2章
34
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耳を打つ波の打ちよせる音でマリの意識が浮上していく。
もぞりとベッドで寝返りを打って窓の方を向くと、窓際に置かれた椅子でチェザーレが目を閉じて座っている。
赤毛を潮風に吹かれ朝日を浴びる姿に、彫刻めいた美しさがあり、しばし見つめるマリ。
視線を感じたのか、薄い紫の瞳と視線がかち合う。
すぐさま視線を外し、もそもそとベッドから起き上がるとベッドのすぐ下にいたジアンがおはようと顔を上げた。
「おはよう。そいえば、この街にはどれくらい居るの?」
南都ではほぼ何も出来ないままにさっさと移動してしまったのでこの街ではどうするのかとチェザーレに尋ねるマリ。
「マリの居たいだけ居ればいい。」
簡素だが楽しめばいいという配慮に思わず顔が綻ぶ。
とりあえずは朝食でも食べながら考えようと身支度を整えて階下へと降りていく。
階下では朝食時ともあって結構な人が席を埋めていた。どこかに席はないかと首を巡らせるマリ。不意にブラウスの裾を引かれて後ろ下へと視線をやれば昨日いた少女、アイリィだった。
「お姉ちゃん達もご飯?あたしもご飯だから、あっちで一緒に食べよ?」
すっと指さすの階段の下にある扉。関係者以外立ち入り禁止の札がさがったその扉の先は恐らく家族のプライベートエリアなのだろう。
いいのだろうかと思案するマリだが、それに気づかず、ぐいぐいと裾を引くアイリィに引きずられるように扉をくぐる。
「アイリィ!さっさと食べて配膳手伝ってくれ!」
厨房からも繋がっているのだろう、主人らしき男性の声が聞こえる。
はーい!と元気に返事をして厨房に駆けていくアイリィ。
扉の先には4人がけの小さなテーブルと椅子があり、1人分の食事が置いてあった。
アイリィの背を追うように視線を厨房にむけると、昨日の女性、リリィと呼ばれた母親がひょっこりと顔を出して驚く。
「あらぁ!…ああ、席がなかったのかい?アイリィが3人分の食事を欲しがったのはあなた達の分でしたか!」
直ぐに納得して破顔し、狭いけどどうぞ、と椅子を勧められ、すぐ持ってきますね、と去っていく。
ふわりと鼻腔をくすぐるいい匂いと共にリリィ母娘が両手に料理を持って戻ってきて、チェザーレとマリの前に置いてくれた。
足元にいたジアンには炙った程度の大きな肉の塊と火を通した魚がどんと置かれた。
「美味しそう…いただきます!」
少し硬いバゲットのようなパンと、魚介類が中心のスープは香辛料がしっかりと効いて大きなエビが入っていた。
海藻がメインのサラダは塩気のあるドレッシングが絶妙で、硬いパンもスープに浸すと柔らかく味を染み込ませてするすると胃に収まる。
皮をぱりっと揚げ焼きにした白身魚のムニエルのようなメインは淡白な見た目ながら脂がしっかりと乗ったいい魚で、とても美味だった。
それを素直にアイリィに伝えると、嬉しそうにはにかむ。
「パンはね、あたしが焼いたんだよ!スープはお母さんが昨日からゆっくり煮込んだやつなの!お魚はね!カイド様の恵みなんだよ!お父さんが、毎日食べるのに困らないぐらいの魚が採れるのはカイド様のおかげなんだって言ってたの!」
そう言って手早く食事を終えた少女は、お姉ちゃんたちはゆっくりしてってね!と言いながら食器を持って厨房へと駆けていく。配膳の手伝いに行ったのだろう。
食後のお茶をゆっくり飲みながらそれを見送る。
「いい街だね…何日かここであちこち見て回りたいなぁ…」
ぽつりと呟いたマリに同じようにお茶を飲んでいたチェザーレの視線が向く。
「そうすればいい。俺も否やはない。」
「ここの亭主は肉の焼き方を分かってるやつだ…オレも賛成だぜ!」
大きな肉の塊を食べ終え、くっついていた骨を齧りながらジアンも尻尾を振って賛成する。
その様子に笑いながらじゃあ、まずは街を見に行こうよ、と提案したマリ。
食器を片付け、厨房まで持っていくと真っ黒に日焼けしたガタイのいい男性が笑いながら受けくれた。エプロン姿から見るに、彼が先程の料理を作ってくれたのだと察したマリ達は各々に礼を言う。
肉の焼き加減を褒めたジアンはわっしわっしと頭を撫でられていた。
