葉を否定も肯定もせずに微笑んだ。その眼差しには親しみが込められ、ジェレアクは遠い昔の、まだ二人の間に争いもわだかまりもなかった頃を思い浮かべる。
確かに彼女は彼の事を好いてさえいるのかもしれない。彼が彼女を可愛いと思わずにいられないのと同様に。
「今思いついたのだけれど、ひょっとして私に用がおありなんじゃなくて?」
彼女の考えは当たっていた。宮殿の北翼は主に女達が使っていて、誰かに逢う為でなければジェレアクがこちらへ来る用はない。
「ご明察。やはり君は我が一族最高の賢者だよ」
「あなたを除いて、でしょ?
こんな所で立ち話もなんだわ。居間の方へどうぞ」
エリシャは最前出てきた部屋と続き間になっている隣の扉へとジェレアクを招じ入れた。
「どこかへ行くところだったんじゃないのか?」
「お部屋に飾るのに庭園の薔薇を摘みに行こうと思っていただけよ。召使いにやらせるより、自分で花を選ぶ方が好きなの」
「君らしいな」
ジェレアクは朽ち葉色をした絨毯が敷かれ、季節ごとの木の葉のように微妙に色合いの違う大小様々な形のクッションが散らばる室内を見回した。この前――と言っても十年以上前だが――来た時とはずいぶん趣が異なっている。
家具といえば木目をそのままに残した低い食卓があるきりで、あとは柳の籠がいくつか無造作に置かれているだけ。部屋の四隅に斑入りの葉を持つ鉢植えの植物。
そして北側の壁三分の一ほどを占める大きな暖炉には目を楽しませるだけの幻影ではなく、鉄の支えに載せられた本物の丸太がパチパチと音をたてて燃えていた。黄と橙、その中間の様々な色合いの炎が踊り、時おり細かな火の粉が舞う。
「靴を脱いでくつろいでちょうだい。今お茶の用意をさせるわ」
言って、口の中で何やら呟く。魔法で厨房の担当者に指示を伝えているのだろう。
ジェレアクはやわらかな黒革の長靴を脱いで、クッションのひとつに腰をおろした。
食卓の上には小さな硝子の器が載り、茎のない薔薇が一輪、水に浮かんでいる。
「靴下も脱いじゃえば? この絨毯、素足で踏むととても気持ちいいのよ」
エリシャは布製のサンダルを行儀悪く脱ぎ捨て、ひときわ大きなクッションに倒れ込んだ。
「ふうっ……」
クッションをいくつも引き寄せて寄りかかり、なかば寝そべったような格好で座る。
「変わった趣味だな」
靴下を脱ぎ、足を組み直した。確かに素足に絨毯の感触が心地良い。
「こうやって、低い位置から周りを見ると、同じ部屋でもいつもと違って見えると思わない?」
「まあ、そういう事もあるかもしれない」
ジェレアクはエリシャが何を言いたいのか計りかねて曖昧な返事をした。
「視点を変える、というのはとても大事な事だと思うわ。前や後ろ右左、上や下を視るだけじゃなく、時には寝そべったり、背伸びしたりしてね。……あ、お茶がきたようだわ」
扉を叩く音がして、エリシャは立ち上がり、自分で戸口まで行って召使いから茶道具の載った盆を受け取った。
「最近自分でお茶を煎れるのに凝ってるの。その時の気分で何種類かのお茶を混ぜ合わせたり、微妙な蒸らし時間を加減したりしてね」
言いながら素早くいくつか瓶の蓋を開け、銀の茶匙で茶葉をすくっては魔法で温められた白磁のポットにいれていく。これまた魔法が働いている錫のポットから注がれた湯は沸騰したてだった。
二人ともに無言のままに蒸らしが終わり、ジェレアクは茶を注ぐエリシャの所作が綺麗だと感じている自分に気づく。
「どうぞ」
飾り気のない白い茶器に紅玉のように紅く澄んだ茶が香った。
「うまい!」
一口すすって、つぶやいた。甘やかで、それでいてすっきりとした不思議な味だ。
「でしょう? ……さて、これでもうあなたは私の虜ね。毎日このお茶が飲みたいばかりに私の頼みはなんでもきいてくれるの」
エリシャの眼が悪戯っぽく輝き、桜桃のような唇からクスクス笑いがこぼれる。
「次は君が僕の頼みをきいてくれる番だと思っていたんだが」
エリシャはゆっくりと茶を味わってから応えた。
「私にはあなたに借りがある、って言いたいの?」
「九年……僕が君の為に失った月日だ」
「私の為?」
さも不思議そうに首を傾けてジェレアクを見る。
「何か勘違いしていない? 私はあなたの首を刎ねた訳でもその命令をくだした訳でもないわ」
(そうなるようにお膳立てしたのは、おまえだろうに……)
「傍観が罪になると言われればそれまでだけど、あなたの体が妖魔達に引き裂かれて堆屍穴に投げ込まれた時には、それはお気の毒に思ったものよ」
(なるほど、死んだ後の躰がどう扱われたかなんて気にもしなかったが……。一部始終を見ていたのか。……さぞ満足したんだろうな)
「なら、そのお気の毒な兄に同情してもらえないか。おまえの力が借りたい」
「私、ただ働きはしない事にしているの。それに、どうしてあなたが私の足下をすくおうとしているのを知っていて力を貸すなんて思うの?」
「おまえが僕に何の悪さもしていないと言うのなら、おまえを陥れる必要はないだろう?」
「さあね、世の中には勘違いや、逆恨みという言葉もあるから。あなたが誰かから間違った情報を吹き込まれて、覚えのない私の罪を裁こうとする可能性だってあるわ。
現にさっきあなたは私のせいで失ったものがあると言ったばかりだし」
「前言を取り消すつもりはない。俺にはおまえがあの一件に荷担していたと信じる根拠がある。
が、今回の頼み事はおまえに不都合が生じるものじゃあないし、望みならそれなりの見返りも用意するつもりだ」
「今回は、という事ね?」
「それで充分だろう」
「そうね。それ以上を確約されていたらとても信じる気になれなかったでしょうね」
エリシャはジェレアクの夜よりも深い暗色の瞳をまっすぐにのぞき込んだ。
「で、私に何をやらせたいのかしら?」
「闇の碑石」は単独で楽しんでいただけるように書いているつもりですが、話の大きな流れとしては「奈落」からジェレアクが帰還して三年後、ウェリガナイザシリーズの時系列順で二番目のエピソードです。
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