3章
83
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イツキは考える。
自分はどうなってしまうのだろうか、いや、どうなってしまったのだろうか、と。
レッサードラゴンの巣で意識を失ったイツキが、ふたたび目を覚ましたのは、鼻腔を突くカビ臭さだった。
ぼやける視界を振り払うように緩く頭を振って起き上がると、そこは石の壁に囲まれた部屋の、粗末な寝台の上だった。
天井近くから足元まで、数多くの蝋燭が灯り、明るさは確保出来ているはずなのにどこかしら重苦しく暗い印象のする部屋で、目覚めたことで喉の乾きを覚えて、周囲を見渡すが水らしきものが見えずに、息を吐いてそろりとベッドから足を下ろした時、ジャラリという音ともに、左の足首に冷えた感触と、引っ張られたような重みを感じた。
視界の端に見えた壁で、イツキの親指ぐらいの太さのある鎖が揺れている。その鎖を視線で辿ると、そこはベッドから下ろした自分の足だった。
背筋が冷える。
膝を曲げてベッドに足を戻し、鉄の拘束具をぺたぺたと触る。
紛れもなく本物のそれで、そしてどこか鉄錆臭い。
ドクドクと心臓の音が煩い。喉の乾きが増した気がする。
ハッハッと浅い呼吸が聞こえるが、これは自分の呼吸音のようで、ぞくりと腕に鳥肌がたつ。
なで擦りながら深呼吸し、ふたたび周囲を見回した。
水を探すのではなく、状況を理解するために。
先ず見えるのはベッドの正面の壁に沿って置かれた粗末な机。乗り切らないほどの沢山の本を置いたそれは今にも崩れそうだった。
この世界の文字はある程度読めるイツキだったが、見える限りでは殆ど読めない。
その机の隣には大きめの棚が2つあり、ひとつは殆ど本が残っていない本棚で、もう1つは何に使うのか分からないような道具や、妙な色の液体が入った瓶などが並んでいる。
そこから視線を動かせ、角を曲がって丁度イツキのいるベッドの頭側の壁には、びっしりと赤黒い何かで文字が書かれていた。
引きつったようなそれを目を凝らして見る。
『ころしてくれ。しなせてくれ。もういやだ』
この3つだけが辛うじて読み取れる。
吐き気を覚えて口元を押さえながらそろりと立ち上がる。じゃらりと鳴る鎖を引きずりながら文字の見える壁に近づくと、その字は恐らく血で書かれたもので、石の壁の隙間に、爪が突き刺さっていた。
それが爪だと理解した瞬間、込み上げてくる吐き気に胸元を押さえて堪え、壁に手を着いて必死に深呼吸する。
自然と俯いていたイツキの視線は床に注がれ、不釣り合いなぐらい綺麗な絨毯の模様を視線で追っていると、絨毯の下になにか書かれていると気づいた。
しゃがみこみ、ぺろりと絨毯を捲ると、そこには巨大な魔法陣らしきものが敷かれ、分厚い絨毯で見えなかったが、心拍のように不気味に明滅していた。
慌てて絨毯を元に戻し、今見たものを忘れようとしていたイツキの首に、背後から細く白い腕が絡められる。
喉を突いてでた悲鳴は、乾ききった舌のせいで小さく掠れたもので、怖々と振り返る。
「おはよう?気分はどうかな?」
自分の背後に膝をつき、屈託なく笑うナグに、掠れた声でおはよう、と返す。
ここはどこなのかとか、なぜ足枷が付いているのか、とか、聞かなければいけないことが沢山あるのに、ナグの目を見ていると頭にモヤがかかったように上手く働かなくなってくる。楽しそうに笑いながらナグが何かを言っている。
よく分からないままに頷くと、より一層笑顔を向け、すっと立ち上がって手を振りながら去っていった。
壁に背を預け、ぼんやりと天井付近にある蝋燭を見つめていると、ふっと意識がはっきりしてくる。
ナグ達と獣王国に行こうとした日から、ずっとこの調子だ。
ナグが離れ、時間が経つと意識がはっきりする。ナグがなにかしているのか、それともなにかしているが解けているのか…。
ふと、じゃらりと腕に嵌ったままの粗末な腕輪が目に入る。
幻術を封じた腕輪だったが、殆ど使うこともないまま忘れていた。
渡したジューナも、もしかしたら忘れているのかもしれない、と思いつつ立ち上がる。
