2章
43
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お茶を配り終えオーべの向かいに座ったティーナを見て、お茶で唇を湿らせてから、そっと息を吐いて話し始めるオーべ。
「数日前の夜に、獣ともいえぬおぞましい唸り声が、この森に響き渡った。そやつは森の獣を殺し、この家の周囲を彷徨いておる…。」
その恐怖を思い出したのか、オーべとティーナの顔が曇る。
不意に、壁に背を預けていたチェザーレが微かに首を傾げ、オーべへと視線を向けた。
「オーべ殿、この森には確か、マンティコアが封じられていたはず…もしかして…。」
「恐らくはご想像の通りかと…。」
そう話す二人に、はっとして顔を上げるマリ。
「マンティコアって、人面に虎の身体の…?」
思わぬ声にぎょっとしてマリに視線が集まる。本で読んだ、とだけ伝えて先を促すマリ。
「いや驚いたな…お嬢ちゃん、よく知っていたね…。」
驚くオーべにお茶を飲んで誤魔化すマリ。
チェザーレは視線を窓に向け、その奥に広がる森を見ていた。
そして徐にオーべへと視線を戻す。
「俺が少し調べてこよう。封印の場所を教えてくれ。」
そう言いだしたチェザーレに、ううむ…と唸るオーべ。ちらりとティーナを見て、彼女も僅かに頷いた。
(あれ…?オーべさん、チェザーレを心配するっていう感じじゃないような?)
ほんの僅かな夫婦のやり取りを見たマリがそう訝しむ。
それを他所に、オーべは窓の外を指さし、
「ここからずっと奥に行ったところに、大岩がある。その大岩の下にマンティコアは封じられていたと聞く。」
「オーべさん、もしかして…チェザーレの本当の顔が見えてますか…?」
ぽつり、と零したマリの一言に、ぎょっとするオーべ。
ティーナもまた、お茶を飲んでいた手を止めて驚いたようにマリを見ていた。
その様に、確信を持つマリ。思えば、この夫婦と出会った時、ジアンは警戒もしたが何より酷く驚いていた。そしてチェザーレも。
チェザーレを見上げる老夫婦に、話してやってくれ、と言い残して、チェザーレは外へと出ていった。
「いやはや、知識だけではなくよい目を持っているようだね。」
チェザーレが出ていったあと、その背を見送っていたマリがオーべに視線を戻そうとした時に聞こえた声は、さっきまで聞いていた老人の声ではなく、若く澄んだ少年の声だった。
いつの間にかジアンが起き上がり、マリの横にお座りしてゆっくりと頭を垂れる。
状況が飲み込めないマリの目の前で、オーべ達が突然大輪の花に包まれた。
驚くマリを他所に、その花が開き、小柄な老人よりもさらに小さく、マリの両手に乗るかというサイズの青年と、少女が出てくる。
青年は浅葱色の長い髪を肩の辺りで緩く結び、毛先を胸元に垂らし、草の模様が美しいローブを纏って、深い緑色の瞳をマリに向け。
少女は耳にかかるほどの長さのカールした桃色の髪と、橙色の瞳を楽しげに緩ませ、花びらのようなドレスを纏っていた。
そして2人の背には淡く輝く蝶のような羽根が忙しなく動いていた。
「改めまして。私はオベロン。妖精族の王をしている。彼女はティターニア、妻で女王だ。」
優雅な礼とともにそう言われるも、マリの処理が追いついていないようで、固まったままである。
「あら、あらあら…大丈夫?」
ふわりとマリの顔の前に飛んでいき、小さな手でマリの頬を撫でるティターニア。
その仕草にようやくマリの脳が動き出す。
そして、そっと両手をおわん型にして差し出せば、その意図を汲んだティターニアが、単思想に笑って、ちょこんとその手に座る。
ドレスが広がり、まるで一輪の花の様だった。
「よ、妖精だ…!」
手のひらに乗るティターニアを感動したように見つめ、震える声で言うマリ。
面白そうにオベロンまでもがマリの肩に座る。
その様子を酷く珍しげに眺めるジアン。
彼女がここまではしゃぐ様を初めて見た。
状況としてははしゃぐようなことが出来る訳では無いが、今しばらくは、チェザーレが戻るぐらいまでは、このままで居てあげるべきだと、再び寝そべりながら思った。
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サクサクと下草を踏み分けて森の奥へと入っていくチェザーレ。
場所を聞きはしたが、聞く必要はなかったな、と周囲を見回して思う。
何故ならば木々に残る爪痕、食いちぎられた獣たち、そして徐々に酷くなっていく腐臭が、何よりの道標だった。
やや歩いたところで、なぎ倒された木々の奥に、真っ二つに割れた岩があった。
恐らくはここが封印場所だろうとゆっくりと近づく。
バキバキバキッ…!
