2章
30
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館の玄関先に立っていた初老の身なりの綺麗な男性が、家令であり、旦那様のもとまでご案内いたします、と丁寧にお辞儀してくれた。
それに従い、チェザーレとジアンに左右を挟まれて広い屋敷に入ったマリ。外観同様、中もとても美しかった。
玄関入ってすぐにある大階段を、本当にこんな造りなんだ…と1種の感動をもって見上げていると、中央で左右に別れた階段の右側から手すりに手を添え、ゆっくりと降りてくる女性がいた。
「いらっしゃいませ、お客様方?どうぞ、ごゆっくりしていらして…?」
桃色のドレスを纏い、美しい金の髪を背に流し、濡れるような漆黒の瞳を笑みに細めたシンシアは、じっとマリを見つめる。
そっと、胸元のブローチに手を添えて声にはならない何事かを呟いた瞬間、劇的に変化したものがあった。
「きゃああぁぁっ…!」
布を裂くような悲鳴が館に広がる。
階段の半ばで突然叫び、蹲るシンシア。
バタバタという足音と共に現れたのは初老にさしかかろうかと言う男性と、広場で見た青年、そしてミースだった。
「シンシア!!貴様らシンシアになにをしたァ!」
蹲るシンシアに駆け寄り、顔を覆って呻く彼女を抱き寄せながら階下にいたマリたちに激昂するガレン。
マリ達の周囲を騎士が囲い出す。
キョトンとするマリと、姿勢を低くして唸る寸前のジアン。チェザーレも油断なくシンシアを見つめている。
マリの足元の影は、本人のそれとは思えないほどに広がり、漆黒の乙女が上半身だけを影からだして腕を広げてマリを庇うような仕草をみせていた。
「い、一体何が起きたのだ…」
呟くようなモーデルトの声にはっと家令の男性が我に返る。
「だ、旦那様!騎士団の方をお下げください!そしてガレン様!今すぐその化け物から離れてください!!」
そう、力いっぱい叫んだのだ。
「ばけ…え?なにを言っているのだ…シンシアは…グッ!?」
家令の男性に向かって信じられないというようなガレンが不自然に揺れ、くぐもった声が漏れた瞬間、チェザーレが動いた。
一足で階段に飛び乗り、蹲ったシンシアを蹴り飛ばし、ガレンから強制的に引き離す。
脇腹を押さえて倒れ込むガレン。
「ミース!医師か神官を呼べ!急げ!」
シンシアとガレンの間に立ち、視線をシンシアから動かすことなくチェザーレが声を荒らげる。惚けたままだったミースはその声に我に返り、踵を返した。
「シェイドに気づかず闇魔法を使って跳ね返され、潮時と判断したか…」
チェザーレは顔に手をやり、地味な髪と顔が綺麗な赤毛と端正な顔に変じる。
その言葉にゆらりと立ち上がるシンシア。よろけるように階段の手すりに手を付きながら顔を覆っていた手をだらりと垂らし、手に握った小さなナイフを捨てる。
「アハッ…アハハハ…あーぁ…潮時かなぁ…?結構上手くいくと思ったのになァ?ずるいよ、お前…そんな地味なくせにいっぱい護ってもらえてさ…アタシだって…!」
壊れたように嗤うと、どす黒いモヤがシンシアを覆い尽くし、モヤが晴れた時にはそこには漆黒の人型をした影が居た。
目も耳もないが、裂けるように笑う口だけがある。
その口から吐き出される恨み言はマリへと向けられる。
「お前の主人は誰だ、答えろ!なぜ、闇に堕ちた!」
マリに向けられる言葉から庇うようにドッペルゲンガーとマリの間に身体を差し込むように数歩動き、ドッペルゲンガーに問いかけるチェザーレ。
「馬鹿だなぁ…ほんとみぃんな馬鹿。素直にこたえるわけないじゃん?アタシを封じたあの方も、アタシをこんな使い捨てにするあの女も…!みぃんな堕ちればいいのに!」
そう叫んで再び高い声で嗤いだすドッペルゲンガー。
同時にチェザーレの足を影から這い出た手が掴む。
そちらに意識を一瞬もっていかれたのを見逃さず、ドッペルゲンガーは階段中央の正面にあった大きま窓を突き破り、空へと飛んだ。いつの間にか背にはコウモリのような羽が生え、風を捕まえて高速で屋敷から離れようとする。
「俺が追う!ジアン!」
「任された!」
足元に生えた手に真っ白な炎が絡みつき、瞬時に燃えて消える。
チェザーレも、普段は耳にかかる程度の赤毛が燃え盛り、背中まで伸びて毛先は真っ白な炎そのものだった。
側頭部からは黒と赤が混じった角が二本生え、背には深紅の翼が広がる。
爛々と輝く紫の瞳には縦に瞳孔が割れ、逃げたドッペルゲンガーを捉えている。
