4章
106
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翌朝、マリは心地よい温もりに包まれて目が覚めた。
この温もりが何なのかはすでに分かっており、昨夜起こった事を思い返す。
言いようのない不安に似たざわめきが胸を突くが、果たしてそれは自分のことを知りたくないからなのか、聞きに行く相手のことを考えての不安なのかは区別がつかなかった。
「おはよう、チェザーレ。」
もぞりと顔を上げてすぐ上にある端正な顔を見上げて言えば、薄い紫の瞳が心配げに眇られて見下ろしてくる。
「ああ、大丈夫か?」
腕の中から抜け出し、ベッドから降り始めたマリに声をかけると、一瞬キョトンとした後に、微かに笑って、うん、と少女は返した。
その返事にどことなく違和感があったが、それが何なのか分からず、そうか、と返してチェザーレもベッドをおりる。
「朝ごはんの準備、手伝ってくるね!あ、エンが少し小さくなっちゃってたみたいで…、チェザーレの力を少し分けてあげてくれないかな…。ご飯の時まで預かってて!」
ぱたぱたと着替えを手にし、マリの不安定な感情をモロに受けてすこし縮んだエンをチェザーレに押し付けてから部屋を出ていく少女。
普段ならば彼らが出ていくところだったが、それを言う間もなくさっさといってしまった。
「あ…、香辛料が少し足りませんね…。」
朝食の用意をしていたメリアに合流し、テキパキと準備し始めてすぐのことだった。
火を見ていた彼女が小さな瓶を手にして困ったように呟く。
「あ、じゃあ私宮殿の厨房でもらってきます。」
磨いていたお皿から顔を上げてマリが言えば、ちらりと火を見てから首を振るメリア。
「いいえ、あなたを危険な目には合わせられません。香辛料は我慢して頂きましょう。」
そう突っぱねるメリアの手から小瓶をつまみ取り、とっとことドアへ走るマリ。いつになく行動的なそれが、メリアの虚を突いたのだろう。
制止する声を背にぱたぱたと走り出す。
瓶を握り、朝日が登りかけた迎賓館の外へと出る。
薄暗いと言ってもいいその時間の、静まり返った静寂と、少し冷える空気を肺いっぱいに取り込んで、メリアが来る前に、と宮殿へと駆け出したマリ。
歩哨の兵士に、厨房の場所を聞き、キョロキョロしながら歩いていると、ひとつのドアを開けて出てくる青年。
「おや?お早いですね。こんな所で、どうしましたか?」
ニコッと笑う青年は昨日マリ達と共にこの国に戻り、買い出しという調査の時にマリを探していた、ルミルだった。
「…、法皇と、夢の話がしたいんです。」
ぐっと瓶を握り、意を決して言えば、にこやかだった彼の表情がストンと抜け落ちる。
次いで僅かに頭を揺らし、それが頷きだと気づいた瞬間、そっと肩に手を置かれ、何事かと思った矢先に、マリの視界が暗転する。
ぐにゃりと歪んだ視界が、ボヤけから正常に見えるようになった時、彼女は見知らぬ部屋に立っていた。
どっしりとしたソファセットと、その奥には重厚な執務机、背もたれのしっかりした椅子は、机の方ではなく、背後にある窓の方に向けられていて、そこから誰かが立ち上がる。
真っ白な神官服に、背中にはおおきな時計を摸した精緻な刺繍が錦糸で施されている。
袖や裾も、細やかな刺繍が美しく、その上には銀色の髪が撫で付けられていた。
「思ったよりずっと早かったね…。」
椅子から立ち上がり、ゆっくりと踵を返しながら彼が言う。
こくりと喉を鳴らし、その動向を伺う。
「そんなに警戒しないでくれないかい?大丈夫、私が君に何か手を加えることはないよ。精霊の王に誓って。」
