時の狭間で
雨音が窓を打つ音が、静かな部屋に響いていた。真夜中を過ぎた時計の針が、ゆっくりと時を刻んでいく。机に向かって座る私の目の前には、古びた懐中時計が置かれている。祖父の形見だ。
私の名前は佐藤美咲。28歳、平凡なOLとして日々を過ごしている。特筆すべきこともない人生だったが、この懐中時計との出会いが、私の人生を一変させることになるとは、まだ知る由もなかった。
祖父が亡くなってから1年が経っていた。遺品整理の際に見つけたこの懐中時計を、祖母が私にくれたのだ。
「あなたのお祖父さんが大切にしていたものよ。きっと何か特別な思い出があるんでしょうね」
と言って。
懐中時計は動いていなかった。修理に出そうかとも考えたが、なぜか躊躇していた。そんな時、ふとした衝動で時計の裏蓋を開けてみた。するとそこには、小さな紙片が挟まっていた。
紙片には、祖父の筆跡で次のように書かれていた。
「時の狭間を覗きたければ、真夜中の鐘が鳴り響く時、この時計の針を逆に12回まわすがよい」
意味の分からない言葉だったが、私の好奇心は抑えきれなかった。その夜、私は懐中時計を手に、真夜中の到来を待った。
時計が0時を指す瞬間、私は恐る恐る懐中時計の針を逆に回し始めた。1回、2回、3回...12回目を数え終えた瞬間、目の前の景色が歪み始めた。
気がつくと、私は見知らぬ街に立っていた。周りを見回すと、そこは昭和初期の日本のようだった。着物姿の人々が行き交い、路地には古い看板が並んでいる。まるで、タイムスリップしたかのような光景だった。
驚きに目を丸くしていると、ふいに誰かが私の肩をたたいた。振り返ると、若い男性が立っていた。
「やあ、君か。待っていたよ」
その男性は、若かりし日の祖父だった。
「お、お祖父さん?」
思わず声が出た。
祖父は優しく微笑んだ。
「そうだよ、美咲。よく来てくれた。君に会いたかったんだ」
私は混乱していた。
「どうして...私がここにいることを知っているの?」
「この時計には、時を超える力があるんだ。僕は若い頃、偶然この時計を手に入れて、その力を知った。そして、未来の自分の孫娘に会えると知ったんだ」
祖父は説明した。
「でも、どうして私に会いたかったの?」
私は尋ねた。
祖父は少し考え込むような表情をした後、ゆっくりと話し始めた。
「美咲、君は自分の人生に満足しているかい?」
その質問に、私は答えに窮した。確かに、今の生活に不満はない。でも、本当にこれでいいのだろうか。心のどこかで、もっと自分らしく生きたいという思いがあることに気づいた。
「正直...分からないわ」
私は正直に答えた。
祖父は優しく微笑んだ。
「そうか。実は僕も君と同じ年頃の時、同じように悩んでいたんだ。でも、この時計のおかげで、未来の自分に会う機会を得たんだ。そして、自分の人生を変える決心をした」
「どんな決心を?」
私は興味深く尋ねた。
「夢を追うことさ。僕は絵を描くのが好きだった。でも、両親の反対もあって、普通のサラリーマンになるつもりだった。けれど、未来の自分に会って、自分の作品が美術館に飾られているのを見たんだ。それで決心したよ。画家になろうって」
私は驚いた。祖父が若い頃、画家を目指していたなんて知らなかった。
「でも、お祖父さん。私が知っているお祖父さんは、大企業で働いていたはず...」
祖父は少し寂しそうな表情を浮かべた。
「ああ、そうか。どうやら僕は夢を諦めてしまったようだね。だからこそ、君に会いたかったんだ。君には、自分の夢を追ってほしい」
その言葉に、私の心に何かが響いた。そうだ、私にも叶えたい夢があった。作家になりたいという夢だ。でも、安定した今の生活を捨てるのが怖くて、一歩を踏み出せずにいた。
「お祖父さん、ありがとう。私...決めたわ。作家になる」
私は強く言った。
祖父は満面の笑みを浮かべた。
「それでこそ僕の孫だ。さあ、もう戻る時間だ。未来で会おう」
言葉を交わす間もなく、景色が再び歪み始めた。目を開けると、私は自分の部屋に戻っていた。懐中時計は、静かに時を刻み始めていた。
翌日、私は会社に辞表を提出した。そして、長年温めていた小説の執筆に取り掛かった。不安もあったが、祖父との約束を胸に、前を向いて歩み始めた。
それから5年後、私の小説がベストセラーになった。出版記念パーティーの日、ふと会場の隅に目をやると、にっこりと微笑む祖父の姿が見えた気がした。
私は心の中でつぶやいた。
「ありがとう、お祖父さん。私、夢を叶えたよ」
懐中時計は、今も私の机の上で静かに時を刻んでいる。時々、真夜中になると、どこからともなく鐘の音が聞こえてくるような気がする。そんな時、私は微笑みながら思う。
時の狭間は、いつでも私たちの傍らにある。大切なのは、その扉を開く勇気を持つこと。そして、自分の人生を自分の手で切り開いていくこと。
私の新しい物語は、まだ始まったばかりだ。
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