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ヴァーチャル歌評 『人は右、車は左』  作者: 住之江京
◆評者5

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109/111

人は右/車に乗った人も右/人に乗られた車は左


 人は右/車に乗った人も右/人に乗られた車は左



 結局の所、日本語にはbe動詞がないので、「存在」を最も普遍的な概念とする考え方には馴染まない。

 「存在」とは所詮、「領域を占有すること/もの」程度の意味でしかなく、多神教の一柱のように、数多ある概念の一つに過ぎない。

 あるいは、神から現象に――つまり助動詞に――凋落した、概念以下の背景とも言える。

 しかし「ousia」や「sein」は(それこそ神話のような話だが)領域以前の概念であって、他の概念に依らず「存在」するものだ。

 それが当たり前に使われる言語圏においては、どれだけ言葉を連ねても結局「"sein" sein "sein"」としか説明できない。正しく異言語、ゆえに正しく会話が成り立たないのも当然だろう。


 それは単なる選択と愛着の話なので、掘り下げれば大きな差は無いのだが、西洋文化ではこの「愛着」を別の名で呼び、殊更重視、あるいは神聖視する。

 これは地政的、宗教的な歴史も根深く関わることなので、仕方ないといえば、それまでだ。


 「車に乗った人」と「人に乗られた車」の境界は曖昧だ。所詮は何を主体にするかに左右される。

 同じ物を読んだはず、同じ文化で育ったはず、同じレベルの教育を受けたはずでも、その基準は揺れる。

 だからこそ人々は新たな思想を練り、新たな宗教を起こし、新たな政府を打ち立てる。

 軽薄を装った諦観。


 連作は愚痴に始まり、愚痴に終わる。

 最後に哀愁を残す一首。

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