『人は右/車は左』(詠み人知らず)
本作は恐らく、連作短歌の分類となる。
恐らくというのは、作者自身がこれを短歌だとは銘打っていないこと、そして概ね短歌らしい音数で綴られている中で定型崩しが多用されているためだ。
短歌において五七五七七の定型は絶対ではないと言え、定型を崩すには相応の理由が求められる。連作の場合はハードルが低くなる傾向もあるが、若干割合が多いため、あえて短歌・狂歌とも散文とも名乗っていないのであろうか。
短歌として数えれば23首。タイトルにある右と左を含め、その多くに「方向」が読み込まれている。
位置の対比によって読み込まれた風景を拡張する手法はどちらかと言えば現代短歌的で、画角の内の風景や内心を主とした万葉の歌には少ない。かの時代には「我から彼に」「旅から家に」と「点から点」を繋ぐことはあっても、無辺の風景を描く必要性がなかったのだ。大半は恋歌と日記なので。
例えば、万葉集で言うと、「春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る」(田氏真神)は霧によって果てを暈した先に、雲の見えない「どこか上の方向」から降る雪と、地面の見えない「どこか下の方向」を対比させることで場を包括した無辺を描いているけれど、これは宴の席で多人数が詠んだ『梅花の歌』という連作を包括する意味合いもあった。
短歌で無辺の方向を示すということは、その歌の外までを内包することとも言える。
以下、1首ずつ見ていく。