魅惑の陽炎
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ほう、最近は冬場でもときどき、陽炎が見られるようになってきたかな。
ひと昔前まで、陽炎は暖かい時期にのみ観測されるもの、という印象だったんだよ。季語も春だしね。
それがいまは道路が舗装されるし、車などの排熱も多いしで、はからずも陽炎ができやすい環境が整ってしまっているのが、昨今の季節を問わない陽炎事情らしい。
現代において神秘が遠ざかったのは、かえってこのような事情があるためかもしれないな。
あやかしの仕業によってしか起こりえないはずの、時季外れ、場所外れの現象。それがさも、当たり前かのようにはびこる世じゃ、区別がつかなくなってくる。
見慣れたものは飽きを呼び、興味を損ない、意識を遠ざけるだろう。大人になって賢しくなれば、もはや近寄ることもしない。
たまたま神秘に出会ったと語る子供の言葉も、耳と心に障るものに成り下がる。
ゆえに、これも子供が体験したという不思議な話だ。聞いてみないかい?
少し昔の、とあるところで。
連休の入りの日に、子供たちが遊びのために公園へ集まったんだ。
面子はほぼ固まっていたから、誰が来ていないかはすぐに分かる。その日は、いつもなら早めに来ているはずの子供のひとりが、なかなかやってこずにいた。
家は遠かったから、何かしら事故にでもあった恐れもある。皆は気をもんでいたが、やがて集合場所の広場にやってきた彼の姿に、大半が目を剥いたという。
よたよたと歩み寄ってくる彼は、でっぷりと太っていた。
昨日までは、真逆のしゅっとスリムな体型だったというのに、いまや歩くたびにズボンからはみ出るシャツの裾から、山のように腹の皮が張り出している。
しかし、彼の表情に苦しげなものはない。むしろ幸せそうなものをたたえ、状況が許せばそのままコテンと横になり、眠ってしまうのではないかと思う気配。
よほどのことがなければこうはなるまいと、友達がわけを尋ねたところ、彼はこう答えたのだそうだ。
「陽炎をたらふく食べてきた」と。
ことの起こりは、ここへ来るまでの道の途中。
家々の角を曲がった彼は、ふと目の前に立つ陽炎に足を止めた。
建物の影になり、直前まで見えていなかったとはいえ、角を曲がるや目にする陽炎は、道いっぱいに幕のごとく立ちふさがっていた。
揺らめく景色を前に、一瞬だけ躊躇するも、すぐ通り抜けようとした彼。だがその陽炎が視界いっぱいに広がったタイミングで、ふと近くの家からバニラアイスの香りがしたんだ。
実際はバニラエッセンスとかだったかもしれないが、友達の脳裏を占めるのは、アイスの溶けゆく舌触り。
――アイス食いてえ。
それが頭によぎるまま、ひょいと陽炎群を越える友達。
通りすぎて、ついぴたりと足を止め、振り返った。
鼻をついたバニラの匂い。それを内へとどめたまま、陽炎を抜け際に舌をなぞったのは間違いなくバニラアイスの甘味だったのだから。
思わず手を口にやってしまう。舌や口内に、バニラの香りはない。白っぽいものなどもついていない。
なのに、あの味は確かに……。
たたずむ目前の陽炎に、また突っ込んでみた。先ほどと同じ、アイスのことを考えながら。
そしてかなった。
また陽炎が視界いっぱいに広がり、その幕を自分の顔が過ぎる瞬間、またバニラの味が口いっぱいを支配した。
何度も行き来し、つどイメージするものを変えながら、彼は確信する。
この陽炎は、自分の想像した味を触れる際に再現するのだと。
そう判断した食べ盛りの子供が、簡単におさまりのつくはずがなかった。
陽炎の幕に重なるようにして、彼は道幅いっぱいに往来を繰り返す。その頭に、ありったけの好物を思い浮かべながら。
もはやどれだけの繰り返しか分からなくなったころ、彼は陽炎の幕がじょじょに消えていくことに気づいたらしい。同時に、自分のお腹がだらしなく張り出していくことにも。
――この陽炎、まじで食えるぞ!
満腹感も確かにある。彼はそうして幕をすべて食べつくすまでそこにいて、ようやくしとげたあと、ここへ来たらしい。
他のみんなはまゆにつばつけながら、この話を聞いていた。
もし話の通りで腹いっぱいなら、動きもにぶりににぶるはず。それがやせっぽちだった時よりも、おおむね機敏さを増している気さえして、「どーぴんぐ」などと疑惑をかける奴さえいる始末。
そうしてさんざんに活躍された皆は、やがて帰宅時間を迎えて、悠々と歩き去る彼の背中を見送ることになるが、目のいい数名は気づいた。
彼の姿がすっかり小さくなった数十メートル先で、彼が落とし物をしたというんだ。
身体から足元に、ぽとりと落ちたもの。見とがめて近寄ったとき、足を早め気味だった彼はすでに信号を渡り、道の向こう側へ小さくなっていく。車通りが多くて、とても信号無視して、追いすがることはできない。
そのうえ、彼の落とし物は目にした皆が、首を傾げるようなもの。
それはひと目に、赤く染まった長方形のタオルか雑巾のように思えた。
だが本体のみならず、周りに赤が飛び散っていて、あたかも水たまりの中に浮かんでいるかのようだ。
とても触る気になれないもので、皆が遠巻きに見るばかりだったが、ここでも目のいいものは気づいていた。
このぞうきんらしきものは、細長い管がなすもの。管がいくつも重なり、折り曲がりながら、弁当箱に詰めたかのごとく形を整えて、そこにあるのだということに。
翌日もまた遊ぶ約束をしていたが、集合時間になっても彼はこない。
昨日の話を聞いて、もしやと思う代表の子が彼を探しに行く。
あのとき話してくれた場所へ急行すると、果たして彼はそこにいた。
右へ左へ、いっぱいに往復する図体は、昨日にも増して大きくなっているように思える。
顔には喜色をたたえて、こぼれそうな笑みを浮かべながら、餌を求める魚のように口をしきりにパクパクさせていた。
じかに見る景色に、代表は「う」と息を漏らしてしまうも、思い切って彼を呼ぶ。
聞こえたらしい彼は足を止め、ややうっとおしそうな色へ表情を変えながら、こちらを向いて……。
できなかった。
顔だけこちらを向けたはずが、動いた身体が止まらない。
ぐっと顔をひねった拍子に、身体もぐるりとぞうきんを絞るように、ねじれていく。
一回転、二回転……足元をいささかも動かさないまま、身体のねじれは止まらない。
見る間に回転の勢いは増し、数を重ねるうちに太りきっていた彼の腹を含んだ胴体が、どんどん、どんどん細まっていく。そしてその細まりは、より上下にも広がって……。
彼が驚きの顔と共に、視線を下げたときには、もう遅かった。
顔そのものさえねじれに巻き込まれ、幾度も回転。足元もまたよじった糸を思わせる様相で、もはや靴先さえも針のよう。
あっけに取られる迎えの子の小指より、もっと細くなってしまったとき。
彼の身体は真ん中から、プチりと切れてしまう。
道路に横たわったもつかの間で、ひゅっと吹いた風が遠慮なく彼の身体を舞い上がらせた。
多少、色のついた糸のようになった彼のゆくえは、ようとして知れない。目撃した彼の話もとうてい信じてはもらえず、いまだに彼は見つかっていないのだそうだ。
あの時の彼の落とし物、ひょっとしたら彼の内臓の一部だったんじゃなかろうか。
彼は陽炎らしきものの誘惑に負け、ヤツの都合の良いよう、料理されてしまったのかもしれないな。




