2章
38
――――
レインティアをジアンに任せたチェザーレは無数の竜巻をすり抜けてアーカイドへと強靭な爪を振りかぶった。
しかし、その爪が青い鱗に届く前に水の壁が海面から立ち上り、爪先を飲み込んで阻む。
かかる水しぶきはチェザーレの鱗を濡らすが直ぐに乾いて蒸気として立ち上る。
チェザーレに襲いかかられてなお、アーカイドは陸地を目指していた。
何かにつき動かされるようなそれはチェザーレの違和感を確信めいたものへと変えるには十分だった。
『アーカイド…』
苦々しく呟くが、チェザーレの目には闇に堕ちた原因らしきものは見えない。
全身を纏う闇の気配は辛うじてわかるが、なにが作用しているのかまでは不明だった。
思わず、だんだん近づいてきた陸地を見てしまう。マリを探すように。
どちらにしろ、アーカイドを止めないことには甚大な被害になると判断し、気合いを入れ直すべく、纏った炎を誘爆させて大きな音を立てた。
それにようやくアーカイドが反応する。
チェザーレの方に長い首を巡らせ、昏い瞳が薄紫の瞳を捉え、がぱりと口を開けて水のブレスを放ってきた。
『同じ手ばっかなのは有難いんだがな…』
先程からずっとブレスしか撃ってこない分、回避に徹するだけでいいのだが、如何せんこちらの決め手にも欠けていた。
アーカイドの鱗は水の中にあるという条件下では鉄壁と言って良いほどの強固さを誇る。
水の力はいずれジアンがレインティアを抑え込めば弱まるだろうが、爪も牙もブレスも、その鱗の前では動きを阻害するまでには至らない。
この広い大海のなかで、水から引き上げるのも無理な話だと頭を振る。
アーカイドが苛立たしげに唸りながらブレスを連発してくる。
こっちも苛立つんだがな、などと思いながらそれを避けた瞬間、チェザーレの頭上に影が差した。咄嗟にぐるりとそこから離れるように迂回すれば、直後に水に叩きつけられる長い尾。
海獣のそれのように先が広がったその尾で叩き落とそうとしてきたのだと気づき、水しぶきを浴びながら喉奥で唸る。
ブレスに加えて、尾まで避けなければならなくなり、一層攻撃に転じる隙を伺い、避けた後に爪で殴り掛かり、牙で噛み付く。炎のブレスや魔法はアーカイドの鱗にはほとんど無意味で、肉弾戦に頼る他なかった。それでも大した痛みにはならないのか、僅かに鱗が剥がれるばかりだった。チマチマと、攻撃しあぐねていると、背後から狼の咆哮が轟いた。
それに合わせ、周囲に強烈な冷気が漂う。
そうしてパキパキという音ともに、アーカイドがいる一帯が氷に閉ざされた。
直に水面に触れていたアーカイドに劇的な変化が見える。
青い鱗が白く凍り始めたのだ。
アーカイドの身体を乗っ取っていた蟲はこれに対応するのが僅かに遅れた。
それは、致命的な隙に他ならない。
慌てて水の力を体に巡らせようとしたが、レインティアは鳥籠に囚われ、思うように行使が進まない。
徐々に重くなる身体を動かせ、チェザーレの姿を探す。
先程、彼がチェザーレの死角から尾を打ち付けた時のように、アーカイドの頭上に影が指す。
咄嗟に振り仰げば、大口を開けて突っ込んでくるチェザーレ。
アーカイドは迎撃のブレスを吐きかけるが、ぐるりと身体を捻ったチェザーレはその軌道からずれ、長い首に食らいついた。
そのまま四肢の爪を首筋につきたて、振るい落とされないように力を込めてから、体内を巡る魔力と、友のサラマンダーに意志を伝える。
喰らいつかれたアーカイドは振り落とそうと首を振り回していたが、怒りに燃えた紫の瞳を目にして僅かに抵抗の力が緩んだ瞬間、猛烈な勢いでアーカイドの体内が、爆ぜた。
首筋を伝って体内を駆け巡る爆発。
まるで血が爆ぜるそれは、焼けるような痛みを伴ってアーカイドを襲う。
堪らず、悲鳴に似た声を上げて氷上に上体を倒れこませる。
