虹色の春
春の訪れを知らせる朝日が、柔らかな光を差し込ませた。
ミナは目を覚まし、ゆったりとした幸せな気分に浸っていた。そう、今日は特別な日なのだ。20年の年月を経て待ち望んでいた日が、ようやく巡ってきたのだ。
ミナはベッドから起き上がり、ゆっくりと準備を始めた。シャワーを浴び、ささくれだった手足の肌を丹念に磨いた。ドレッサーの前に腰を下ろし、なじみ深い香りの化粧品で顔を伊達する。そしてドレスを丁寧に着用し、ハイヒールを履いた。
30年も前に購入したこのドレスは、色あせてはいたがまだ着られる。ミナは鏡の前で自分の姿を見つめ、満足げな表情を浮かべた。
ミナは部屋を出て、廊下を歩いた。施設の中は朝の光で柔らかく照らされていた。一人ひとりの部屋から、それぞれの朝の営みが聞こえてくる。
レストランに着くと、テーブルが並べられ、スタッフが笑顔でミナを出迎えた。
「おはようございます、ミナさん。きれいな服装ですね」
「ありがとう。久しぶりに思い切って着てみたの」
ミナはテーブルに着き、メニューを手に取った。
「本日は何をご注文なさいますか?」
スタッフが尋ねると、ミナは明るく答えた。
「フルコースをお願いしますわ。20年ぶりのデートなんですから」
そう言ってミナは小さく口元を引き上げた。スタッフもまた、ミナの言葉に合わせてほほ笑んだ。
しばらくして、前菜が運ばれてきた。香り高いスープと、カラフルなサラダを前に、ミナの心は踊り出した。
20年前、ミナの夫ジョージは認知症になってしまった。当時2人で有名レストランに通っていただけに、ジョージが徐々に記憶を無くしていく様は心痛むばかりだった。
介護が一人では限界に来た頃、2人はここの施設に入居した。ジョージのための専門的なケアを受けながら、ミナも一緒に暮らすことにしたのだ。
けれどいくらミナが寄り添おうとしても、ジョージとの思い出が遠のいていく現実が悲しかった。
ある日、レストランで食事をしていると、ジョージが唐突にミナに向かって、
「君は私の妻?君の名前は?」
そう尋ねた。ミナは笑顔を作ろうと必死で、涙が込み上げてくるのを堪えた。
「私はミナよ。君の妻のミナ。20年も一緒にいるのに、わかりますか?」
しかしジョージは首を横に振るばかりだった。その時ミナは決心した。ジョージにとって思い出が大切なのなら、思い出を作り続けることだ。ジョージの記憶を尊重し、一期一会を心がける。そうすれば、またジョージと出会えるかもしれない。
それからミナはその日その日を、デートをしているかのように過ごすようになった。ジョージにとってこの施設は、デートするレストランなのだと。
ある時はジョージが花束を渡し、ある時はミナが手づくりの料理を持ってきた。時にはプロムのように踊りもした。
ジョージの認知症は進行し、最近ではミナさえ見分けられない日が増えた。でも気にしないことにした。ミナはそのたびにジョージを新たな人として出会い直し、デートを重ねていった。
やがてジョージは98歳で亡くなった。しかし、ミナはこの20年を後悔したりしなかった。ジョージに寄り添い、ジョージと出会い続けられた時間は、かけがえのない宝物なのだ。
そしてついに今日、20年目のデートの日が巡ってきた。目の前にメインディッシュが運ばれてきた。
「ごちそうさまでした」
ミナは口々に呟きながら、ナイフとフォークを手に取った。きっと元気なジョージなら、こんな風においしそうに食べただろう。
ミナは施設のレストランで、ひとりでゆったりと食事をした。心に浮かぶのは、あの頃のジョージの笑顔と、20年に渡る思い出の数々。幸せなデートの連続だった。
窓の外、春の訪れを告げる梨の花が揺れる朗らかな風に吹かれていた。ミナの目からは、虹色の一滴が伝った。
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