自身の背後から聞こえたその音に咄嗟にその場から岩の上へと飛び退いた。
そのあとを追うように、チェザーレがいた場所に巨大な何かが突っ込んでくる。
前足を地面に叩きつけ、黒紫の長い爪でガリガリと引っ掻きながら、土煙の中から、そいつはのそりと出てきた。
人面といえばそうなるだろうが、凡そ人のそれとはかけ離れて醜悪な老人の顔がチェザーレを睨めつける。
落窪んだ眼窩の奥には、仕留め損ねた苛立ちを覗かせる深紅の瞳。
強靭な筋肉を包むのは針金のような虎模様の毛皮、その背には蝙蝠じみた皮膜を張る翼が畳まれており、尾は別の意志を持っているであろう瞬きの少ない蛇の顔がこちらを睨んでいる。
『ゲッゲッゲッ…主はさっきも来ていたなぁ?』
ひび割れた陶器が無理やり音を出しているかのようなしゃがれた声で嗤いながら言うマンティコアに、ぴくりと眉が跳ねるチェザーレ。
先程の殺気の正体が分かった瞬間だった。
『おぅおぅ…ようやっと封から逃れれたと思えば、忌々しい羽虫のせいで森から出られぬのよ…、慈悲深き獣の王よ…どうにかしておくれ…。』
岩の上にいるチェザーレを見上げ、うろうろと歩き回りながらそう言えば、前足を揃えて伏せるが、後足はいつでも飛びかかれるように爪を立てている。
媚びるような仕草も嫌悪感を催すには十分だった。
「断る。貴様は多くの生き物を、快楽のためにただ殺した。封じられただけ、慈悲だとおもうがいい。」
冷たく輝く紫の瞳で冷徹に言い、岩の下を見下ろす。
『ままならんのぅ…しからば、竜の血はどれほど美味か、我に食わせてくれぇ…!』
そう返すや否や、強靭な四肢をばねにして岩へと爪を向けて飛び上がる。
爪先を躱しながら空へと飛び、背に深紅の翼を 生やして滞空するチェザーレ。
「俺を竜王だと知るか。それを喋ったのは貴様の封を解いた者か…!」
問い詰めるようなチェザーレの声に、ゲラゲラと笑いながらぐるりと醜悪な顔が空をむく。
その喉が、不自然に膨らんだ。
そしてそれは頬の膨らみへと変わり、危険を察してさらに飛び下がるチェザーレ。
口の端からだらりと黄色い液体を漏らして笑い、マンティコアはそのままチェザーレへとその液体を吐きつけた。
粘性があるのか、その液体はあまりとばず、チェザーレにも届かないまま、地面にばしゃりと広がる。
意図のわからない攻撃に攻めあぐねていたチェザーレは、ふと異変を感じて口元を手で覆い隠しながらマンティコアを睨んだ。
肌が刺すように痛み、喉が焼ける。
液体が飛び散った辺りはシュウシュウと音を立てて煙が発生し、それを吸ったのだと理解する。
竜の身体さえ蝕むような猛毒だった。
煙の奥から、ニヤニヤ嗤う声が響く。
「グッ…!シルフよ!風舞え!…!?シルフ!?」
思わず風の精霊に命じて吹き散らかそうとしたが、精霊が応えない。
そして、チェザーレはこの森の違和感の正体を察した。
本来ならば、森にはたくさんの精霊がいる。精霊の声がする。だがこの森には一切の精霊の気配がなかった。
あるはずのものが無い。
それが、強烈な違和感の正体だった。
「貴様……!精霊をも食らったか…!!」
『ゲッゲッゲッ…美味かったぞぉ…?ただ、小さすぎて食いではなかったなぁ…』
煙の奥からのそりと現れたマンティコアは、長い舌をだらりと垂らし、ボタボタと酸の涎を落としながら嗤う。
その様に、チェザーレの怒りが沸点に達した。




