2章
45
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『聞き分けのよい娘じゃのぅ…食えぬのが惜しい…。』
ゆっくりと歩いてくるマリに上機嫌に言うマンティコア。
未だ起きることも出来ないジアンは痺れる身体を無理やり動かしてマリに怒りの篭った視線を向ける。
己が不甲斐ないばかりにマリが我が身を盾にしているのは明白で、自分に対する怒りが故の視線だった。
その視線を受けて、ジアンの傍らで立ち止まり、身を屈めてそっとジアンを撫でてから、再び歩き出す。
やがて、マンティコアの傍らへとたどり着いてしまい、震えそうになる身体を抑えていれば、マリの正面にずるりと黒いモヤが広がり、そこから浅黒い肌の背の高い男が出てくる。
頭からすっぽりとフード付きのローブを着たその男は、金の瞳をマリに向けた。
「いい子だ…その勇気に免じて、なにも恐ろしいものは見せないと約束しよう…」
そう言ってマリの額へと手をかざす。その仕草に釣られるように、かくりとマリの身体から力が抜け、男が受け止めて抱えあげる。
そしてぐるぐると唸るマンティコアを一瞥し、
「待たせたな、あちらの娘諸共、食っていいぞ。」
そう言い残して、マリと共にモヤに包まれて消えた。
『ゲッゲッゲッ…羽虫共ぉ…まずは主らからよ…。』
男が消えた後に不満げに鼻を鳴らすも、気を取り直して離れたところで2人で震えている妖精達をニヤニヤとした笑みを浮かべて舌なめずりする。
ゆっくりと足を踏み出し、のそり、のそりと近づいてくマンティコア。
その歩みの先に、ズルズルと地面を爪で引っ掻くようにして身体を土と草まみれにしながら進んできたジアンが遮る。
未だ身体は思うように動かず、怒りのあまり舌を噛んだのだろう、口元の血は這いずってきた地面をも汚していた。
その様を憐れむように、堪らないかのように楽しげに眺めながら悠然と足を止めるマンティコア。
満足に動けない狼など、歯牙にもかけずとも殺せる存在だ。
その余裕が、マンティコアを慢心させる。
不意に、小屋のあった周囲一帯の地面が輝き出した。
その眩しさに思わず顔をのけぞらせ、周囲を見回すマンティコア。
そして、背後にあった巨大な木の根元にいる、手のひらに乗るほどのサイズの青年を見つける。
瞬時に方向を変えて飛びかかろうと跳ね上がった身体が、何の前触れもなしに地面に叩きつけられた。
『うぐぬぅぅうっ!おのれ羽虫ぃ…!』
ばたばたと足掻くが、一向に起き上がれる気配はない。
転じて、ジアンは地面に付けた腹の下からジワジワと湧き上がる暖かい力を感じていた。
身体を蝕む猛毒も徐々に薄れていく。
不思議に思っていると、ふわりとティターニアが傍に飛んでくる。
「あの樹は、特別な樹なのです。聖樹ユグドラシルの根を分けた子。今、オベロンがあの樹を通じてユグドラシルに助力を願いました。どうやら、聖樹が応えてくれたようです…。」
ほっとしたように言う彼女を見てから腹の下、地面をよく見ると、根のようなものが見える。この辺り一帯にあの樹の根が張り巡らされ、それがマンティコアの自由を奪い、ジアンを癒していた。
「貴方が、マンティコアの気を引いてくれたから。動けない身体で、それでも我らを守ろうとしてくれた。あの子も。あんなにも震えていたのに…。我らは弱い、それでも、あの子を助ける手助けをさせて下さいませ。」
そう言ってジアンの額に小さな手を添えるティターニア。
『森の加護をここに。フォレスヒール。』
ふわりと緑の輝きがジアンを包み込む。
一般的なヒールより回復した感じは劣るが、徐々に力が湧いてくるような感じがした。
ゆっくりと立ち上がるジアン。
「妖精の王たちよ、オレはマリを護れなかった…!シェイドも…!一人失ってしまった…!オレが弱いばっかりに…!だから頼む!オレに力を貸してくれ!」
ぐっと四肢に力を込め、金の瞳が潤みながらもティターニアと、その先にいるであろうオベロンを見つめる。
