2章
47
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駆け出した少女の背をマンティコアの蛇の目がギラリと睨めつけるが、本体の老人の顔は追いかけてきたジアン達を睨む。
今ここであの娘を追って背を晒すほど、彼は愚かではなかった。先にこちらを喰らい、後からゆっくりと味わえばいい。
どの道、ここで妖精を食えば、この森から出られるのだから。
『聖域のない場所ならばぁ…儂の方が有利よなぁ?』
しゃがれた笑い声が響き、今しがた食べた柔らかな血肉の味を思い出して舌なめずりするマンティコア。
対峙するジアンは、視界の端で転がっているチェザーレが気がかりだった。
目を覚ましてもらわないことには、戦闘に巻き込むのは間違いなく。生半可な攻撃では傷つくことは無いだろうが、戦っている最中で眠られているのも気に触る。
「セルシウス…すまねぇが…」
現状、チェザーレを運べそうなのは彼女だけの為、頼んでみようと声をかけるが、全てを言い終わらないうちに、思いのほか強い眼差しが彼女から降ってきた。
『断る。いくら愛しいベルナーヴの頼みでも、わたくしに自ら死ねと言うのはどうかと思う…。あれなるは火の化身、炎竜の王。わたくしはあれに近づくと溶けて消えるのだぞ。』
彼女の言葉の途中ではっと気がつくが、彼女はそれに気づきながらも続けた。
すまなそうにしょげるジアンに微かに微笑んで、代わりにこちらはわたくしが持とう、とマンティコアへと視線を戻す。
ふわりとドレスの裾が舞い、キラキラとした氷の礫が冷気を伴って周囲に広がり、槍や剣の形に変形し、雨のようにマンティコアへと降り注がせる。
翼を広げ、風圧で弾き、跳ね回ってそれらを回避するマンティコア。聖域にいた時よりも当然動きは素早く、捉えきれていない。
それでもマンティコアの注意は逸れた。
素早く姿勢を低くしてチェザーレへと駆け寄り、肩口を噛んで服を引きずって岩の下へとずらすと、妖精王たちが近づいてきた。
「このお方は我らにおまかせを。幻術の類で眠りを深く固定されております、我らで解きましょう。」
オベロンがそう言い、ティターニアも頷いてチェザーレの額へと手をかざす。
2人に任せるのがいいと判断し、セルシウスを振り返ったジアン。
彼女は大きく腕を上げて、頭上に大きな氷の塊を召喚していた。
マンティコアは左の後足を氷に閉じ込めっれて思うように動けず、ガリガリと地を引っ掻いてもがいている。
セルシウスの頭上の氷が鋭利な氷柱型に形成され、マンティコアへと切っ先を向けて高速で打ち出される。その瞬間、苦しげに歪んだマンティコアの顔、そして呻くような悲鳴と共に、氷柱から逃れるように地を転がった。
氷が地にぶつかる衝撃音と凄まじい揺れに四肢を踏ん張って耐えたジアンが目にしたのは、凍らされた後足を蛇の頭が噛みちぎって逃れ、3本の足でよろめきながら立ち上がるマンティコアと、必殺とも言える一撃を躱されて眉を寄せるセルシウスだった。
『ウゲゲゲェ…おのれ…おのれぇ!』
ダミ声が周囲に響き渡ったと同時だった。
唐突にジアンの背後から炙られるような熱気が吹き上がり、猛烈な爆発を起こしてジアンが吹き飛ばされる。
それを受け止めたのはセルシウスだった。しかし表情は苦しげで、今にも膝をつきそうな程に緊張している。
ジアンが顔を巡らせると、岩の下から、マンティコアが居たであろう場所まで、地面がグズグズに融けていた。
チリチリと下草が燃えのこった音を立て、マンティコアの姿を探したが見当たらない。
もしかして、あの黒い塊がそうなのだろうか。
状況が飲み込めず、ジアンが乾ききった喉を鳴らした。
『なんということか…あやつめ、怒りで我を忘れかけておる…このままではわたくしも…。』
そう呟くセルシウスの青白い身体からぽたぽたと雫が垂れ落ちる。
ようやく、この場が異常な熱気に包まれていると気づいたジアンは、セルシウスの腕から離れ、岩の下へと向かった。
