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追憶の花園

春の訪れを告げる、うっとりするような清々しい風が、静かな街路を吹き渡っていた。路面に残る水たまりが、きらきらと光を弾いている。澄んだ青空に散りばめられた白い雲は、まるで桜の花びらが舞うかのようだった。優雅に揺れる桜の枝を見上げれば、ひとひらの花弁がヒラヒラと舞い落ちてくるのが見える。この季節の移り変わりと共に、私の心に去来するのは、かけがえのない思い出の数々――。


高校時代の三年間を思い返せば、私は心に秘めた恋心を胸に抱え、気がかりで揉めくれた日々を過ごしていた。雨に打たれた放課後の教室で、一人きり窓の外を眺めていると、校庭の一角に咲く八重桜が赤紫の色を湛えて輝いていた。雨粒が花びらを打つ音が、心に沁みるように聞こえた。雨音を背景に、そんな花々を眺めながら、私はいつも同じ想いを巡らせていた。


ある、どんよりとした雨の日。校門を潜り抜けようとすると、背後から誰かに呼び止められた。


「あ、待ってて。一緒に行こう」


振り返ると、そこに佇んでいたのは、私の想いを寄せていたあの人だった。水を撥ね散らしながら、彼は私に向かって弾けるような笑顔を見せていた。鋭い眼光の奥に、いくらかの困惑が覗いているようにも見えた。周りに気付かれぬよう、たった今この瞬間、恋しき人と二人きりになれたことに、私の心臓は高鳴りを強めた。額から額からあふれ出る汗を拭きながら、内心、狼狽していることだろう。


「ここ、濡れちゃうから」


言葉を済ませるなり、彼は私の頭上に大きな傘を差し伸べてくれた。強い雨に打たれながらも、優しげな微笑みを浮かべている。


どぎまぎしつつも、私はその小さな隙間に身を置いた。肩と肩が触れ合う至近距離に、切ないほどの高揚を感じていた。匂いを予め意識したことはなかったが、彼から漂う男性的な雫とシャンプーの香りに酔いしれてしまった。しとどに降り注ぐ雨から逃れて、一層小さなスペースに身を寄せ合えば、互いの吐息が頬に触れる。


それがきっかけとなり、私たちは次第に距離を縮めていった。学校の時間割が空いている放課後には、教室の席を並べて読書したり、校庭の芝生に寝転んで、夕暮れの空を見上げながら夢を語り合ったりと、互いの内面を知るようになっていく。雨の日も晴れた日も、二人は部活を放り出して、ただ共に時を過ごすことだけに耽っていた。周りからは白けた視線を向けられることもあったが、その何物にも代え難い経験に私達は心を焦がしていた。


しかし、そんな甘い毎日にも、一抹の暗い影がさしかかっていた。私たちには、この先が見えていなかったのだ。学年を超えた先にそびえ立つ、超えられない垣根があった。先に卒業することになる彼は、就職先が遠く離れた土地であった。


そのことを知った時から、私の心は重く痛々しく裂けそうだった。好きだった相手との別離を考えるにつけ、胸が締め付けられるようで、悲しみの淵から這い上がれなくなった。目に涙がうっすら浮かび、それがこぼれ落ちることもしばしばだった。


「ねえ、ここで花が咲いたら、また会おう」


卒業を間近に控えたある日、彼がそう言った。私たちの馴れ親しんだあの場所を指差しながら。約束の言葉に、私は無言で頷いた。それ以上の言葉が出せなかった。きっと二人は、花がその場所に咲いても咲かなくても、また出会えることを願っていたに違いない。


それから幾年もの月日が経ち、私も立派な社会人となっていた。職場や人間関係に起因するささいなできごとがきっかけとなり、ふとしたある日、あの日の約束を思い出した。懐かしさと共に一抹の後悔と寂しさが私の心を締め付けた。一度あの場所に足を運んでみようと決心した。


母校の高校へと通う道すがら、昔と変わらぬ光景が広がっていた。四季の移り変わりとともに住民も入れ替わり、新しい命が街に生まれては去っていく。しかし、ここだけは時間が止まったかのように、なつかしい情景が色濃く残されていた。


人々の往来の途絶えた日曜日の午後、校門に佇んでみると、校庭の一角に当時の花園が残されていた。そこはかつて、私が彼とよく過ごしていた場所だった。ちょうど満開の桜が、そよ風にゆられながら舞っている。枝からはらりと落ちた花弁が、私の頭から肩へとふわりと舞い落ちてくる。花の甘い香りが鼻をつんざくように漂っている。


周りを見渡せば、昔とほとんど変わらぬ情景が広がっていた。柵の傷み具合、池の中の小魚の住処、芝生の青さなど、目に飛び込んでくる一つひとつの景色が、あの頃の記憶を呼び起こす。あれから何年もの歳月が流れたことを改めて実感する。


幼き日の思い出がよみがえり、胸が苦しくなるも切ない気持ちと、静かな安らぎが私の内側で交錯した。あの彼との約束を、こうして佇むことで守り続けていたのだと気付く。時を経ても変わらずにあるこの場所に寄り添えば、かけがえのない思い出がよみがえるのだった。


花園に足を踏み入れ、私はしばしその場に佇んでみた。風に乗って舞い散る花びらに目をやれば、一瞬のうちに地面に積もり始める。幾重にも重なり、まるで絨毯のような景色が目の前に広がっていく。


やがて、遠くの方から見知った人影が歩いてくるのが見えた。遠目に見分けがつかなくとも、しだいにその歩き姿から、かつての面影をはっきりと感じ取ることができた。それは、年月を経た今となっては成熟した大人の男性になっていたが、高校時代を思い起こさせてくれた。


私の視線に気づくや否や、彼もまた立ち止まり、この場所に佇んでいる私を認めた。驚きの表情から、次第に温かな眼差しに変わり、やがては懐かしげな、穏やかな微笑みを浮かべるに至った。


互いに黙したまま、ゆっくりと歩み寄る。そして自然と手を取り合った。言葉は何も交わさずに、ただ二人で花園に佇んだ。間近で見る彼の表情が、当時の面影をそのままに宿していることに、時が経っても変わらぬ心の繋がりを確信した。


そうしてしばし、この場所に舞い散る散り椿を、じっと見つめ合った。些細な会話を交わすことなく、ただ春風に乗って舞う花々に見入るだけで充分だった。終わりなき追憶のために、共に心を酔わせていく。

枝から枝へと移ろい、やがては地上へと舞い落ちていく桜の命もまた、いつか私たちと同じ運命を辿ることだろう。しかし、その美しさに酔いしれ、輝きに心を打たれた思い出はいつまでも心に残り続ける。あの日の約束通り、やがてまた会えると確信した喜びと、時を共に過ごせたことへの充足感に、私たちは包まれていた。

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