間近で彼女が、遠くで彼が、こくりと頷いた。
その矢先に、地面にビシリとヒビがはいり、その中心にいたマンティコアがよたよたと起き上がる。
『ぐるるるぅ…羽虫がぁ…!聖樹の聖域なぞ…!』
恨みの籠った目でオベロンを睨むが、四肢に力が入らないのか、フラフラと足元が覚束無いでいた。
この澄みきるような清浄な空気は聖域ゆえのものかと察するジアン。
だからこその癒し、そして精霊を食い、魔に堕ちたマンティコアには猛毒に等しいことだろう。
毒をもっていたぶっていたはずが、聖域という毒に侵されている様はどこか滑稽であるとつい笑ってしまう。
その微かな息遣いを聞き咎めたのか、ぐるりとこちらを向くマンティコア。
よく見れば、牙は折れ、口の端からはボタボタと涎がとめどなく流れ落ちている。
牙を折った記憶は無いので、恐らくあれはチェザーレが叩き折ったのだろうとあたりを付けた。
「さっきまでの余裕はもう無くなったな…?さっさとお前をぶちのめして、マリの居場所を聞かねぇとな!」
そう吠えるジアンに忌々しげに唸るマンティコア。しかし、いくら弱体化したとはいえ、自力がそもそも違うということを思い出す。
圧倒的な差と言うのは、そこまで埋まっているわけではないと、マンティコアは考え直した。
『主のような獣なぞ不味くて食うにも値せぬが…、儂を愚弄した責は取ってもらうぞ!』
思うように力の入らない身体を無理やりに動かし、ジアンへと猛毒の爪を振るう。
だが、その動きすらジアンには遅く感じられ、傍らにいたティターニアのドレスの端を咥えて横っ飛びに跳ね、そのままやや乱暴ではあるがオベロンのいる方に放り投げた。
現状、自分の傍よりかは安全だろうと踏んで。
そしてそのままマンティコアへと飛びかかり、
牙を立てるが、針のような毛皮がその牙を阻む。
口の中を刺す毛皮に思わず離れてぺっぺと口に残る毛を吐き出す。
(いってぇ…乙女たちを迂闊に出せないし、オレの牙は届かねぇ、フェンリルの涙はマリに預けたまんまだし…どう攻めるかな…。)
時折びくん、と震えて足を折り、地に顔を預けるマンティコアを見ながら思考する。
一方のマンティコアも思うように動かない身体では素早い狼に爪が届かないことを悟り、尾の蛇を伺う。
蛇も力なく地に這っていたが、本体の視線を受けて弱々しくであるが頭を擡げる。
ジアンはそれを好機と踏んで、持ち上がった蛇の頭目掛けて駆けた。
蛇の頭にいざ噛み付こうとした瞬間、ぎらりと輝く赤い瞳。
その瞳を見た途端、ジアンの身体に紫電が走り、金縛りとなって動きを止める。その隙を逃さず、マンティコアの強靭な前足がジアンの横腹へと叩きつけられた。
「ギャウッ!」
勢いよく吹き飛ばされ、聖樹の根元に転がるジアン。
腹の下からジワジワと回復はするが、それよりもダメージが大きく、ゲホゲホと咳き込みながら立ち上がる。
「あぁ、クッソ…!フェンリルの涙がありゃ…!」
ぶつぶつと呟いていれば、それが聞こえたのだろう、木の枝に避難していた妖精王達が反応した。
「ジアン様!フェンリルの涙ほどの力が喚べるかは分かりませんが、暫し時間を稼いで頂けますか!」
そう叫ぶオベロンに、できる限りはやってみる、と頷いてからマンティコアへと再び飛びかかる。
明確に攻撃をするのではなく、攻撃を誘い、いなして消耗を誘う。
そんな彼らの背後、聖樹の輝きが増していく。
『聖樹ユグドラシルよ、我ら弱き、小さき民の声を届けておくれ…我が名はオベロン、我が名はティターニア。氷結に閉じたる世界を統べるものをここへ…!』
小さい声ではあるが、しっかりと耳に聞こえた輪唱が終わった瞬間、ざわりと聖樹が揺れる。
一層地面の輝きが増し、マンティコアが苦しげに蹲る。
ジュウジュウと身体を聖樹の輝きに焼かれ、聞くに耐えないような悲鳴を上げていた。
『喚ばれたから来てみれば…なんという醜い生き物かしら…。』
聖樹の根元に光が密集し、その中から強烈な冷気とともに1人の女性が顕現した。




