3章
80
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「へい…か…。」
叩きつけられた身体が痛み、見下ろしてくる冷めた紫の瞳が空恐ろしい。
ケトーは爆発した怒りが急速にしぼんでいくのを感じた。
それを見てとったチェザーレが離れ、ケトーは身を起こしてその場に座り、床に手を着いて腰をおり、額を冷えた床に擦り付けた。
「申し訳、ありませぬ…。我を見失い、王に楯突くなど…。」
シン、と静まり返った屋敷の中で低く響く声に、息を飲む音さえもはばかられるようだった。
「いい。お前が冷静さを欠いてどうする。ジアン!」
フッとかすかに笑ってケトーに言えば、今まで姿を見せていなかった狼の名を呼ぶ。
呼ばれたジアンは玄関の大穴からのそりと入ってきた。
「匂いは覚えたぜ。空間転移されちまったからここからは追えねぇが、この匂いに嗅ぎ覚えがある。ギース、一昨日行った魔法薬の店、もっかい調べんぞ。」
ジアンの呼ぶ声に構えていた弓を下ろし、足早にジアンの元へと行くギース。
ケトーの横をすれ違いざまに、ぽんと広い肩を叩く。隻眼を瞬かせるケトーに、エルフらしい綺麗な笑みを残し、ジアンと共に外へと消えていった。
「何時までそうやって座り込んでんだ。」
ギースの背を見送ったケトーにかかる声に顔を向ければ、チェザーレの傍らに立ったべフィルだった。大剣を担ぎ、さも情けないものを見るように見下ろしている。
彼の言葉に従うのはなぜだか癪に触ったが、確かに座り込んでいてもなんにもならないとばかりに立ち上がる。
「状況の整理から始めよう。」
先程までの失態を取り戻すかのようにしっかりとした声で言えば、おろおろしているメイド達に声をかけ、各々もう休むように伝えてから応接室へと皆を引き連れていく。
ソファに腰を下ろし、ぐるりと周囲を見渡して、
「大きな怪我がなくてよかった。ケイローの身は心配だが、ギースを待つしかない。」
ケトーの視線はケイローが一番懐いていたマリへと向けられる。
表情こそ取り繕っているが、握った拳はかすかに震えていて、視線も俯きがちだった。
なにか声をかけようとしたケトーだったが、ソより先にチェザーレがマリの隣に移動し、ぽんぽんと頭を撫でている。
それを見つめる女性陣の眼差しが緩くなったのを見て小さなため息だけ吐き出して先程の襲撃を思い起こした。
「陛下、あの少年は…元々ああだったのですか?」
ひとしきりマリを撫でて手を離した頃合を見計らって尋ねるケトーに、チェザーレは否定の首を振った。
「いや、ただの人間だったはずだ。しかしあの黒いモヤ、以前あった男が纏っていたものとよく似ていた。」
チェザーレの脳裏に浮かぶのは金髪の男。ナイアーラトテップ。
彼の周囲を覆っていたモヤはイツキのものとは濃度も凶悪さも段違いだったが、性質的には同じようなものに思えた。
「それにあの女…べフィル達の集落を襲い、私の娘の村も襲ったのは、恐らくあの女と、その夫でしょうな。」
夫のものを取りに来た、とさも当たり前の用に言った彼女の言葉を思い出す。
べフィル達の表情も苦いものが伺えた。
(マリを狙っていると思ったが、その素振りはなかった…あいつの狙いはマリじゃないのか…?ダメだな、情報が少なすぎる…。)
あれこれと話し合うケトー達の声を聴きながらチェザーレは1人考える。
ゆるく頭を振って取り留めのなくなった思考を払えば、隣からの視線に気づいて顔を向けた。
「ケイローを、返してもらうって言ってたよね…。あの人の目的は、もしかしたらケイローだったのかも。そのついでに、バジリスクを見つけたんじゃ…。」
「しかし、それならばなぜ今なのだ。ケイローは我が屋敷にもう10年近く居るのだぞ…。」
マリの呟きを聞き咎めたケトーは身を乗り出してマリに問いかける。
クマの大きな体に詰め寄られてびくつきながらマリも思案した。
「なぜ今、じゃなくて、今になった。だと思います。多分10年っていう時間はあの人に関係なくて、やま…イツキ君が手に入って、本格的に何かを始めようとしている、んじゃないんでしょうか。」