ちゃり、と胸元のシンボルに触れながらそう言う。そしてそっとソファを示して座るよう促す。
僅かな逡巡の後に、マリは浅く腰掛けた。
法皇はそれを苦笑混じりに見てから備え付けの茶器でお茶を入れ始める。
ふわりと香る紅茶のいい匂いが部屋を満たす頃、かちゃりと美しいカップがマリの前に置かれ、法皇が向かいに腰掛けた。
「さて、マリ自身の過去を、知りたいんだったね…。」
こくんと頷く。
警戒心でいっぱいの小さな子猫のような彼女に、苦笑が張り付いてしまいそうになる法皇は、口元を手でマッサージしながら頷き返した。
「よく思い出すんだ、マリ。君が何故図書室の記憶しかないのか…。夢の続きは、どうだったか…。」
法皇の低く耳に心地いい声がマリの中に入ってくる。
そっと目を閉じて図書室の窓際に立つ自分を思い出す。
眼下には楽しげな3人組。彼らは誰だろう、顔がよく見えなかった。
彼女はやがて踵を返し、図書室の奥へと歩き出す。
その先は、真っ暗な本棚の隙間。
そこに、誰かが座り込んでいる。
だらりと手足を投げ出し、冷たい壁に背を預けて、ピクリとも動かないその誰かの顔は、紛れもなくマリ自身だった。
「あ…あぁ…あぁァァアアァア…ッ!」
「まずは、自分を思い出すんだ。その少女が、君だよ。」
突然頭を抱えて膝に顔を埋めたマリに、優しい声が降ってくる。
そうだ、思い出した。私がなぜ図書室の記憶しかないのか、なぜ、ここが嫌いなのか。
(そうだ。わたしは、居場所がなくて、居場所が欲しくて、次に、それを託した…。)
「君の星で今から1年前、君は執拗な嫌がらせと虐めを苦に、自ら命を絶った。君が好きな物語の主人公ならば、そんなマネはしなかっただろう。でも君は、とても心が弱っていた。当たり前だ、君はなんてことないただの人間なのだから。命を絶った君は、次の人生へと望みを託した。だが、そうはならなかった。図書室に、囚われてしまったから。これが、君が図書室しか記憶がない理由。」
法皇の声がすとんと胸に落ち着く。
そうだ、私は気がついたら図書室にいた。
目まぐるしく変わる季節を見た。
誰も自分に気づかなかった。
ひっそりと本棚の陰で好きなだけ本を愛でれた。
望んだ形ではなかったけれど、私はそれに満足していた。
「マリ、君は私たちの王と約束をしたのを覚えているかい?」
不意に問われ、埋めていた顔を上げる。
正面には真剣な顔でこちらを見る法皇。
「やく、そく…?」
乾ききった唇でどうにかつむぎ出した言葉に、彼は頷く。
胸元に手をやりながら、思い出を手繰り寄せるように、彼が口を開いた。
「そう、約束。星々を渡り、生命としての成長を求める我らは、青い星で君をみつけた。正直、虐めを苦に自殺した、なんて話はその星じゃ少なくはない。普段ならば君が王の目に止まることなんて無かったんだ。けれど、気まぐれに空を漂っていた王を、君は図書室から見上げていたね。地縛霊というものに馴染みがなかった王は、君のいる図書室に降り立った。」
そこまで聞いて、朧気ながらに思い出す。
白とも黒とも見えるような妙な玉を見たことを。
その玉に、覚えている限りの知識と、そして、
「別の世界なら、楽しく生きれるかな…。って話した…。」
「そう。君はそれを我が王に願った。我が王はそれを叶える代わりに、あの世界のマリの存在全てを王のものにした。王と、ひいてはあなたの願いを叶えるために、私たちはあちらの世界で1年。こちらでは10年の時を動かしました。」
そう言った法皇の顔は、その10年を思い出しているのか、マリを通して遠くを見ているようだった。
書きたかったシーンの1つがやっと書けました。
ここから少し物語が沈みますが、どうぞ呆れずにお付き合いくださいませ!




