3章
86
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『彼方の乙女よ。』
ケトーに並ぶナズールが声をかけると、彼の影が伸び、ずるりと1人の乙女が生まれる。
緩く頭を振って影を払うその姿は、艶のある黒く長い髪に、白磁の肌、頭には黒い羽兜、肘から先と膝から下には黒い部分鎧。
胸元にも黒い胸鎧をつけ、ふわりと広がる黒いスカート。全身真っ黒な中で、白い肌が印象的な美女だった。
彼女はするりと背後に手をやり、取り出してきた漆黒の弓を静かに構える。
「シェリン、ケトーの援護を。」
ナズールの言葉に、シェリンと呼ばれた闇精霊シェイドが頷く。
矢のない弓を掲げ、ジューナではなく空に向かって弓を引き絞り、ぱっと離した。
ビィン、という音が周囲に広がり、音の波が雨を弾いて広がる。
僅かに遅れて、ジューナは頭上にモヤを展開した。
そのモヤに叩きつけるように黒く細い矢が雨に混じって降り注ぐ。
そちらに意識をやったほんの瞬きの間で、ケトーが斧を振りかぶって駆け込んだ。
ガィン!
ケトーの斧を受け止めたのは見た事のある禍々しい斧。
「バジリスク…!」
禍々しい斧の刃の付け根にある濁った黄色の目がギョロリと動く。
焦点を定めるようにぎょろぎょろと周囲を見渡した目は、ケトーへと瞳孔を向けた。
斧の奥でジューナが笑う。
キン、という耳鳴りに近い音が斧から発され、ジューナは斧を盾にして目の視界から外れると、ガクリとケトーの斧の力が抜けて、押し切れると判断した彼女はぐっと力を込めて押し込む。
ギリギリと刃が滑る音と共に、もうあと一歩、と口元の笑みを深めた彼女の無防備な横腹に、小さな黒い玉がぽよんという気の抜けた音を立てて生まれた。
それを横目に見て、それが何かを理解した瞬間、込めていた力を抜いてバジリスクを手放し、足のバネを活かして跳ねる。
だが、その玉はそれを見越していたようにジューナに追従し、空中で動きの制限された彼女の腹に、ぴたりとくっついた。
ベコッ!
その玉は、ジューナの腹を食い破り、数本のあばら骨を砕いて、現れた時と同じように、唐突に消える。
「ぐぅっ!」
苦悶の声を上げ、鮮血を撒き散らしながら辛うじて地に降り立った彼女は、背筋を走る直感に従ってごろりと寝そべって転がる。
濡れた土が傷口に入るが、その痛みを堪えて顔を背ける。背けた後の地面には黒く細い矢が突き刺さり、彼女が転がった後にもまた、同様の矢で道筋が出来ていた。
痛む腹を押さえ、膝と頭を使って起き上がる。ぺたりと地面に尻もちをつき、忌々しげにナズールを睨みつけるジューナ。
「あなた、魔法の適性が低いんじゃなかったかしら…?今の、闇の禁忌魔法じゃない…。」
荒い息を吐きながら苦笑混じりにいう彼女に、構えた杖をそのままに、金の瞳に微かな疲労を滲ませながらナズールも笑う。
「なに、あれから10年、私もただ歳を食っていた訳では無い。」
ゴホッと、血とともに肺の空気を入れ替えたジューナは、ナズールから視線を外し、バジリスクの餌食になっているであろうケトーを探す。
地に落ちたバジリスクの傍らで突っ立ったままのケトーを見つけ、腹を押さえていた手に力を込めて魔力を流し、応急の処置をして立ち上がる。
魔力の消費が激しいナズールはひとまずは大丈夫だろうと警戒はしつつ、ケトーへと歩み寄る。
バジリスクの効果で、徐々に石化しつつあるはずのケトーの苦悶の顔を想像し、口元に笑みが浮かぶ。
そろりと手を伸ばして顔を見ようとした瞬間、
「ママ!だめ!」
遠くから聞こえた娘の声に思わずそちらを向いてしまったジューナの視界に、黒い影が横切る。咄嗟に後ろに飛んでその影を避けたが、ぼとりと彼女とケトーの間に2つの何かが落ちた。