マリの考えに全員が眉を寄せて唸る。
そんな中でこういった考えることが苦手なのがいた。そして静まり返った部屋にパチーンという小気味のいい音が響き、全員がその音の出処に顔を向ける。
自身の両頬を叩いたはいいものの、思ったより自分が馬鹿力だった事で涙目になりながらべフィルは注がれた視線に青い瞳を向けた。
「とりあえず、襲撃の目的はそれだったとして、ギースとジアンが戻るまでは対策っていう対策も立てれねぇなら、消費した魔力や体力を回復させとくのがいいんじゃねぇかって思うんだが?」
「皆アンタみたいにどこでもすぐ寝れるような図太い神経持ってないのよ?」
最もらしく言ったべフィルに、メイニィの鋭いツッコミが入るが、彼女もまた魔力を消費し、眠りたい気持ちは少なからずあった。
事態がどう動くにせよ、今はできることをするべきで、それが魔力を回復させることだと、べフィルの意見に賛成ではあるのだ。言葉には決してしないが。
「焦っても良い結果は望めぬか…。調べに出ていった彼らを置いて休むのは心苦しいものがあるが…。」
申し訳なさそうに項垂れるケトーに、出来ない奴が足を引っ張ると余計に面倒になるんだぜ、と笑う。
しみじみと頷くメイニィとルピナに、マリとチェザーレは、こいつやったのか、という冷たい視線を向けるが、彼は気にした風もなく立ち上がり、じゃあちょっくら寝てくるわ!と明るく言い放って出ていった。
「本当はね、あの人もケトー様と同じぐらい、追いかけたかったのだと思う。チェザーレ様。この件は、私たちにも関係があります。報酬はルピナとギース分だけで構いません、どうか、お供に戦わせてくださいませ。一介の人間では力及ばぬかもしれませんが、故郷の仇、打ちたく存じます。」
べフィルが出ていったあとに、静かにメイニィが言う。報酬云々の話になった時、ルピナはメイニィの手にそっと自身の手を重ねて首を振った。仲間なのですから。と優しく微笑む。
メイニィの訴えにこくりと頷くチェザーレ。
勿論、ケトーも力強く頷いて見せた。
――――
うとうとと微睡んでいたマリの肩が、かすかに揺さぶられる。
段々とハッキリしてくる意識と、耳に入る名を呼ぶ声。
ずっと聞いていたくなるような低くて耳障りのいい声にこくんこくんと頷くが、なにせ目がなかなか開いてくれない。
閉じた瞼の裏側では、起きる直前に見る、記憶に残らない夢を見ていた。
目まぐるしく変わる外の景色。それは春で、夏で、秋で、冬だった。晴れていて、雨が降って、雷が轟き、風が窓を叩き、雪が舞う。
それを窓から眺める少女。
彼女のいる場所は図書室だった。
周囲には誰もおらず、彼女1人きり。
その背を、マリは知っている。これは私だ、私を、私が見ている。
本を手に取るでもなく、ただただ外を眺める少女は、やがて俯き、外も見なくなった。
この先の、彼女の行動を、私は知っている。
知っているけれど止められない。見たくない。
だが、その思いは届くことなく、少女はのろのろと歩き出し、本棚の奥に消えていった。
「マリ!」
思いのほか強い声に、びくりと体が震えた。
ソファに座って、うたた寝をしてしまったのだと思い出し、傍らで覗き込む紫の瞳を見返す。
その表情はいつになく焦りを含んでいて、なにかあったのかと目を瞬かせると、頬に濡れたものがこぼれ落ちた。
なにか分からずに手をやろうとしたが、それより先にチェザーレの指先がすくい上げる。
涙だと分かったが、なぜ自分が泣いていたのかが分からず、首を傾げた。
「チェザ、…レ…?あれ、私寝てた…。」
とてつもなく苦しい夢を見た気がしたが、内容を思い出せない。心配するチェザーレに、大丈夫だと笑顔を返し、寄り添ってくれる温かさを嬉しく思いながら、ぱちんと軽く頬を叩くことで完全に目を覚まし、チェザーレを見上げる。
「ギースとジアンが戻った。話を聞きに行こう。」
チェザーレの言葉に、ぎゅっと引き締まる思いがし、こくんと頷いて立ち上がる。
浅く深呼吸し、ケイローの無事を祈りながら、彼の後をついて行った。