じゃらじゃらと鎖を鳴らしながら行動出来る範囲を確かめる。ベッドから一番遠いのは、ドア。ドアまでは届くが、ドアからは出られそうにない長さだった。
ベッドに戻りながら、先程ナグがなんと言ったかを思い出す。
目を閉じ、うろ覚えの記憶を必死に引きずり出した。
『私とママが、英雄にしてあげる…。君の意識は欠片も残らないけど、いいよね?』
唇の動きを思い出す。楽しそうに甘い声で囁かれたことを、反芻するように脳裏に置き留め、理解した瞬間に、がちゃりとドアが開き、ナグと、ジューナ、そして大柄な白虎の顔をした男が入ってきた。
男の目は虚ろだったが、イツキを目に入れた瞬間に輝き出す。ギラギラとしたそれは獲物を見つけた肉食獣のようで、逃げ場のないこの部屋で、抵抗するように後ずさるイツキ。
ゆっくりとナグが近づいてくる。
「いまから英雄になるための特訓だよ…?」
イツキよりも随分小柄で、愛らしい少女なのに、どうしようもない恐怖が湧き上がり、イツキは壁際まで後ずさった。
背に伝わるひんやりとした壁の感触が、逃げ場などないのだと伝えてくる。ナグの背後では絨毯を捲りあげ、明滅する魔法陣を見て満足そうに頷く二人。
いやだ…!そう声にした瞬間に、頬を張り飛ばれて首ごと横をむく。唇が切れて血の味が咥内に広がり、両手で頬を掴まれて新距離で覗き込まれる。
途端にモヤがかかり出す頭を振り払うように切れた唇に歯を立てて痛みを持って抵抗するイツキに、舌打ちしたナグは片手を頬から離し、下腹部へと拳を叩き込む。
血とともに唾を吐き出し、それが顔にかかりかけて苛立たしげにもう1発殴られた所で、イツキの意識は暗闇に落ちた。
それから目を覚ます度に、自分の身体をくまなく触れ、叩き、掻きむしる。
目を覚ますとナグがやって来てひとしきり暴行を加えてくる。
痛みと苦しさで意識を失い、目を覚ますと肉体の痛みは殆ど無くなっている。
最初にいた男も、ジューナも2度目からは来なくなった。
それが何回も何回も続いた後の、イツキが意識を失う直前、ナグが美しく笑った。
「イツキ君、君が助けたいって言ってた、レイナちゃんだっけ?死んだんだって。」
その言葉に、失いかけた意識が覚醒する。ズキズキと痛む身体を起こし、ナグに食ってかかった。
「そんなはずはない…!トオルがそれを許すはずがない…!」
さっきまでの虚ろだった瞳に怒りの色を込めて怒鳴るように言うイツキに、ナグはにんまりと口角を上げて囁く。
「嘘だよ、まだ生きてる。でも危ないみたい…。もうすぐこの国で武闘大会があるの、それで武力を示せば、君が望んだ2つが手に入るよ。」
「2つ…?」
眉を寄せるイツキに、鈍いなぁ、と嘲るように言い、そっと耳元に唇を寄せる。
「英雄っていう肩書きと、レイナちゃんを治すお薬。」
その言葉に目を見開くイツキに、勝てるように特訓頑張ろうね!と笑みを向けるナグ。
ぐっと拳を握り、目標を成すためにこくりと頷くイツキ。
「ママ、こっちは順調。寝てる時に刷り込みが進んで、あんなにボコボコにされて、オマケに思考の制限までされてるのにも気づいてないよ。そっちはどう?」
イツキのいる部屋を出て、先程とは打って変わった豪奢な部屋で闇色のオーブに手をかざすジューナに話しかけるナグ。
「イェブの魂を入れた容器の近くに、パパが使っていた魔戦斧があったわ、纏めて返してもらいに行かなくっちゃね?早めにあれの心を折ってちょうだい。折角沢山の魔物を詰め込んだ獣王の魂が劣化してしまうわ。イェブの魂が食べやすいようにしてあるからか、脆弱なの。」
オーブから手を離さずにそういうジューナに、ナグのはしゃぐ笑い声が重なる。
「じゃあさ、あのオモチャをお使いに出そうよ!私の可愛い弟の器になるんだから、お使いぐらいは出来ないと!」
満面の笑みでそういうナグに、仕方ないわねぇ、と笑うジューナだったが、その提案に乗り気なのか、オーブから手を離し、大事そうにそれを抱えて立ち上がった。
娘を伴い、最後の仕上げをしましょう、とイツキのいる部屋へと足を踏み出した。
カツン、カツンと石の床を叩く足音は、イツキという存在が失われるまでのカウントダウンのようだった。