それは、ジューナの2本の腕。
黒い影は、ケトーが振るった戦斧だった。
「え…?っ!?」
2本の腕を失い、バランスが取れなくなったジューナがたたらを踏んで、そのままどさりと座り込む。
「バジリスクを我が家に封じて10年、なんの対策もしていないとでも思うたか。」
隻眼を燃えるような青紫と、僅かに黒い影が覆う。
それでようやく気がつき、ナズールの傍らで大弓を引き絞る女性へと顔を向ける。
石化の呪いに対抗できるのは、呪いや毒に強い適正のある闇の精霊の領域。
ましてあの精霊は名を持つほどの上位精霊。
バジリスクは紛うことなき最上位の石化の呪いを有する魔戦斧ではある。だがそれでも闇精霊の加護を突破することは出来なかった。
そしてわざと動かないことでジューナの油断を誘い、両腕を持っていかれた。
瞬時にそれを理解したジューナは、失った両腕の肘から先に力を込め、黒緑色のモヤを纏わせる。ミシミシという音とともに、絡まった樹木の根のような腕が形成され、ドクドクと脈打つ。
ゆっくりと立ち上がり、斧を構えるケトー、弓を引き絞ったまま一挙一動を追うシェリン、杖を地に刺し、両手で支えながらぼそぼそと呪文を準備するナズールを睨みつける。
『深淵に眠ることを許されぬものよ、地に戻りて温かな血肉を喰らえ!デスナイト召喚!』
樹木の根のような腕を振るい、詠唱とともに足元に浮かぶ血色の魔法陣、そこからずるりと現れたのはケトーと同じぐらい大きなフルプレートの騎士だった。だが兜の奥の眼窩は窪み、赤い光を放つのみ。鼻をつく死臭に眉を寄せたケトーは斧を握り直してデスナイトへと振りかぶり、遠心力を加えた横薙の一撃を叩き込む。
右手に長剣、左手に大盾を構えたデスナイトは、斧の一撃を盾を構えて防ぐ。
ミシミシという金属が金属を押し込む嫌な音を響かせ、デスナイトの盾が真っ二つにへし折れた。
その勢いを殺さず、斧を振り切るケトー。
デスナイトの腰を中心に、上半身と下半身がぱっくりと2つに分かたれ、ガシャンという軽い音と共に地面に転がった。
追い打ちをかけるように2本黒い矢が兜と、胸鎧を射抜く。
矢が当たった瞬間、ビクンと鎧が跳ねて、白い霧となって消えた。
たった一撃でデスナイトを仕留められ、ジューナの顔が怒りに歪む。
再び腕を振るい、今度はずらりと並ぶスケルトンの軍勢を呼び出してけしかけた。
ケトーは斧を振り回して当たるを幸いとばかりに切り倒すが、ぞろぞろと雪崩のようにスケルトンは出てくる。
知らず舌打ちが零れるが、側まで来ていたシェリンが、トントンとケトーの肩を叩き、弓を構えて大きな漆黒の矢をつがえ、射る。
ガシャガシャガシャという耳障りな音ともに1本の道が生まれ、その先には杖を構えたナズール。
意図を理解し、シェリンを抱えてスケルトンの群れを盾にするように地を蹴る。
『宵闇の深淵にて眠り、重苦に蠢くものよ。猛る怒槌となって降り注げ。アビスサンダー!』
ナズールの声と、轟く雷鳴が背後に聞こえる。
咄嗟にスケルトンらから離れ、シェリンを庇っていると、鼻につく焦げた匂いがして振り返った。
庭一面を焦がしたせいか、所々煙が上がっているが、嫌になるほどいたスケルトンたちは1匹も見当たらない。そして、魔法の余波を受けたのだろう、両足を焦がし、よろめきながらケトーから後ずさるジューナ。
その瞳には信じられないものを見たという驚愕と、恐怖がありありと浮かんでいる。
「イェブ…!」
彼女は身を翻し、我が子を呼ぶ。
その悲鳴に近い声に、子は答えた。
煩わしげに、その伸ばした手を払うように手を振る。
そして、ぽとりと転がるジューナの首と、崩れ落ちる身体。
状況を理解できないままの彼女瞳は、涙を浮かべてうつろな瞳をケトーたちへと向けていた。




