郷愁の行方
ひっそりと佇む駅舎の前で、俺はしばし立ち尽くしていた。10年ぶりの里帰りだ。思い出の町並みが目に映る。古びた建物に描かれた広告の文字、細い路地裏に立つ長屋。何も変わっていないようで、確かに時は過ぎ去っていた。
改札を抜けると、ホームにはかつてと変わらぬ情景が広がっていた。発着する電車の音、放送の声、行き交う人々の足音。耳に残る記憶の中の音がそこにあった。思わずホッとする穏やかな気持ちと、なぜか胸が締め付けられるようなモヤモヤした気分が入り交じった。
俺は自動券売機でチケットを買い、故郷への路を歩き始めた。窓ガラスに揺れるたるんだ看板の文字。かつては親しみを感じていた町の様々な店。八百屋さん、パン屋さん、雑貨屋さん。それでもなつかしさよりも、なぜか寂しさの方が勝った。
しばらく歩くと、目に留まったのは小学校の校舎だった。運動場の向こうに見える木々は私が記憶する以上に大きく茂っていた。クラスの皆の顔が浮かんできて、つい微笑んでしまった。あの無邪気で幸せな日々が、もうとうに過ぎ去ってしまったことに気づかされる。
中学、高校時代のことも思い返す。部活の思い出、友人たちとはしゃいだ日々、初恋の人との出来事。あれだけ大きく感じていた喜怒哀楽が、今となっては小さな穴から覗いたようにちっぽけに映る。でも当時は本当に尽きることのない充実感と生きる喜びに満ちていた。
学生時代の思い出に浸りながら、俺はひとつ目的地に着いた。母の実家のあった路地裏だ。木造アパートに代わって立つ鉄筋コンクリートのマンションを前に、胸が潰れそうになった。庭先に折り重なる陽射しと木漏れ日。夕暮れ時に聞こえてくる銭形平次の独り言。そんな情景が走馬灯のように蘇ってくる。
「ひさしぶりだね、龍太郎君」
背後から聞こえた女性の声に、私は我に返った。振り返ると、そこにはかつてクラス委員を務めていた佐伯祥子の姿があった。華奢な体つきは変わらずだが、大人の女性の佇まいを感じさせた。
「佐伯か?久しぶりだな」
私は口調を引き締めて言った。佐伯は優しい笑みを浮かべながら、こう続けた。
「龍太郎君も相変わらず無愛想ね。あの頃と同じ、厳つい男」
「そういうんじゃない。ただ、こうしてあのアパートがなくなっているのを見ると寂しくなるんだ」
母の実家は昔ながらの木造アパートだった。庭には季節の花が植えられ、夏休みになると祖父母と過ごすのが楽しみだったっけ。庭で遊んだり、昔話を聞いたり。たわいもない日常がいつまでも続くと思っていた。
「そうね。でもそこは思い出に残るべき場所でしょう。記憶の中でずっと輝き続けるわ」
佐伯の言葉に、私は気付かされた。確かに辛い思い出もあった。祖父の入院、母の介護で疲れ切った日々。でも幸せな瞬間の方がはるかに多かった。失われたものを嘆くよりも、今を大切にしないといけない。
「そうだな。ごめん、また懐かしさに押しつぶされそうになっていた」
「龍太郎君らしいところよ。記憶ばかり追いかけて、いつまでも前を向けないからね」
佐伯の言葉に、苦笑するしかなかった。私は本当に前を向いて生きられていたのだろうか。都会での生活は多忙を極め、目の前の仕事以外見えなくなっていた。たまに実家に帰る度に、こうしてノスタルジーに浸ってしまう。
「俺はこの町を離れて、都会で働いているんだ。でも実家に帰るたび、昔に逆戻りしてしまうんだ」
「だったら、どうするの?その足を動かし続けるの?」
佐伯は手酷く問うていた。答えに窮した俺は、しばし黙り込んでしまった。
これまでの人生を振り返ると、目標達成のために必死になり過ぎてしまった。仕事に没頭するあまり、大切なものを見失っていた。家族、友人、自分自身。そう考えると、この町に残りたくなる気持ちもわいてきた。実家を守り、この街で穏やかな生活を送りたい。
しかし、もうひと思いをめぐらせてみる。俺の本当の目的は見失っていない。夢を叶えるために這い上がってきた。今更それを投げ捨てるわけにはいかない。きっと両立する方法があるはずだ。
「分からない。でも、もうこの町に留まるつもりはない」
「そう。ならば前に進めばいい。新しい景色を求めて歩き続ければね」
佐伯は優しく、しかし厳しい言葉を私に投げかけた。そうだ、これ以上過去に囚われてはいけない。私には歩み続ける道がある。夢を叶えるための道しるべがまだ先に残されている。
「ありがとう、佐伯。久しぶりに良い言葉を聞けた」
「そう。でも、あまり無理しないでね」佐伯は心配そうに俺を見た。「龍太郎君が壊れちゃ、みんな悲しむわ」
佐伯は微笑みながら、路地裏に消えていった。あの頃の面影が見え隠れしたが、それでも佐伯は前を向いて歩いていく。そうすることで、新しい明日が待っている。
俺は深く息を吐き、足を進め始めた。今日の目的地はこれでおしまいだ。だが人生にはまだ数々の目的地が控えている。佐伯の言葉を胸に刻みながら、俺は次なる旅路へと旅立った。
ホームに立ち、発車を待つ。都会への帰り路は決して楽ではない。しかし俺には目標がある。それを胸に刻み、前に進み続けなければならない。そうすれば、きっと夢が掴める。そんな決意を新たにしながら、俺は列車に乗り込んだ。