バキバキと氷を壊し、その下の海に沈もうとするのを引き止めるように翼の下の空気を熱によって温め、上昇気流を生み出すことでギリギリで耐えるチェザーレ。
絶えず牙を通して魔力を流し込み、まさに血を沸騰させて爆ぜさせている為か、鱗が裂け、全身に血が滲み出す。
絶え間ない痛みは蟲の支配からアーカイドを呼び起こすには十分だった。
『チェ…ザー、レ…っ、僕は…』
昏い瞳に紺碧の輝きが戻り始める。
しかし、蟲も支配権を奪われまいとアーカイドの意識を押さえつけようとしてくる。
全身の痛みに加え、頭を全力で揺さぶられるほどの頭痛がアーカイドを襲う。
『ぐ、ゥ…ッ…チェザー、レッ…レインティア、は…?』
血の混じる荒い息を吐きながらそう問いかけるアーカイドだが、如何せんチェザーレは噛み付いたままで、口を動かすには離さなければならず、そうするとまた暴れられるかもしれないという懸念が残る。
結果、ぐいっと首ごとアーカイドをジアンがいた方へ向けるという荒事をやって退ける。
途端に首を中心にアーカイドの血が飛び散るが気にしてはいけないとばかりに黙殺した。
『うぐうううゥッ…ああ…よかった…』
痛みに唸りながらも、鳥籠の中でこちらを見つめるレインティアを見つけ、安堵したように息を零す。その鳥籠はゆっくりと港の方へと運ばれていく。
氷を血で汚しながら安堵する様を見せられ、僅かにチェザーレの力が緩む。
それに紺碧の瞳を向けながら、
『離してはダメだよ。今はまだ僕が意識を持っているけれど、いつまたすり変わるか分からない…。最悪、僕が死ぬことになったとしてもそれは僕の弱さが招いた結果だ。』
ハッキリとそう声にしてチェザーレを見つめるアーカイド。
それに苦しげに瞳を揺らし、否定するように極僅かに首を振るチェザーレ。
安心させるように、まだ死ねないから頑張るけどね、と笑ってみせるアーカイド。
ジアンの意識が絶たれ、氷の力も弱ってきたのか、周囲が波打って氷を溶かし流そうとしている。
それに気づいたアーカイドは、ぐっと口元を引き絞り、
『じきに氷も溶ける。チェザーレ。もう一度僕の血を沸騰させるんだ…。大丈夫、耐えてみせるよ。恐らくそれで僕にまとわりついたものと共に意識を失えるはずだ…。そうしたら、済まないが後は頼むよ…。』
その意志を紺碧の瞳から汲み取ったチェザーレは、噛んでいた牙を一旦離し、全身に滾る炎の力を牙へと込め直す。
そのまま勢いをもって再び牙を突き立て、アーカイドの体内を巡る血液を沸騰させた。
キュアアアァァオオォォ……
先程の咆哮とは打って変わった澄んだ咆哮を上げ、長い首を巡らせてチェザーレを振り払い、氷が溶けた水上に盛大な水しぶきを上げて倒れ伏すアーカイド。
強烈な痛みをもって意識を失わせることに成功したと確信したが、このままでは海の底に沈んでしまいかねない。
焦ったチェザーレは吼える。
『ウンディーネ共!俺が嫌いなのは分かるが今だけ従え!お前らの主を港まで連れていけ!』
魔力を乗せた咆哮で強制的にウンディーネに命じ、ゆっくりとだが徐々に港へとアーカイドの身体が流れていく。
それを見守りながら、チェザーレも港へと翼を向けた。
(おのれ、おのれおのれおのれェ…!)
アーカイドを乗っ取っていた蟲は怒り心頭だった。途中までは上手くいっていたのだ、主の求めに応じ、街を焼いて多くの命を喰らい、魔の力を高めることが出来る。ついでに主の望む娘も捕えれる手筈だった。
どこでそれが狂ったのか、蟲にはそれが分からない。
再び海竜の意識を乗っ取ろうにも1度意識を取り戻した海竜の意識防御の壁が固く、入り込めない。
元々、弱った意識の隙をついてようやくモノに出来たぐらいなのだ。
一度取り戻されては無理な話である。
幸い、この身体のどこに蟲がいて、どう乗っ取ろうとしているかはバレてはいない。このまま息を潜め、再び悪夢をもって乗っ取ろうと考え直し、蟲は再び鱗の裏へと身を潜めた。