そこには、半人半竜の姿のチェザーレが身を起こしていた。
オベロン達は咄嗟に逃げたのか、岩の上で震えていた。
それにほっとしてからチェザーレへと視線を向ける。
顔は人のままで、綺麗な赤毛は鬣のように燃え広がり、地を焦がしている。
こめかみから生えた2本の角は太く大きく天を向き、腕の肘から先は竜の腕と、凶器のような爪が生え揃う。
腰からは髪をかき分けて太い尻尾が生き物のようにうねっていた。
ジアンの姿を見つけたのか、ギロリと竜の瞳孔を向ける。
「ジアン…マリは…?」
怒りに反して静かな問いかけに、ぐっと腹を括ってジアンが答える。
「金髪の浅黒い肌の男に、ついて行った。オレが、マンティコアの毒で動けなくなっちまって…!?ギャインッ!」
最後まで言いきらぬうちに、鼻面を思い切り尻尾で張り倒された。
土まみれで地を転がり、動けなくて蹲るジアンの背にチェザーレの足が掛かる。
そして、まるで蹴り玉でも蹴るように蹴り飛ばす。
血を吐きながら蹴り飛ばされ、木に背を打ち付けてズルズルと根元に落ちるジアン。
その血の後を追ってゆっくりと歩み寄りながら、チェザーレの紫の瞳がジアンを睨みつける。
「どんな脅威からも護れ、俺はそう言ったはずだぞ。」
「ぐ、ぅ…あぁ…、そういった…オレが弱いばかりに、マリは俺たちを庇って、アイツに着いていった…!」
蹲り、血を吐きながらも叫ぶように言うジアンに、ふわりと覆い被さるのは氷の美女と、小さな妖精2人。
『やめぬか竜王よ。こやつはそれでも諦めずにここまで追ってきた。それに引替えお主はただ寝こけていただけであろう!お主にベルナーヴを責め、ましてやいたぶる権限なぞないわ!』
チェザーレに呼応したサラマンダーの存在によって、今にも溶けそうな身体で必死にジアンを庇って怒鳴るセルシウス。
銀の冷えた瞳は、侮蔑を込めてチェザーレを睨みつける。
「お願いでございます!竜王陛下!怒りをお鎮めくださいませ!あの娘は我らを庇って行ってしまわれた。まずはあの娘を取り戻してから、この失態の責を、我らに求めてください!」
ティターニアが涙を零しながら訴える、オベロンもまた、ぐっと小さな体を震わせていた。
「……。そうか…そうだ、俺も油断していた…。レイナ、よもやあの娘が糸を引いていたなどと…そういえばあの娘は…?」
怒りの波が引いたのか、鬣のようだった髪が徐々に短くなり、周囲の熱気も収まっていく。
ほっと息を吐いたセルシウスが、チェザーレが目覚めるまでの経緯を話しながら、妖精王たちがジアンを癒す。
「そうか、ならばレイナを追えばいいか…ジア…!?」
すっかり元の人型に戻ったチェザーレがジアンを振り返った瞬間、灰黒色の塊がチェザーレへと飛びかかってそのまま地面へと押し倒す。そして首筋へと牙を寄せて唸り、
「オレは負け犬で、お前は負けトカゲだ!オレら負けて、大事なもん奪われた!絶対に、取り返すぞ…!」
金の瞳を輝かせ、驚きに見開かれた紫の瞳を覗き込むようにして言う。
その剣幕に押されていたチェザーレだったが、やがてぐっと眉を寄せて手を伸ばし、ジアンの首根っこを掴んで無理やり引き剥がして身体を起こし。
「当然だ。ここからは全力で行く。竜王の怒り、その身で存分に味あわせてやる…。」
『ベルナーヴ、ならばわたくしはこの場をもってそなたに全ての力を貸し与えよう。月影狼王となって征くがよい。』
セルシウスはそう言ってジアンの額に手を置き、そのまま氷の礫となってするりと額へとすいこまれていった。
途端、ジアンが吼える。
そして、先日見た灰銀色の巨大な狼へと姿を変える。
チェザーレもまた、それに倣って火柱を立て、その中から竜の姿となって顕現する。
「マリを迎えに行くんだ、派手に行こうぜ!」
牙を見せて笑うジアンに同様に牙を見せて笑い返すチェザーレ。
片や炎を纏って、片や氷を生み出し、両方とも滑るように空へと舞い上がる。
グルルゥアアァ…!
オオォォーーーン…!
大きく吠えたその咆哮は、北の都に広く届いた。