ジアンの答えとともに空へと舞い上がり、ドッペルゲンガー以上の速度で追い始めた。
「こっちです!急いで!!兄様が…!」
状況についていけてない人間たちを現実に引き戻したのはミースの声だった。
医師らしき老人の手を引いて駆けてくる。
モーデルトは慌てて倒れるガレンを抱き起こす。到着した医師は年齢の割に素早くガレンの血まみれの服を脱がせ、鞄から取り出した瓶に詰まった薄い緑色の液体を患部に振りかけた。
じゅうじゅうと液体が蒸発するような音と、呻くガレンの声に、ミースは思わず目をつぶる。
状況を見守っていたマリ達もゆっくりと階段の踊り場へと向かう。
「幸い傷口は浅いようです。ですが失った血が多い、暫くは安静にしてください。」
医師の言葉に、ほっと息をつくモーデルトとミース。
マリは破られた窓から外を見る。時々空が光っている。チェザーレは大丈夫だろうかと心配になる。そんなマリの様子にジアンが大きな体を擦り寄せながら、
「チェザーレなら心配いらねぇよ、むしろ、ブチ切れてたから、ドッペルゲンガーの方が心配なぐらいだぜ。」
安心させるように優しい声でそう言った。
「うん…。」
意識をそちらから引き剥がし、モーデルトに支えられながら上体を起こしで座ったガレンへと視線を向けると、ガレン、ミース、モーデルトと視線が噛み合った。
「すまなかった…」
ぽつりと、ガレンが呟く。
その謝罪は、マリと、ミースに向けられていた。
その綺麗な碧眼には光が戻り、ドッペルゲンガーから離れたことで、その呪縛から解き放たれたようで、文字通り憑き物が落ちたようにスッキリとした顔だった。
「数日前、シンシアが熱をだして倒れたことがあったのだ…。その後からだ、シンシアに逢う度、思考が鈍く、溶けていくようだった。しかしそれがとても心地よくてな…。それこそがあの化け物の術だったのだろう…。」
そう、告白するガレンに、ミースが抱きつく。
涙を堪えて兄様を取り戻せてよかった、と小さく呟いて。
「なんという…ならばシンシアの家の者は…」
自分の預かり知らぬところで起きていた事態に愕然とするモーデルト。
それに答えたのはマリの傍でお座りをしていたジアンだった。
「シンシアも含めて、多分もう全員食われてると思うぜ…。」
その無慈悲な答えに俯き、ガレンの顔が歪む。恋人を失った悲しみ、それに気づかずにいた悔しさ、そして領民一家族を魔物に食われてしまった責任がガレンに重く伸し掛る。
ぎゅっと拳を握り、顔を上げてマリに視線を向けると、マリの後方、破られた窓からふわりと赤毛の男が降り立った。伸びていた髪は元の長さに、角も引っ込んでいた。
「戻ったぞ。ドッペルゲンガーは世界に還した。残念ながら飼い主の事は何一つ喋らなかったが…」
そう言いながら広げていた深紅の翼を畳み、そのまま炎を纏って翼が消える。
座り込んだガレンを見下ろし、顔色は悪いものの命に別状が無さそうだと判断し、あの場できちんと動けたミースの頭を撫でる。
「わわっ…!えへ…へへ…兄様が返ってきてくれて良かった。」
頭を揺らしながら涙目でそういうミースに、ガレンはもう一度謝る。
この小さな弟はいつの間にか大きく成長していたのだと思い知った。
「お客様方、この度は我らを助けて下さり、ありがとうございます…改めて礼がしたい、どうか日を改めてもう一度お越しいただいても良いだろうか。」
ガレンを支えながら言うモーデルトに、チェザーレがマリへと視線をやる。どうするのか、と。
マリは僅かに思案して首を横に振った。
「これから、きっと大変だと思います。領民にも少なからず混乱が広がるでしょう。できればそちらの方に注力してください。私たちは、早いうちにこの領を出ます。また、遊びにくるので、その時には泊めてください。」
ぺこりと頭を下げてそういうマリ。
ジアンもうんうんと頷いて尻尾を振っている。
チェザーレもまた、
「恐らく、ドッペルゲンガーはマリを狙ってきていた。お前たちは丁度よく巻き込まれたに過ぎない。ならば、早めにここを離れた方が、俺たちのためでもあるんだ。」
そう付け足して、思い出したように幻影魔法で顔を隠す。
地味な顔の青年と、狼を引き連れた少女は、領主のせめてもの礼だという、金貨と南都の領主直筆の通行証を貰い、西に向かう乗合馬車へと乗り込んだ。
この通行証、南都内では交通費全てが領主持ちになるという破格の通行証で、馬車の御者が信じられないものを見るようにマリ達を見ていた。