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街の中心にある広場の中央には竜と少女を象った美しい石像が鎮座し、その台座は大きな噴水になっていた。
あちこちにベンチや椅子が置かれて休憩しやすいようになっていて、大通りの喧騒も驚くほど聴こえない。
ここで屋台を広げることは禁止らしく、住民や旅人の憩いの場として多くの人が利用している。
マリたちは屋台で買った串焼きを頬張りながらゆっくりと広場の中を散策する。
道行く先々でジアンは子供たちにおっきいー!もふもふー!と群がられて大人気だった。
子供を捕獲にきた母親がいうには、魔獣という生き物がいる以上、凶暴になりやすい犬の類はあまり飼われなくなったらしく、時折来る触れ合いサーカスのようなものでしか見れないのもあって、ジアンのように大きく、また大人しい動物は珍しいのだという。
その話を聞いたジアンは積極的に子供に触れさせ、背に乗せていた。
そのまま大通りを色々な店を見ながら通り抜け、港らしき場所にたどり着く。
日焼けしたイカつい男たちが大声で喋りながら網や漁具、船の手入れをしている。
大きな商船も沢山並び、そちらは筋骨隆々の男性が一抱えもある樽や木箱を運んでいた。
そのあまりの規模にぽかんと作業を眺めるマリ達。
そこに、一隻の漁船が戻ってくる。
船の先頭には立派な海竜を摸した像が綺麗な青い瞳で先を見据えている。
次々に降りてくる漁師たち、一様に顔には不満と、困惑と、悔しさが滲んでいた。
その中に知った顔を見つける。
マリ達が泊まっている宿の厨房にいた、アイリィの父親だ。
「あの…!なにかあったんですか?」
「おう、嬢ちゃんたちか。いやなに、外海の方に出てたんだが、今日に限ってなーんも採れなくてな。いつもは困らないぐらいは採れるんだが…」
マリたちに声をかけられ、そう答える。
短く刈り上げた髪をがしがしと掻きながら参ったぜ、と苦笑する。
直ぐには困ることではないが、続くと困る。カイド様が来た時に相談しなくちゃだなぁ、とボヤいて、船からの呼び声に応えるように立ち去る。
「アーカイドさんになにかあったのかな?」
チェザーレに尋ねるマリ。チェザーレもまた、険しい顔で海を見つめていた。
「どうだろうな…残念ながら海は俺の領域じゃない、ほとんど何もわからん。少し様子見だな。」
髪を巻き上げる潮風に、髪を抑えながらそうだね、と呟く。
マリの目にも海は普通の美しさを見せる。
だが、何となく腹の底から言いようのない不安が押し寄せてきている気がした。
それを振り払うように、そろそろ宿にもどろうよ。と促す。
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深い深い海の奥底に走る海溝を利用して、アーカイドが住む宮殿がある。
白い大理石と珊瑚が使われた美しい宮殿の奥に、アーカイドの私室がある。
彼に仕えている海獣や、海に住まう精霊たちは、その部屋を心配そうに見つつ、近づけないでいた。
休んでいる主を慮った配慮だったが、海が彼の心を表すように徐々に異変をきたしてきていた。
そうして、一体の水の精霊が意を決してドアを開けた。
『我が主よ…どこかお加減でも悪いのでしょうか…?』
そういって、ドアの隙間から顔を覗かせる。
果たして、彼女の主人はぐったりとソファに体を横たえていた。
その様子に駆け寄ろうとするが、彼女の入室に気づいたアーカイドが顔を上げる。
「ああ、レインティア…大丈夫さ、少し疲れただけだよ。海の様子がおかしいんだね?数日で僕の調子も戻っているだろうから、心配いらないよ。」
レインティアと呼ばれたウンディーネはその言葉に直感的に訝しんだ。しかし主の言葉である、逆らうことはせずに、そっと頭を下げて退室した。
不安そうに集まっていた部下たちに何でもなかった、と主の意向を告げて、自身はふわりと海上を目指す。
ここは海上にも、人間たちがる大陸からも離れている。今すぐにどうにかなるとは思えなかったが、万が一も有り得る。
微かに彼女の胸に過ぎる不安と、それとは別に言いようのない不快感が大陸から感じる。
これは、彼女が大嫌いな火の精霊の気配だった。
ここまで強烈な火の気配を感じれる精霊など、竜王の契約精霊以外いない。
かの精霊がいるならば、きっと竜王もいると踏んだ彼女は、少しづつ荒れだした海を泳ぎ進める。




